1 昨日は何の日
目が覚めたら、妻が、
いなくなってた。
田嶋康治は、掛け布団から出ていた体をきゅっと縮めて
くしゃみを一つ、それで目が覚めて、
まだうす暗い外を見た。
壁の時計を確認する。
すぐには時間が分からなかったが、どうやら5時半ちょっと前のようだ。
2本の針が下を向いて、ほぼ重なっているのが見える。
目覚ましが鳴る六時まで、まだ時間があった。
もうひと眠りしようか・・・いやでも、
「っっ・・・」首を振り、頭痛に顔をしかめる。
〈二度寝には、魔物がひそんでいる〉
高2の時に、クラス担任が言ってたのを、今でもよく思い出す。
それ以来20年、なるべくその「魔物」に襲われないようにしていた。
しかし、眠い・・・。そして、なんだこの頭痛は。
「ゆうべも遅かったしなあ・・・」
独り言を吐き、うつぶせになる。この体勢が気持ちいいのは疲れている証拠らしい。
頭の芯がしびれるような心地よさに襲われた。
手を横に伸ばし、となりの布団にさし入れる。
妻のゆかりにちょっかいを出そうとした気まぐれは、しかし空振りに終わった。
「ん?」
康治はサンショウウオのように腹ばいで進み、完全にゆかりの布団に移ってみる。
しかしそこにはほんのりと温もりが残っているだけ。
向こうで眠る5歳の娘・美緒に、伸ばした手がぶつかった。
「トイレやな」
勝手に納得し、そのままゆかりの布団にひそむことにした。
彼女が戻って布団をめくったときに驚かせてやろう・・・どんなセリフがいいか・・・
考えている間に、二度寝の魔物に襲われていたらしい。
『ピピピピッ ピピピピッ』アラームが鳴りだした。
あわてて自分の布団に戻り、いつものようにアラームを止めて、ふりむく。
まだ戻っていなかった。
「・・・30分もか」
近ごろ、便秘ぎみだとは聞いていたが・・・。
「朝から大変やなぁ」
眠い目をこすりつつ寝室を出る。どっちにしても、起きて仕事に行く時間だ。
しかし、二階のトイレの方をふと見て、
固まる。
電気がついていない。
まだ少しうす暗いのに。
早く起きて朝食を作っているのか?でも、そんな音も香りも一切しない。
家全体がひっそりと、何かを隠して息をひそめているようだった。
「え・・・?」何かがおかしい。思わず声がもれる。
と、それを察したかのように、後ろの布団で美緒が目を覚ました。
「・・・んー」
「お、おはよう」ふり返り、声を掛ける。
「おはよう・・・おかあさんは?」
眉根を寄せ、不安げな顔になって聞いてきた。
自分が30分かかって(その間寝ていたとはいえ)「おかしい」と勘づいたことを、
最初から分かっていたかのように敏感に感じとるとは。
さすが、母と娘。
―いや、今はしみじみしている場合じゃない。
「ちょっと待っててな」と言い残し、電気をつけて階段を下りる。
1階のリビングにも、キッチンにもトイレにも風呂場にも、妻の姿はなかった。
あわててパジャマで外に出ると・・・
車がない。
「え・・・なんで・・・」
混乱し、フラフラとリビングに戻る。
ふと食卓を見ると・・・メモが置いてる!
すがるようにして拾い上げた。
そこには、ちょっと角ばった、ゆかり独特の文字が記されていた。
『実家のほうに行ってます』
「は?」
何で急に?
ゆうべもそんな話、ぜんぜん聞いてな・・・
いや、違った。仕事帰りに同僚と飲みに行って、日付が変わって帰ったんだった。思い出した。
そのときには彼女はもう寝ていた。
何か急用があったのか?
しかし、それならそう書いてくれないと、これでは何があったかわからない。
不安と不満でグルグルしだした頭を抱えながら、電話に向かった。ゆかりの携帯にかけてみる。
運転中かも知れないが、早く事情を知りたかった。
「プルル・・・」『ターララ ララララ ターンターンターン』
耳元で呼び出し音が鳴ったのとほぼ同時に、リビングで彼女の携帯が鳴りだした。
設定している着信音が、やけに間抜けに響く。
「マジか・・・」
わざと置いて行っているのか。持って行き忘れたのか。
どちらにしても連絡はとれない。
焦った康治は、ゆかりの実家にかけることにした。早朝だが仕方ない。
「プルルルルル・・・」同じように呼び出し音が鳴る。祈るような気持ちで待った。
『はい・・・福本です』
眠そうな声。彼女の母親だ。旦那さんを亡くし、一軒家だった実家を引き払って、
アパートに一人で住んでいる。そこが今の「実家」だった。
「あ、お義母さん、康治です。おはようございます。朝早くからすいません」
『ああ・・・康治さん。どうしたん?こんな時間に。なんかあったん?』
どうやらゆかりはまだ、着いてないらしい。康治は手短かに事情を説明する。
『そうなん・・・?来るていう話は聞いてへんけどねえ』
「そうですか・・・。わかりました。朝早くからすいません」首をひねりながら電話を切る。
おそらく受話器の向こうでも同様だろう。
―それか、本当は到着していて、ゆかりから隠すように言われているのか?
もしそうなら事態は複雑で深刻だけど・・・でもお義母さんの声の感じは、
そんな演技してるようじゃなかったしな・・・。
ハッキリさせようとしてかけた電話で、かえって謎は深まってしまった。
「おとうさん・・・どうしたん?」
階段の上から声がして見上げると、ぬいぐるみを抱いた美緒と目が合う。
「ん・・・ちょっとね」あいまいに返事しながら、状況を整理しようとした。
しかし寝起きの頭は混乱するばかり。
どこに行ったのか?
何をしているのか?
『実家のほうに行ってます』というだけでは・・・
「あ」
そういうことか。
『実家のほう』は『実家』とは限らない。
一昔前に「消防署のほうから来ました」と消火器を押し売りする詐欺があったが、それと一緒だ。『実家方面のどこか』ということだろう。
なるほど。しかし・・・
「結局、どこよ・・・」
まったく見当がつかなかった。
「おかあさん、いてないん?」
トントントン・・・と階段を下りながら美緒が聞いてくる。
「あ、ああ」と返事すると、「なんで?」と泣きそうな声を上げた。
(それはこっちが聞きたいよ!)
思わずそう言いかけたが、ぐっとこらえる。
「ばあばのおうちに行ってるって」ととっさに答え「そうなん?」と不審げな声に
「今日は、お父さんが送ってくよ」と、わざと明るく宣言した。
そして「えーっ」と言われたのを聴こえないふりしながら
「さあ、朝ごはん、何にする?」そのままのトーンで聞く。
「ぱんっ!」
大声で即答されて一瞬びっくりしたが、「パンが食べたい」ということだと気づく。それにしても、
「・・・パン?」
康治はご飯派だった。いつも自分でおにぎりを作って六時半には家を出て、
通勤の間に車で食べていた。ゆかりと美緒が起きるのはその後で、
同じようにご飯を食べているのだと何となく思っていた。
考えたら、2人はパンの方が好きなのかもしれない。
「いつもパン食べてんの?朝」と聞いてみると、「ううん」美緒は首を振って、
「だって、きょうはもくようびやろ?」
「え?ああ、そうやけど」何の関係が?
「もくようびは、ぱんのひなんやで」
胸を張り「そんなことも知らないの?」という顔をする。
実際『木曜日はパンの日』なんて知らなかった。二人でそう決めていたのか。
戸惑う彼を背に、娘はリビングに座る。
置いているポータブルDVDプレーヤーを開き、何やらボタンを押していた。
たまの休日には彼も見たことのある風景だ。
それでも、この前見た時は、自分ではなかなか開けられず、
こっちに「あけてー」と持って来てたのに。
「開けられるようになったんやな・・・」
独り言に、画面を見ながら「うんっ」と答える美緒。
自分の知らないルールが増えてたり、できなかったことができるようになったり。
―少しの間に、こうも変わるのか・・・
感心していたが、ふと我に返る。ゆっくりしている場合じゃなかった。
とりあえず、職場に電話だ。
「プルルルルル・・・」この時間に電話すれば、出るのは・・・
『はいっ、和歌山青少年支援センターです』いつも7時に出勤している事務員の川野さんだ。
朝が早いかわりに、帰りは必ず定時。
他の所員が8時半ギリギリに出勤して何時間も残業している中、
結果的に一人でフレックスタイム制をとっているような人だった。
驚いた声の川野さん。無理もない。こんな早くに電話なんてまず無いだろう。
康治は続ける。「えっと、あの・・・支援員の田嶋です。おはようございます」
『あ、おはようございます』
「実は今日・・・娘を、その・・・保育所にですね、
送って行かないといけなくなって・・・」
『そうなんですか』
「1時間ぐらい遅れると、所長に伝えてもらえますか」
『あ、はい、わかりました』落ち着いた声になった川野さんとの電話を切る。
これで、送っていくのはなんとかできそうだ。初めてだが。
しかし迎えにはとても行けない。仕方なく義姉・彩恵に頼むことにした。
「プルルルルル・・・」
呼び出し音が鳴り始めてから、こんな朝早く、携帯にかければよかったと気づく。
まだ頭が混乱しているようだ。
切ろうとしたら音が途切れた。『もしもし、友野ですが』
「あ、もしもし、康治です」
『ああ、ヤス君。どうしたん?』
よそゆきの声から半オクターブ下がった彩恵の声。事情を説明すると『ふーん』と答える。
驚くでもない意外な反応に戸惑っていると、
『そりゃ、あれだ、家出だ』
ポーン、と音がするような、軽い声で言う。
「は?家出?」
35にもなって?
旦那と娘がいるのに?
突然の展開に、康治は面食らって言葉を失った。
『そりゃ、家出したくもなるわ』
あくまでも平然と言い放つ義姉。ちょっと腹が立って「何でよ?」と言い返すと、
『昨日は何の日だ?』
と返ってきた。
え?昨日?
昨日・・・昨日・・・
2月の・・・9?いや10日か。
「あっ・・・」
リビングのカレンダーを見た康治は固まる。
昨日の欄が、ピンクの蛍光ペンでマークされていた。
全然気づかなかった。
昨日は・・・何の日だ?2月10日、10日・・・
「・・・そうか」
昨日・2月10は、康治とゆかりの10回目の結婚記念日だった。