外伝04話:城下町のご詭弁麗しきお方(後編) -Hamra qax Kahr Tarhkk-
'19 08/04 一部演出変更
'20 08/29 一部演出変更
'20.09/04 誤字修正
'20.09/06 最後のシーン文章修正。
外伝02話:城下町のご詭弁麗しきお方(後編) -Hamra qax Kahr Tarhkk-
* * *
「文明の徒が暴力とは、感心しないな」
静かにそうつぶやかれた声は、アレーナのすぐ上から聞こえてきた。
見上げると、いつの間にかすぐうしろに、二頭の憲兵の馬が佇んでいた。この騒ぎに駆けつけてくれたのだろう。どうやらそのうちの先頭の白馬から、あの憲兵の美青年はおりてきたようだった。
つづいて黒馬に跨った人間が、ひょいと飛び降りてアレーナの横に着地した。今しがたつぶやいたのは、おそらく彼だろう。
こちらはまだ若いらしく、背は小さい。18歳のアレーナよりも年下に見える。
憲兵の制服である黒い短外套のフードを被っているため、顔は分からないものの、その声には若者らしい澄んだ張りがあった。
彼の目配せで、憲兵の青年が宿屋の主人の手首を離した。
(良かった、助けが来て……)
憲兵が来たのだから、これで少なくとも、暴力に訴えられることはないだろう。
だがあくまで、それだけだ。
市民の安全を護る憲兵だからといって、不公平に値を吊り上げる宿屋を止めることはできない。暴力さえ振らなければ、あくまで宿屋は法を犯してはいない。憲兵たちが暴力沙汰を止めたところで、結局あの哀れなクァカット人が、宿を追い出されることに変わりはないのだ。
彼らに権限がないことはわかっている。それでもアレーナは、一縷の望みすがらずにはいられなかった。
「あの、お願いします! 彼を助けてくださいませんかっ!」
少年憲兵は、フード越しにじっとアレーナを見つめてきた。アレーナは、黙ってその目を見つめ返すことしかできなかった。
ほんの数秒、そのまま時が流れた。
彼は声から想像していたよりも、若く見えた。
北部イスカ人らしい黒髪に、まつ毛が長く、濃淡のはっきりしたアイライン。すっと引き締まった顎の輪郭はイスカ人らしいが、どことなく遠い異国の血の混じりを感じさせる。雰囲気はどちらかというと、憲兵というより、人里離れた神殿に住まう神職といったほうが似つかわしい。
何よりも、日射をさえぎる頭布の影にありながら、少年の瞳は、すべてを見透かすような透明だった。
アレーナは奇妙な感覚に襲われていた。
まるでこの少年憲兵が、視るだけで、アレーナの意思をすべて汲み取ってくれるような気がした。そして、そのまま彼女の意思に従って、クァカット人を助けてくれるような気がしたのだ。
だが直後、彼女の淡い確信は、ほかならぬ少年憲兵の言葉で瓦解した。
「その必要はないかと」
少年憲兵は、すぐにフードの頭を軽く動かし、今度はクァカット人の男を一瞥した。
「おそらくこれは、『彼自身で』対処できる問題かと」
「そんな……」
彼がふたたびアレーナに目を向けることはなかった。
アレーナはひとりでに、ひどく裏切られた心地になって、ただ呆然としているしかなかった。
少年憲兵はすでに、宿屋の主人に話し始めてしまっていた。
「諍いなら構いませんが、暴力沙汰はいただけません。これから憲兵署で調書を取る破目になるのは、お互い嫌でしょう」
「あんた、憲兵ならちょうどいい! このうるさい外国人をなんとかしてくれ!」
宿屋の主人は、今しがた拾いあげた杖で、こちらを睨むクァカット人の男を指しながら要求した。彼はもうすっかり、力に恃む気はないようだった。
「ご存知のはずです。憲兵が非武装の一般人に手を出すことは許されません」
淡々とそれだけ告げてから、少年憲兵はつけ加えた。「でも、通訳程度なら協力しますよ」
「あんた、クァカット語がイケるクチか。そりゃありがたいな! この外国人に言っておいてくれ! 『そんなにこの額がイヤなら、今すぐにどっか他所の宿へ行け』ってな!」
だから、そんなことを言われても、彼にはほかの手段がないのだと。
そう反論しようとしたアレーナをさえぎって、少年憲兵は突然、流暢にクァカット語を話し始めた。
(えっ?)
クァカット周辺での勤務経験のある憲兵なら話せても不思議ではないが、彼の発音は、どことなく庶民の言葉より、アレーナが覚えさせられた言葉――宮廷で話されるそれに近いように思われた。
彼はクァカット人に対して、異国語とは思えぬほど、よどみなく告げた。
『残念ながら、あなたの主張には何の根拠もない。元々あなたがいくらで宿泊していたのか、それを証明できなければ、大幅に値上げしたなどという話を誰も信じはしない――と、彼はおっしゃっているようです』
(この人、何を言って――?)
通訳が、全然違う。
アレーナは少年憲兵を凝視したが、彼は平然としたものだった。自分の訳が間違っているとは、まるで微塵のかけらも疑っていない様子だ。
『証拠ならあるぞ!』
クァカット人の男が、左手の指を一本立てて宿屋を見据え、それから肩に下げていた麻布のポーチをごそごそと探り始めた。
『あったあった! 宿泊するときに支払った額の領収書だ! どうだ、これが証拠だ! どう考えてもぼったくりだろう! 一泊20ティフセンが、急に200ティフセンに上げられたんだからな!』
くしゃくしゃになった紙片を揚げて、高らかに宣言するクァカット人。先ほどの彼の絶望した様子とは打って変わって、その顔には誇らしい自信がみなぎっている。
その変化に気味の悪い戸惑いを覚えたのか、宿の主人が訝しげに、少年憲兵に尋ねた。
「ヤツはなんと言っている」
「それが――」
憲兵の声音に、困惑の色が浮かんだ。
アレーナは、彼の言葉を固唾を呑んで見守った。少年憲兵が次にどう出るか、まったく予想がつかなかったのだ。
「これほどあなたの善意に訴えたのに、昨日と同じ価格で泊めていただけないなら、仕方がない。交渉決裂です。私は今から、あなたの宿に宿泊中らしいあの貴婦人や、あの老紳士に、この領収書を持って自慢してきます。『私はこの宿をこんなに安く借りているが、あなた方はいくら支払っているんですか?』とね。あなたはこれから、年末ぼったくり価格で泊めている彼らとの交渉に備えたほうがいいでしょう。今のうちに弁護士を呼んでみては?」
話を聞く宿屋の主人の顔が、みるみるうちに青ざめた。
「困ったことに、彼はそうおっしゃっているようです」
「な、んだと……?」
宿屋の主人は狼狽した顔をして、うしろの従業員らしきイスカ人たちと、ひそひそと相談を始めた。
今までの低価格の領収書を、ほかの客に見せられたら、今の金持ちの客たちに、ぼったくりに近い年末価格で泊めていることがバレてしまう。それは宿屋にとって、最も由々しき事態だった。
やがて彼はクァカット人にふり返ると、おもむろに肯定を示した。
「わかった。あんただけ特別に、昨日までの価格で泊めよう。ただし条件がある。――誰にも宿泊費を他言しないこと、そしてその領収書を、誰にも見せないことだ。いいなっ!」
うなずいた少年憲兵はまた、クァカット人に向きなおった。
『誰にも宿泊費を他言せず、その領収書を見せないと誓うならば、あなたにだけは特別に、今まで通りの価格で宿を提供しよう――そうおっしゃっているようです』
「えっ……!」
その瞬間、クァカット人の目が輝いた。
彼は仰々しく天を仰ぎ、祈るように両手を組んだ。その頬をつたって、涙が流れ落ちていた。
『もちろんだとも! 神に誓おう! ああ、良かった。私の祈りは天に届いていたのだ! ありがとう! 本当に助かった!』
ことの顛末を何も理解していない彼にとっては、この突然起こった状況の好転は、あたかも彼の必死な祈りが天の神々に届いて、その神の御業による奇跡だと、そう思ったに違いない。
その様子をちらりと一瞥した憲兵は、ふたたび宿屋に向きなおった。
「神に誓って約束します。ありがとう、助かりました。――そうおっしゃっているようです」
『心を改めてくれて、本当にありがとう。あんた方に、神々の祝福のあらんことを』
クァカット人は叮嚀にお辞儀をして、礼儀正しく祝福を祈るあいさつをした。
あの宿屋はちっとも心をあらためてなどいないのに、彼はあの主人が先ほど自分の頭を蹴りつけたことも忘れて、相手の幸福を願う文句とともに礼をした。
きっと彼は、それほどたやすく人の善意を信じられるほど、心の清らかな善い人なのだろう。
民族も、金持ちかどうかも関係ない。彼のような誠実な人間が救われる。そんな世の中であるべきだと思った。きっとアレーナの父も、そんな世界にするために、政治家となってこの国にはびこる不誠実や悪と戦っているのだ。
クァカット人は憲兵たちにもしっかりと礼をすると、宿のなかに消えていった。これから彼の仕事を始めるのだろう。
宿屋の店主とそれを取り巻く数人は、それを見送り、安堵のため息をついた。
「どうも、憲兵の兄ちゃん。あのクァカット人の話を戯言だと聞き流していたら、今ごろ、ウチの宿から金持ちの客が全員逃げだしていたかもしれない。――いいタイミングで来てくれて助かったよ」
「お役に立てたようで何よりです。イスカの同胞の利益を護ることができて、憲兵としてそれ以上に光栄なことはございません」
憲兵は、平然と受け答えする。
アレーナは、何も言わずに事の成り行きを傍観していた。
ちらりと周りを見渡すが、誰ひとりとして、素っ頓狂な顔をしている人はいない。
そうか、とひとり納得する。
あの通訳で起こったことの全貌を知ってるのは、アレーナだけなのだ。
少年が「証拠を見せろ」とクァカット人に言ったおかげで、彼はどうだとばかりに領収書を見せびらかした。それは言葉が通じない人間には――とりわけ、交渉ごとに慣れたこの国の商売人ならなおさら――交渉決裂を宣言しているように見えたことだろう。
通訳を申し出た少年憲兵は、端からその演出を狙っていたのだ。
クァカット人には宿屋が改心したように見せ、宿屋にはクァカット人が巧妙な交渉をしたように見せる。そして自分は何の貢献もしないただの通訳者だとばかりに、そのまま通り過ぎるつもりなのだ。
彼は最初から、すべて計算の上で通訳を申し出た。
こちらが一ティフセンたりとも払うことなく、あの外国人の男は路頭に迷わずにすみ、宿屋の連中は満足して見送る。
何の犠牲も払わずに、双方満足。――これ以上の解決があろうか。
アレーナが賭けた希望に、彼はこたえてくれたのだ。
少年憲兵は穏やかに宿屋にあいさつすると、くるりと踵を返した。そのとき小さく、彼のつぶやきが聞こえた。
「さて――これが王国の、最適解だ」
この雑踏の中なので、おそらく聞こえたのは、アレーナだけだっただろう。
まるで、今の言葉によって、このひと悶着起きた事件に終止符が打たれたような、そんな気がした。
少年憲兵の黒い短外套が、人ごみにまぎれて消えていく。
「あのっ!」
アレーナは、早々に宿屋から発とうとする憲兵たちに呼びかけた。
先ほど宿屋の主人の手を捻り上げた長身の青年は、すでに馬に乗っており、少年憲兵もそれに続こうとしていた。
彼らは暴力沙汰を止めるという憲兵として正しい行動をした上に、アレーナの希望を叶えて、宿屋を救ってくれた。
アレーナはあの諍いの当事者ではないが、無力に何もできなかった者として、礼を言うべきだと思った。
「さっきは、ありがとうございました!」
「なんのことでしょうか」
少年憲兵がふり向いた。
「今の通訳のことです。すばらしい機転でした! 咄嗟に言葉の意味を変えて訳して、円滑に解決してくだるなんて、私じゃ全然思いつかなくて、本当になんとお礼を言ったらいいか……」
思わず頬を紅潮させたアレーナに、彼はきょとんと首をかしげた。
「あの……?」
まるで突然、まったく身に覚えのないことを突きつけられたような態度だった。
彼は幼い目をぱちぱちと瞬かせると、やがておもむろにかぶりを振った。
「お恥ずかしい。クァカット語に明るい淑女の前で、でしゃばるものではありませんでした。『利益を守りたい』と、『宿に泊まりたい』。これでも最大限、彼らの真意に忠実になるよう訳したつもりなんですが――もし通訳が間違ってたなら、どうか俺の面子のためにも、そのことは秘密にしておいてくださいませんか」
彼は困ったようにはにかんだ。「クァカット語は、少々不得手なんです」
それだけ言うと、彼はすぐに黒馬に跨り、もうひとりのの憲兵とともに歩きだしてしまった。
あっけなく、彼らは行ってしまった。
馬に上下されるその背を見送りながら、アレーナは内心、浮かんだ指摘をせずにはいられなかった。
(そんなの、嘘だ)
意味を変えて訳して騙したことがバレれば、宿屋を敵に回すから、あえて何も知らないふりをしているのだ。
だが、明らかに嘘なのに、それが嘘だと断言できる証拠は、何ひとつとしてない。
それに気づいてから、アレーナはぎょっとした。
あの和解は、すべてが虚偽の上に成り立っていた。そのはずなのに、誰もそれが虚偽だと立証することができない。
さながら水面に映る月に石を投げたとて、月が変わらず映りつづけるように、たとえあの宿屋の主人が、和解の虚偽に気づいたところで、少年のつくった虚構は不滅なのだ。
波紋が消えればふたたび水面に映りだす、虚偽の月のしたたかさを、アレーナはあの少年の瞳に見た。
嘘とは断定できない、虚偽の連続。それはまごうことなく、「詭弁」だった。
詭弁を厭わぬ交渉術が、あの場で勝利をおさめたのだ。
クスリと、アレーナの頬に笑みがもれた。
(詭弁かぁ……。お父様、嫌いそうね)
詭弁など、とんだ不誠実にして、とんだ不道徳。
アレーナの父はきっと、誠実を心掛ける政治家として、詭弁使いを猛烈に嫌うことだろう。
「詭弁による解決など、何の解決でもない!」
と、父は以前言っていた。
(でもね、お父様。今日私、知ってしまったのよ)
父の理想とする、誠実な善人が救われる世界。すくなくとも、今ここでその世界をつくりだしたのは、ほかでもない、詭弁という名の不誠実なのだ。
もはや、認めないわけにはいかない。
誠実な話し合いだけが、最高の解決策ではなかったのだ。
金も権力も、憲兵としての権限も、何ひとつとして使わずに、彼はすべてを救ってみせた。それはまごうことなく、「最適解」と呼べる結末だった。
「ありがとうございます、若い憲兵さん……!」
アレーナはあの少年の顔を思い起こそうとして、そこでふと、奇妙な感覚に陥った。
(あれっ。もしかしてあの人、前にどこかで会ったことある……?)
なぜかどことなく、彼とは初対面ではないような気がしたのだ。だが、どこで会ったかは思い出せない。
一度首を捻ったアレーナは、すぐに思い直した。今回初めて上京したアレーナが、王都の憲兵の顔を知っているはずがない。
(きっと、気のせいよね)
アレーナは、憲兵たちが馬で歩いていった先の大通りを見上げた。
カラリと晴れわたった夏の日差しに照らされて、青と白の町並みが光っていた。