序章
少年は考えた。
なぜここにいるのだろう、と。
丘にひっそりと立つ影、その眼差しは深く、瞳は黒、風に流される髪も同じく黒色をしていた。
少年は生まれた時から記憶があった。
まず眩い光が飛び込んできて、温い感覚がまとわりついている。血液とそれを拭うように白いタオルがまかれる。
そのまま誰かに抱き上げられる。
うっすら目を開けると自分を抱いていたものがはっと息をのんだ。女だ。初めて見たものだが、それが女だと理解する。女、性別、人間。軽く見開かれた目元、丸くあいた口元には複数の線が入り、それがしわ、加齢を表すと少年は知っている。いや、何かが自分に知識を与えているのだ。白い服を着ている。その服が何を表すのかまではわからない。
女以外、別の何かが自分に影を落とす。自分を抱いている女よりも、はるかに背が高い。男だ。自分を横から覗き込むようにしていた男と目があったとたん少し離れたところにいる女を怒鳴り始めた。その男の足に寄りかかっていた少女は驚きで固まっている。
男の大きな声が響く。
なんだこの髪は、なんだこの目の色は、と。
女は疲れているのかぼんやりしており、ベットにもたれかかっている。かすかにその声に反応して、疲労とは別の感情により眉が寄せられる。
周りはなにも言わず、そっと二人を窺うよう息を潜めている。三人ほど最初の女と同じように白い服を着ているその者たちは、部屋の奥に身を寄せていた。顔に浮かんでいるのは戸惑い、哀れみ、少しの好奇の色。
状況が分かったわけではないだろうが、部屋の異常さを感じ取った少女は泣き出した。
自分を抱いていた女が少女の泣き声にはっとして半分押し付けるように、自分をベットにいる女に渡す。
近くで見たその女の顔は青ざめ、呼吸は荒かったが目は輝いていた。自分はやり遂げたと達成感のある顔をしていた。だが、その女も自分の顔、目をみた瞬間、絶望を身にまとう。
唇が震え、なぜという言葉が聞こえた。なぜ、なぜ、なぜ。
こんな目を。こんな髪を。した子が生まれるの。
その後知ることになのだが、自分を今抱いている女は自分の母親で、未だに喚いている男は父親、泣いている少女は自分の姉。
三人とも緑色の髪に青色の瞳。色の濃さはあれど共通していた。
つまり黒い髪に黒い目。自分だけが異質だったのである。
正直、よくこの年まで生きることが出来たなと思う。
成長しても黒い髪黒い目はそのまま。
生まれてから12年が過ぎた。
この日ついに自分はこの村を出ていく。
ある程度成長し、家の外に出るようになると、この容姿は自分が住んでいる村にとっても、珍しいものだと分かった。両親や姉の緑色の髪は珍しくなく、ありふれていた。自分と同じような色をまとうものはいなかった。
だからこそ、両親の仲は壊れた。
産まれてから毎日続く公論。
いかに母があなたの子だといっても父は信じず、家に帰ってこない日が続いた。
たまに帰れば酒を飲み、母を罵倒し、外へまた出ていく。
母は初め自分に対して無関心であった。泣いても抱き上げず、授乳の際は顔を合わせない。
姉はそんな父と母に戸惑っているようだったが、小さな弟は嬉しかったようでかまってくれた。姉はいつも緑色の布を自分にかけてくれた。それがあると温かくぐっすり眠ることが出来た。そんな二人を見るうちに母が笑うようになり、家には明かりが灯すようになった。
そんな様子をみてますます父は荒れたが、母はその頃には吹っ切れているようだった。
段々父は家に帰らなくなった。姉は初めよく寂しがり泣いていたが、次第に慣れたようで、ぐずることもなくなった。
たまに姉が悲しがり母にすがると、少年と一緒に抱きしめながら、大丈夫、希望が共にいるわと微笑んだ。母は希望という言葉が好きなようで、よく使った。正直、経済的にも環境的にも豊かではなかったため、希望も何もあったものではなかったが、不思議と明るい気持ちになれた。
年月は進み、自分が4歳になったころ母が急死した。
父はしばらく家に帰っておらず、母は家のため身を粉にして働いていた。無理がたたっていたのだという。
夜眠る前に同じベットにいる姉にせがまれて母は物語を話していた。姉の寝息が聞こえて、母は話を辞め、おやすみと呟き姉の額に口づけをする。それが最後の動いている母だった。小さな自分は同じベットではなく隣のベットで寝ていた。まだ、目は冴えていたが母の寝息が聞こえ、緑の毛布を首まで上げ眠りにつく。
母はその日、最後まで自分を見ることはなかった。
闇にいるような気分、常に夜の世界にいるような気分で母の今までを思い出す。
しかし、やはり昨夜の自分を見てくれない母が思い浮かぶ。
ふと疑問が浮かんだ。母が愛したのは自分ではなく小さな子を慈しむ娘だったのではないか。
たまたまそこに自分がいただけ。自分を愛していたわけではなかったのだ。
吹っ切れていたのではない、受け入れることをやめていたのだと。
母の葬式。姉が泣いている。姉に共鳴するように雨が降っている。両親から祝福され愛されている姉が。涙を流したら拭ってくれる人がいる姉が。少年は傍らにそっと寄り添う。
どうしても涙はでなかった。
訃報受け父が帰ってきた。その頃には母は土の下におり、自分たちは近所の家にお世話になっていた。父が姉に駆け寄り抱きしめる。
ごめん、ごめんなエレナ一人にしてごめんと震える声で泣いていた。姉も体を震わせ、父を抱きしめて泣いた。その後母の墓に行き、そこでも父はシーナすまないといって泣いた。
シーナ、母の名だ。母はよく周りの人から声をかけられる人だったので、それが母を表すものだと早々に気づいた。紫色の薄い花の名と同じだ。その花はありふれているが、毎年春になると花を咲かせ、見るものを暖かい気持ちにさせる。母もそのような人だった。父の名はアレン。アレンとは勇気という意味を持つ。ほとんど家にいなかったので知らないが、昔父は村で一番の勇敢な若者だったらしい。怪物退治に出かけ、その怪物を倒したどころか、泉の精から祝福ももらったという。そのような素敵な名をもらっている夫婦であったが、名づけのセンスは壊滅的だったらしい。姉の名前はエレナ、窓という意味を持つ。母曰く、窓のように開放的で閉じこもらず明るく育ってほしいという意味があるらしい。しかし、やはり近所の子どもに名前のことでからかわれている。あまり気が強くなく、言葉もすぐでてこない姉はいつもうつむき悲しそうに帰ってくる。その姉を優しく抱きしめ、力強い言葉で励ましていた母はもういない。土の中で眠っている。
日も落ちてきたが、父はまだ墓の前にうずくまっている。肌寒くなってきた風に押されたのか声をかけず見守っていた人たちも動き出し、励ましの言葉をかけながら父の肩を叩き帰っていく。
空には鳥が巣に帰るのだろうか。鳴き声をあげながら羽ばたいていく。
そこで気づいた。
自分の名前はなんだろう。
名前を呼ばれたことがないというのは少年にとって衝撃だった。
また、自分が今までそれに気づかなかったことにも驚いた。
今、思い返すとそのような場面はなかった。
いつも弟とか赤ちゃん、子どもと呼ばれていたのだ。それを名前として受け入れていたが。
だが、それは総称だとどこかで気づいていた。
他のものも自分に呼びかけるときには名前では呼ばない。
気づいてしまうと自然と気になってくる。
だが、自分の疑問に答えてくれるものがいないことも知っていた。
姉は知っていたなら呼んでいるだろうし、母はおらず、自分を嫌っている父とは会話すら不可能だ。
なので胸の奥深くにこの問いを沈めることにした。
少年は自分の感情を隠すことに非常に長けていた。
近所の家から自宅へ帰ることになった。
父は姉の手を引き、帰ろうとする。姉が自分と手を繋ぐ。そこでやっと父が自分を見た。
忘れていた、いや忘れたくて記憶を封じていたのだろう。
両親は自分が生まれるまで、大層仲の良い夫婦だったという。
その妻の裏切りを信じたくなかったのだろう。
もちろん冤罪なのだが。
その記憶が無理やりこじ開けられたからだろうか。自分を見て、しばらく固まった後、目から大粒の涙が溢れてくる。姉が慌てて父親に駆け寄る。小さな弟の手を引いて。
その様子を見て、父親はどこか諦めたように微笑む。
昔、母親が姉と自分が並んでいるときにしていた表情だ。今となっては、それが姉と自分に向けられているものではないと知った。姉と姉のためにしかたなく世話をしている付属物に向ける表情だ。
とても似ている夫婦だった。
それから7年が過ぎた。
少年は11歳になった。来月には12歳になる。
背は伸び、髪も伸びた。相変わらず、目や髪は黒いままだった。
姉は自分を唯一認めてくれる存在であり、何も出来ない自分の世話を焼いてくれた。
父は自分を見るといつも複雑そうな顔をし、家を出て行ってしまう。
母よりか過ごした時間が長くなってもそのままだ。
いつも自分の手を引いてくれた姉も大きくなり、今17歳だ。
来年には、縁談も来るだろうという年ごろ。
基本的に20歳前後で婚姻を結ぶが、この町では少し早く大体18歳あたりが適齢だ。実際に少年の父と母も19歳で結婚した。
今、姉は周りを特に気にするし、家を出る前の準備の時間は2倍になった。
顔も母親似のおっとり系で、目を引くタイプではないが整った美しさがあった。巷では人気らしい。しかし、自分のせいで姉も異質扱いされたり、はやし立てられることもあるようだ。幼い頃はあまり理解できていなかったようだが、次第に意味が分かり始めたころ、姉は父親に相談していた。少年が眠ったあと、姉はその出来事は話涙を流し、父は聞き慰める。だが、父親は自分に何かをいうことはなかった。
姉の負担になっている自分が、不満を持っているだろうに何もいわない父が、もどかしく煩わしくひどく悲しく思った。
幸い少年には魔力があった。
非力ではないというのは幼い体にとって幸いであった7.7
その力に気づいたのはほんの偶然。
自分が困ったことがあるといつも何かしらが助けてくれた。思うと生まれた時から知識を与えてきたのはこれらだったように思う。姉や近所の子どもには見えないもの。それはふわふわ浮いていて小さな人のような綿毛のような形をしていた。
笑いながら少年にセカイについて教えてくれる。
自分がなぜこんな容姿をしているのかおしえてくれたものもそれだった。
髪や目の色が違うだけで、父や母、姉と血縁があること。
黒い色は魔力の証だと。閉鎖的なこの村は積極的に外と交わらない。
そのため情報が入ってこず、母の不貞を疑うことになっていることなどだ。
自分の周りを不規則に回りながら、それは複数になったり1つになったりしていた。
少年にわかるのは、人間ではなく別の生き物であること。妖精と言われるものが近い存在であること。1人1人は違う色を持つが特に意味はなく、大きな塊になるときは白い光のようなものになること。
それらは新しい世界を望んでいて、自分はその新しい世界を作るために生まれてきたのだということ。
それは歌う。
黒いの、黒いのよ。
新たな世界を作ってほしいと。
妖精が人間に邪魔されない世界。
そのための魔力だと。
黒い髪、目は大きな魔力の証。
2人の子どもではあるが、子どもではない。
妖精が与えたものだと。
両親からは愛されていないこと。
姉ももうすぐしたら自分に飽きるだろうということ。
セカイから見捨てられた存在であること。
だからともに新たな世界を作ろうという。
甘く優しく笑いながら少年の耳元で歌っている。
少年は考えていた。
もうこの村を出るべきか、残るべきか。