外伝06話:ご機嫌麗しきバケモノ殿下(後編) -elVeklkle Jegen-
'20.09/08 前エピソードの続きです。演出等、大幅に変更しました。
外伝06話:ご機嫌麗しきバケモノ殿下(後編) -elVeklkle Jegen-
* * *
ふたりはその場で馬を止めた。
「この話、サイラには内緒にしてくれよ」
王子がカリエクに小声で囁いて、その会話はそこで終わりになった。
カリエクはその「サイラ」――遠くからこちらに駆けてくる陸軍人の姿を眺めた。王子が先に偵察に向かわせていた、《青獅子隊》の隊長だ。
「ホムラ王子殿下」
王子のもとまで走るなり、サイラは馬上から、軍人らしい無駄のない所作で敬礼してきた。
サイラ・マファルカ陸軍少佐。愛想のないつり目に、艶のある黒髪を首のうしろで無造作に束ねた若者だ。少年にしか見えない外見からうかがい知れる者は少ないが、彼女はれっきとした女性軍人である。
「ご苦労、サイラ。状況を聞こう」
は、と短く返事をすると、若き親衛隊長は淀みなく告げた。
「今朝の段階で、犯人はまだ校内にとどまっています。今のところ、逃亡の兆しはありません」
「わかった。ありがとう」
「ただ、ひとつ問題が」
そう前置きしながら、サイラは声を潜めた。
「部下からの連絡によれば、内部監査課の調査チームが、今日中に動くようです」
「内部監査課が……」
内部監査課。以前王子の不正を疑い、逮捕しようとしてきた王国軍の諜報組織だ。
彼らが絡むと厄介なことになることを身をもって知っている王子は、表情を曇らせた。
「連中、潰しますか?」
生真面目らしくピクリとも笑わぬ表情で問いかけるサイラに、カリエクは瞬時にかぶりを振った。
「冗談はよせ、サイラ」
この親衛隊長は華奢な若者に見えて、実は数々の修羅場をくぐり抜けた現役の陸軍指揮官である。王子の親衛隊長を務める傍ら、自在に動かせる自身の中隊の管理もしている。
冗談でもそこで肯定しようものなら、この陸軍人は翌日にでも本当に組織ごと潰しかねない。
「だが、連中に捜査の先を越されるのは厄介だな。なんとしても今日中に解決するしかない、が――」
カリエクがちらりと隊長を見やると、その視線を察したらしい彼女は、先回りした返事をした。
「現時点で有力な物的証拠がない以上、我々は手出ししかねる。無論、法外な処置が許されるなら、即刻連中を永遠に黙らせることは可能だが」
わかってはいたことだ。
打つ手なしの状態に、カリエクはやれやれとかぶりを振った。
「こんなときに限って、『会計主任』が不在だからな」
去年《青獅子隊》に入隊した、公認会計士の資格をもつ隊員は、現在遠方に赴いていて、いつ帰還するかもわからない状態だ。
一年前に、王子が自身の護衛として公認会計士を雇いたいと言い出したときには、それはそれは猛反対したカリエクだが、まさか一年後、逆にその不在を呪うことになろうとは、思ってもみなかった。
公認会計士とは、会計術を操る、記帳と帳簿読解のプロフェッショナルである。
当然のことながら、彼らはただの「デキる事務職」であり、その職務の大半は犯罪捜査でもなんでもない。
だがこの一年間、会計士と護衛任務を共にするうちに、カリエクは認識を改めざるを得なかった。
意外にも会計術は、とかく犯罪捜査に役立つのである。
権力者が犯罪を犯すと、必ずと言っていいほど、どこかで資金が動く。連中は多くの場合、記帳せずにその収支を隠すか、よりたちの悪い連中の場合は、うまいことダミー取引を記帳する。政府への提出義務のある帳簿から、その不審な「粗」を読み解かせて犯罪を暴かせたら、世の中に会計士の右に出る者はいなかった。
ホムラ王子曰く、会計術とは、現実を視る力。そして王子の交渉術は、現実を変える力。
ふたつの力が合わさったとき、それは世にも強力な武器になった。会計士と協力すれば、王子は現実を正しく視て、それを良いように変えることができたのだ。
今回も会計主任さえいれば、今の段階で証拠がなくても、帳簿さえあれば証拠を掴む手がかりを得ることくらいはできただろう。
もっとも、いくら惜しんだところで、いないものは仕方ないのだが。
カリエクがやり場のないため息をもらしたと同時に、口を開いたのは王子だった。
「『俺が』親衛隊の、臨時会計主任になるよ」
一瞬驚きに目を見開いたカリエクは、すぐに冷静に主君を諭した。
「しかし殿下、ここ数日のお勤めでお疲れ様でございましょう」
「大丈夫。王室の労働に対して賃金が支払われることはない。つまり俺は、いくらでもタダ働きさせられる王国の駒なんだ。だから必要なら、いくらでも働くよ」
「タダではなくプライスレスなのです」
咄嗟に反応してから、カリエクは会話が噛み合っていなかったことに気づき、論点を本筋に戻した。
「そもそもそのような問題ではなく、神職であらせられる殿下が、これよりあの専門的な会計知識を身につけることなど、およそ不可能な話で――」
カリエクの話をさえぎって、王子はぽつりと言った。
「分野外の弁論術なら、身につけたよ」
王子はカリエクを見据えたまま、すっと目を細めた。
何物をも透明に映し出す、その無垢で純粋な瞳を見て、カリエクは思わずぞっとした。王子は本気だった。
王子が分野外の弁論術を勉強したおかげで、彼は敏腕政治家を論破し、可決しかけていた国益を損なう法案を退けることに成功した。それ以来王子は、政界の大物たちに警戒されている。
「俺はただの神職だけど、それでも必要に迫られて司法も勉強したし、兵法の基礎理論もおぼえた」
おかげで多くの民を救ったが、それと同時に、司法省と国防省に恐れられる存在になった。
「会計術だけ修得できないと思う?」
王子の覚悟は決まっていた。その目は、どれほどの苦難を乗り越えても、必ず成し遂げる意志を示していた。
カリエクの喉まで、言葉が出かかった。
(どうしてですか、殿下)
どうしてこれ以上、さらに努力してまで成長しようとする。
成長したところで、結局「バケモノ」と周囲に恐れられるだけなのに。
誰かの役に立ったところで、待っているのは感謝ではなく、警戒と恐怖だけだと、王子は嫌というほどわかっているはずなのに。誰よりも努力して得たものの代償が、その全身を這う重苦しい金の鎖だと、王子は知っているはずなのに。
黙って部下を見上げていた王子は、カリエクの「言葉にしていない反論」に対して、おもむろに答えた。
「それはね、市民の救済は国王の努力義務で、王子の俺の存在価値だからだよ。べつに誰かに感謝されたいわけじゃないんだ。憎まれても嫌われても、生憎その手の感情のない俺は、なんら痛痒を感じない。民を救えれば幸せだよ」
淡々と機械的に話す王子に対して、カリエクは「嘘だ」と、心のうちに反論した。
感情がないならなぜ、先ほど、カリエクが宿屋を操った王子を恐れたのではないかと気にしていた。なぜ、そうでないとわかった途端に、あれほどの安堵の表情をした。
感情はないと言いながらも、本当はこれ以上嫌われたくないのではないのか。助けたい相手に嫌われることが何よりもつらいと、今しっかり感じているからではないのか。
王子はおそらくカリエクの思考を読んでいるはずだが、これ以上なにか言うことはなかった。
ただ正面を向いたままに踵で愛馬の腹を圧し、再び道を進みはじめた。
「じゃあこれから、犯人のお宅へ伺おうか。帳簿や書類を見せてもらえば、なにかめぼしい証拠を発見できるかもしれないし」
サイラがすぐに王子につづいて馬を進めるなり、
「しかし」
と懸念を示した。「家宅捜査には、検察の許可が必要です。検察を通すとなると、最低でもあと二日はかかるかと」
「大丈夫。そのために俺がいるんだろう。イスカ国民は『善い人』ばかりだから、少し『お願い』すれば、何でも差し出してくれるさ」
王子はすっと目を細め、精巧につくられた人形のような笑みを浮べた。
この目は、やる気だ。
建前だらけの法治国家で、建前だけで人を動かす気だ。
こうなったらもう、誰も彼を止められない。
「かしこまりました。お供致します」
カリエクは言葉短く告げ、二頭のあとにつづいた。
王子を乗せた馬は、速歩で目的地へと突き進む。
この高貴なる非公式捜査官様はきっと、このまま今日中に王都を震撼させた犯人を逮捕し、事件に終止符を打つのだ。
いつもどおりに――人知れず、迅速に、ご詭弁麗しく。