外伝05話:ご機嫌麗しきバケモノ殿下(前編) -elVeklkle Jegen-
'20 08/29 全面的な演出変更&新規情報追加しました。
'20 09/04 またもや全面的に演出変更してしまいました。少しでもよりおもしろくなったら幸いです。
'20 09/06 編集後、長くなったので分割しました。後編に演出変更がありますが、この話に主だった変更はありません。
外伝05話:ご機嫌麗しきバケモノ殿下(前編) -elVeklkle Jegen-
* * *
宮殿前の市井を抜けると、人通りがすくなくなってきた。
朝の大通りを行き交うのは荷馬車や駱駝くらいのもので、道行く人は、道の脇の建物の日陰に、ちらほらと散見される程度だ。
――ここならもう、いいだろう。
大通りを馬で進む王室護衛官カリエクは、周囲に絶え間なく払っていた警戒を解き、馬で先を行く少年に、慇懃に話しかけた。
「殿下。ご機嫌はいかがであらせられますか」
相手は憲兵の制服である黒い短外套を羽織っているが、実のところ彼は、憲兵ではない。
呼び名を、ホムラ・エルトワイカ・ジエムレシア。御年16歳。
世界一の大国エル=イスカ連合王国唯一の王子にして、正真正銘の次期国王様である。
半歩引いた位置で彼につづくカリエクは、彼のおつきの護衛官だ。
常歩の黒馬とともに揺れる主君の小さな背中を眺めるカリエクは、先ほどから不自然に沈黙を保つ、幼い主の様子が気がかりで仕方がなかった。
王子はやがて、ゆるやかに歩度を詰め、カリエクの横に足並みをそろえてきた。
頭全体を覆う頭布から、幼さののこる大きな目だけをのぞかせた彼の青い瞳は物憂げで、その視線の意図するところを汲もうとすれば、王子は前を向いたまま、ためらいがちに切り出した。
「ごめん、カリエク。――またやらかしてしまった」
どうやら王子は、先ほど城下町で、クァカット語通訳で騒動を解決したことを言っているらしいと、カリエクはすぐに察した。
「公衆の面前で、【同調】して交渉術を使ってしまった。また、陛下のお心に背いてしまったよ。つくづく、ダメ王子の自分が嫌になる」
「そのようなことは。いつ何時も目の前の市民のためにとお考えになるのは、殿下の美徳であらせられます」
「一般市民に俺の力がバレたら、大変なことになるよ。それ以前に力を使うこと自体、陛下に禁止されてるのに……つい。俺が視れば解決できる問題だと思うと、放っておけなくて」
王子は馬上で、深い吐息をついた。
「畏れながら、ご心配には及ばないかと。あの場でクァカット語を理解できたのは、あの首長の娘さんだけでございましょう」
「そう、だけど」
王子は物憂げな表情のまま、ぽつりとつぶやくように言った。
「それなら一体、君は今、何を恐れているんだ?」
カリエクは一瞬、言葉を噤んだ。
そのひるんだ隙を見逃さなかったらしい。王子はうつむいたまま、カリエクから顔をそむけた。
「すまない。【同調】するつもりはなかったんだ。でも宿屋を過ぎたときから、君の恐れが入ってきて……」
王子には、対峙して両目を視た相手の意識と感情を、自分のことのように把握する能力がある。
通称、【同調】。
王子本人によれば、長い間神々の御前に祈る神職には、珍しくもない力らしい。
それでもそれが厄介な能力として王宮で恐れられる理由は、その能力と併用すると、誰もが恐懼するほどの威力を発揮する、天才的な交渉術のほうにあった。
王子はためらいがちに、部下に尋ねた。
「正直に言ってよ。君が恐れたのは、俺がさっき、宿屋の主人を簡単に操ったから?」
この王子は、当人に操られたことを自覚させぬままに、いとも簡単に他人を操る術をもっている。その数々の交渉のなかでは、先ほどの宿屋の主人のように、事の顛末すら理解していない場合も珍しくない。
父である国王を筆頭に、王宮の誰もが王子のこの能力に、畏怖の念を抱いていた。
「お人形」と揶揄され、何の実権ももたないはずの今の王家が、下手をすれば、国内外のありとあらゆるのものを手中に収め、支配することも可能。王子の交渉術は、個人がもつにはあまりに強すぎる力だった。
部下の返答を待つ王子の瞳は、儚くゆれ動いていた。
「いえ、恐れたのは、殿下のことではございません。――もしこの外出が陛下のお耳に入ったらと、その先を考えて恐ろしくなっただけでございまして」
国王にバレたらおそらく、王子はこれまで以上に、王宮の外に出ることが難しくなる。今回の外出も、馬を借りてこっそり城下町へ出るだけで、ひと苦労だったのだ。
王子はカリエクの憂いにかまわず、安堵の息を漏らした。
「そう、それなら良かったよ。俺、ついにカリエクにまで怖がられたのかと思った」
「それだけは絶対にございません」
カリエクは強い口調で断言した。
「陛下もいずれは、殿下が力を悪用なさる方ではあらせられないと、必ずお認めになるはずです」
「そうかな。自分でも、怖がられて当然だと思うけどな。誰だって心の内に秘めた弱点を読まれたくないし、それを使って操られることを考えたら、恐ろしくてたまらないだろう。鎖で繋がれて当然の『バケモノ』だと思うよ」
王子は無感情に言いながら、ちらりと手綱をもつ自身の手首を見やった。
よく目を凝らせば、袖の下から太陽光に反射して、チラチラと金に光るものが見える。
それが装飾品の腕輪などではなく、金の手枷であることを、カリエクは知っている。ついでに首元を覆うの襟の内側には、金属の首輪が巻かれていることも知っている。王子を王宮に繋ぎ止めておくために、国王の命令で、強制的につけられているのだ。
最近では王子は、その金属の重みにすっかり慣れてしまったらしい。
枷の存在を感じさせないほどに、傍から何の違和感もなく馬を操る王子の姿に、カリエクは表情を曇らせた。
王子は公務以外での外出を許可されていない。市民は誰も知らないが、この王子様は普段、危険な猛獣のごとく王宮に囚われているのだ。
カリエクは、立場を顧みず国王に不平を垂らすことこそしないものの、この年若き主君が自由を奪われることには、常に心苦しい思いでいた。護衛官であるにもかかわらず、国王の権力を前に自分が無力なのがまた、腹立たしくて仕方がなかった。
部下の不安を察して安心させようとしたのか、王子は精巧な人形と見紛うほどの、完璧な微笑みを浮かべた。
「だから、君やほかの親衛隊の皆には、感謝してもしきれないよ。ありがとう、『バケモノ』を怖がらないでくれて」
父王は、実の息子を陰で「バケモノ」と呼び、忌避している。ほかの宮内の人間も同様だ。
王子の護衛部隊――通称《青獅子隊》は、そんな王子に畏怖し警戒することのない、唯一の存在だった。
「いえ、感謝しなければならないのはこちらのほうです。ここ数日のお勤めでお疲れ様のところ、陛下のお心に背いてまでお越しくださり」
「それは仕方ないよ。例の犯人を逮捕できる証拠がないなら、俺の能力が必要だろう?」
王子は自身の目を指差しながら、今度は余裕を帯びた笑みで返した。
今日、王子が憲兵の格好をしてお忍びで町へ出ている理由は、実は王都に蔓延る、とある事件の犯人を逮捕するためだ。
その事件自体は、王室とはまったくの無関係である。王都に住む八十万人の市民を危険に晒した悪質な犯罪ではあるものの、なにも王家にまで被害が及ぶ犯罪ではない。
それでも王子が率先して犯罪捜査などを行う理由は、王子が純粋に、王国の民の自由と安全を護ることを義務だと考えているから、それ以外になかった。
「申し訳ございません。毎度、捜査機関が不甲斐ないばかりに、殿下のお手を煩わせてしまい」
「いや、不甲斐ないのはこちらのほうだよ。民によって生かされていながら、俺が民のためにできることといえば、神々の御前で祈ること以外なにもないからな。――お飾り巫女でも民の役に立てるなら、王族としてそれ以上の喜びはないよ」
相変わらず、意識の高い王子様の模範解答のような返答だ。
だが「喜び」と言いながらも、その態度は淡々としていて、王子の澄んだ瞳の奥に、何らかの感情がうかがえることはない。
王子が国民の自由と安全を護ることが使命だと捉えているのは、あたかも計算機が正確な演算結果を弾き出すことがその存在意義であるように、ごく機械的に発生した観念で、それは彼が慈悲深い神職だからでも、人情に厚く情熱を抱いているからでもないことを、カリエクは知っている。
だからといって、決して彼が外面のいい偽善者なわけでもない。真実は、それより数段残酷だ。
今のホムラ王子は、感覚と感情の半分が壊れてしまっているのだ。
人間くさい感情が存在しない以上、王族としての模範解答以外のことは言えないというのが真実。
おおよそのきっかけは、国民の王家への非難にあった。
王国の商人たちは、彼らの売上げに課される税金と、それをせしめていく王家を憎み、政治家たちは、自分の法案を通したいがために、王家が税金を搾取する悪者だと、戦略として痛烈に糾弾した。一般市民は、その言葉を真に受けて便乗し、貧しい民は、王家のせいで困窮していると信じて疑わず、行啓の先で王子を誘拐して甚振る暴挙に出た。
「民からせしめた税金で、悠々自適の生活しやがって」
「宮中祭祀で祈るだけで、実質何の役にも立たないくせに」
王子は幼い頃から、あらゆる形で、そうした彼らの非難を浴びせられて生きてきた。もとより、革命で王座に据えられただけの巫女の末裔の王家に対して忠誠心を抱く国民はほとんどおらず、彼らは自分に利益があれば称賛し、なければ攻撃するだけだった。
そんな自分の損得のことしか頭にない国民の非難を真に受けて、王子は全部自分が悪いのだと思い込まされた。何の権限もないのに、国民のために何かしなければならないと思い込まされた。
深く傷ついた幼い王子が、血の滲むような努力を重ねた結果。
王子は何の権限もない王族ながら――否、何の権限もなかったからこそ、何の権限もなくてもすべてを操る、恐るべき交渉術の能力を開花させてしまった。
そしてその代償として、彼は人間らしい感情のほとんどを失ってしまった。
傷つけられて怒ることも、悲しむこともない。自衛本能が、完全に壊れてしまっていた。
カリエクは毎日、この自衛本能ゼロの、いっそ死にたがっているのではと思われるほどに死地に飛び込む王子様を、完璧に護衛しなければならなかった。一時も気の休まることのない仕事だ。これほど護衛官泣かせな護衛対象も、他にいないだろう。
捜査のためなら何でもする勢いの王子に不安をおぼえたカリエクは、しつこいと自覚してはいながらも、毎度主に言わずにはいられない言葉を投げかけた。
「殿下、捜査のためとはいえ、どうかご自愛ください。くれぐれも無茶だけは……」
「わかってる。警護が薄いから気をつけろ、絶対に君から離れるな、だろう。いつも苦労をかけてすまないと思ってるよ」
本来なら、皇太子ほどの貴人が、お忍びとはいえ護衛をひとりしか連れずに出歩くなどありえない。
王子は、毎回カリエクが胃に穴が空くほどに必死に警戒していることを承知の上で、王宮の人件費を抑えるために、これほど薄い警護で押し通しているのだ。
この若い主君が、部下の負担の重さに申し訳なさをおぼえているところまで含めて、カリエクは気に食わない。いいかげんに部下ではなく、自身の負担を考えてほしいというのが、カリエクの一貫した思いだ。
「でも、護衛問題ならもう少しの辛抱だよ。来期からは、新しく『ちゃんとした』護衛官を採用するつもりでいるからさ」
「それはそうでございますが」
「しかも今日、君の母校――天下のナームファルカ憲兵学校へ行く、ちょうどいい機会ができたんだ。手紙によれば君の後輩たちは、一分野においては君と同レベルで優秀ということだし、あわよくば今日、採用する護衛官が決まるかもしれないよ」
今日、捜査のために赴く先が、憲兵育成の名門校、ナームファルカ王立憲兵学校なのだ。追っている事件の犯人の居場所が、たまたまカリエクの母校だったというわけだ。
王子は捜査のついでに新しい護衛官に出会えることを期待しているようだが、カリエクは内心、暗澹とする思いだった。
「君は不満なのか? せっかく君の母校の後輩を、護衛官として採用するかもと言っているのに」
やはりこの主君に、感情の隠し事は不可能らしい。
カリエクは素直に、心のうちの懸念を打ち明けた。
「いくら憲兵学校警護課卒の護衛官とはいえ、所詮は実務未経験の訓練兵です。そんな素人をいきなり王室護衛官に採用して、殿下に万一のことがあっては――」
「ああ、それなら大丈夫だよ」
王子はあっけらかんとして言った。
「彼らは訓練兵上がりといえど、ウチの護衛の皆よりは、全然護衛素人じゃないはずだろう?」
「それはたしかに、ウチの公認会計士や元暗殺者に比べたら、護衛としてははるかにマシですが……」
「だろう?」
微笑む主君をを横目に、カリエクは黙ったまま、げんなりと息をついた。自分で言っていて、やるせなくなってきたのだ。
王子殿下が私的に犯罪捜査に勤しむおかげで、王子の親衛隊には、ロクな護衛官がいない。実際は、護衛とは名ばかりの「ワケアリ」の元犯罪者の巣窟で、カリエク以外のメンバーは皆、そもそももともと護衛官ですらないのだ。
その事実を思い出すだけで、カリエクは何杯でも紅茶をヤケ飲みできそうな心地だ。
「カリエクは前に言ってたよな。護衛任務にいちばん大切なのは、『信頼関係』だと。たしかに護衛能力は大事だけど、それよりも俺は、信頼できる人間を側に置きたいんだ」
「畏れながら伺いますが――殿下は護衛経験者より、実務経験のない新兵のほうが信頼できるとお思いなのですか」
「そうだよ」
にっこりと笑いながら、王子はいつもどおりの明晰な論理を展開した。
「誰がどんな思惑で動いているかわからないから、前に何らかの組織に所属していた人間を新しく雇うのは、リスクが高い。前の組織の命令で、王室護衛官に『潜入』することだってありえるだろ。だから、まだどの組織にも所属したことがない、経歴のまっさらな護衛官が欲しいんだ」
なるほどたしかに、憲兵学校上がりの新兵なら、どこかの組織からの潜入者という可能性は、かぎりなくゼロに近い。その点を信頼できるのは確実だろう。
納得しかけたところで、カリエクの頭に、ふと素朴な疑問が浮かんだ。
「畏れながら、信頼できるかどうかは、殿下が直接『ご覧になれば』よろしいのでは。殿下の【同調】能力をもってすれば、相手が嘘をついているかどうか、見分けることは容易いのではありませんか」
「ごく少数ながら、それが効かない人間もいる」
王子は脳裏に何人か思い浮かべたのか、一度宙に視線をやってから、部下へと真剣な眼差しを向けた。
「なにかあってからでは遅いんだ。護衛は、俺が百パーセント信頼できると判断した人間がいい」
カリエクは黙って馬に揺られながら、日射をさえぎる頭布で目元以外を覆い隠した年若き主の、長いまつげに縁取られた怜悧な目を観察していた。
今の話は、主君の懸念としては至って妥当だが、いつもの彼と比べると、些か奇妙な気がしたのだ。
いつもの王子なら、すくなくとも、自身の護衛に神経質になることはない。「犯罪捜査の役に立つから」という理由で、自身の護衛部隊に、戦闘経験のない事務職や、戦闘経験のありすぎる元犯罪者たちを入れているのが、そのもっともたる例だ。
肥大化した違和感は、やがてカリエクに、一見あたりまえともとれる前提条件を確認する質問をさせた。
「ひとつ確認いたしますが、殿下がその新しい護衛に護らせようとなさっているのは、本当に殿下ご自身ですか」
一瞬の間の直後、王子は笑った。
普段年不相応に大人びた表情しか見せぬ彼には珍しい、いたずらがバレた直後の子供のような笑み。――よくそこに気づいたね、そんな言葉を匂わせた笑みだった。
カリエクは口を噤んだ。
王子は、誰か別の人間を護らせようとしている。だがその詳細を部下に告げる気はない。沈黙の微笑みが意味するところは、それ以外になかった。
それならば、一体誰だ。
王子殿下は一体、新しい護衛官に誰を護らせようとしている。
カリエクは王子の思考を探ろうとしたが、思い当たるフシはなかった。
「殿下は一体――」
主君の真意を尋ねかけたカリエクは、すぐに口を閉じた。彼らの行く先から、馬に乗って駆けてくる、ひとりの軍人の姿を目視したためだ。