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外伝02話:黒い森の護衛と少女 -elCeksem jna Svereh qax qg'ih megrza-

'20.09/04 一部修正。ストーリー上に変更はありません。

'20.09/06 序章を全面修正しました。結末以外全面改訂しています。

外伝02話:黒い森の護衛と少女 -elCeksem jna Svereh qax qg'ih megrza-


 * * *


 スフィーリアはついに、街道を抜けた先の、山道にまで来た。

 町を通り抜け、その先の大きな街道を走ってしばらく経ったが、(いま)だ王子一行には出会える気配(けはい)はない。

 まさか彼らは別の道を行っていて、気づかずに追い抜いてしまったんじゃ――と一瞬浮かんだ考えに、ブンブンと首を振る。

 目都(アレンガル)王都(カルタゴ)のあいだには、ムアル山脈と呼ばれる大きな山がある。王都(カルタゴ)へ行くためには、その山の(ふもと)にある一本の(とうげ)道を通るしかないので、馬車で細い山道を通れない彼らが、こことは別の道を行ったということは考えられない。

 ゴクリと唾を飲み、正面の山道を見据(みす)える。

 舗装(ほそう)された一本道の(わき)は、急な斜面になっていて、そこからまばらな木々が空高く生えているせいで、先の山道は、木々に月明かりが(さえぎ)られて真っ暗だ。

 スフィーリアは覚悟を決めると、ランプを前方に(かか)げながら、暗闇(くらやみ)の道を歩きだした。

 森の中で耳を()ましながら、数刻歩いただろうか。

 不意に山の遠くから、(さけ)び声が聞こえてきた。

 一瞬、(けもの)咆哮(ほうこう)かと思ったが、どうやら違うらしい。次々と聞こえてくる声は、聞けば聞くほど、たくさんの人間の雄叫(おたけ)びに思えてきた。


(何……?)


 なにかただならぬ音に(おび)えて初めて、少女は今自分が置かれている状況を悟った。

 夜の森に、9歳の少女がひとり。しかも、何の武器も持たず、パーティー帰りをうかがわせる白いドレスに身を包んでいる。

 少女は、自分でもわかった。今のスフィーリアは、常識では考えられないほど無防備(むぼうび)だ。


(やっぱもう、帰ろう!)


 これ以上森を進むのは、危険すぎる。王室護衛官に、王都(カルタゴ)まで連れて行ってもらえたらと思ったが、危険な森のなかで死んでは元も子もない。

 スフィーリアが引き返そうとうしろを向いた、その時だった。


「待て、小娘」


 うしろから、男の声がかかった。

 (おそ)(おそ)るふり返れば、遠くの斜面から、男たちが次々と砂をすべる音を立てながら、(とうげ)道に()りてくるのが見えた。

 暗いなかで目を()らせば、彼らは片手に簡素な手持ちのランプを、もう片方には(おの)などの武器を持っているようだった。明かりの数から考えると、最低でも七人はいるようだ。

 彼らは明らかに、スフィーリアが追いかけた王子様の一行ではない。

 その時スフィーリアは、ふと普段から母に口を()っぱくして言われていたことを思い出した。


「夜の山には、おぞましい山賊(さんぞく)がおる。やけん絶対に近づいてはいかんよ」


 瞬間、スフィーリアの顔は引き()り、心臓は破裂(はれつ)するほどに高鳴った。


「山賊……!」


 気づいたときにはスフィーリアは、今にも襲いかからん雰囲気(ふんいき)(まと)った男たち――山賊に、囲まれていた。

 次の瞬間スフィーリアは、一刻も早く彼らから逃げることを考えた。

 ただし、このまま来た道を走っても、すぐに追いつかれてしまうことは明白。逃げるとしたら、道の(わき)の、木々の(しげ)る斜面以外にない。

 (あわ)てて山に登り始めたスフィーリアを、山賊たちはすぐに追いかけてきた。

 逃げながらも、スフィーリアは自分でもわかっていた。

 おそらくこのままじゃ、逃げきれない。彼らはスフィーリアのもつランプの明かりを追って、すぐに追いついてくるだろう。

 ランプの明かりが目印にされるなら――仕方がない。

 少女は追手(おって)にふり返り、(いきお)いよくランプを投げた。

 パリンと、ガラスのランプが割れる音がした。

 彼らに命中したかはわからないが、(ひる)んでいるあいだにも少しでも距離を離すしかない。スフィーリアは一目散(いちもくさん)に山を()け下りた。

 山の中は、ほとんどなにも見えないほどに暗く、足より下にいたっては、まったくの暗闇(くらやみ)だ。

 それでも転ばぬことを信じて走り続けていたスフィーリアだったが、とうとう彼女の小さな足が、(つゆ)()れた岩を()った。サンダルは岩肌をすべり、スフィーリアはあっという間にその場に突っ伏した。


「あうっ」


 立ち上がろうとすれば、息がつまってむせ返った。岩肌で()りむいた(ひざ)が、ヒリヒリと痛む。暗くて見えないが、おそらく出血しているだろう。

 こんなところでうずくまっている(ひま)はないのに、今すぐにでも(ふたた)び走りださなければならないのに、痛みで(ふる)える足に力が入らなかった。

 そうしているうちに、背後(はいご)から、斜面(しゃめん)をすべり()りる音が聞こえてきた。

 瞬時にうしろを振り返れば、振り回されたランプの金属がギシギシと(こす)れる音とともに、複数の人間がすぐそこまで()けてきていた。

 彼らから()げてずいぶん走ったのに、もう追いつかれてしまった。目立つ白色のドレスが、月明かりに照らされて、はからずも目印になってしまったのかもしれない。

 動けないスフィーリアを囲うように、彼らはゆっくりとにじり寄ってきた。

 震える足を懸命(けんめい)に動かそうとするが、もう遅い。気づいたときには、彼らに囲まれて、どこにも()げ場がなくなってしまったいた。


(どうしよ……山賊(さんぞく)に、殺される)


 ランプの明かりで濃淡(のうたん)の浮かび上がった彼らの仄紅(ほのあか)い顔は、襲撃者らしいおぞましい顔をしているようにも、はたまたぞっとするような笑みを浮かべているようにも見えた。


「助けて、お母さ……」


 真っ先に思い浮かべた存在が母親だったのは、死の恐怖に囚われた(おさな)い少女として、何も特別なことはなかった。

 だがその時、少女は母親の言葉までを、一緒に思い出していた。


「よう聞かんね、スフィーリア」


 この国には(めずら)しい赤毛を()らしながら、異国出身の母親は、暖かな眼差(まなざ)しで、(おさな)い娘の胸に手を当てた。


「あんたのなかにはね、北方戦士(ドウィニグ)の血が入っとるんよ。やけん、(あきら)めちゃいけん。最後の最後まで戦うんよ。――あんたならできるはずよ。誰よりも気高く勇敢な、北方戦士(わたしたち)末裔(むすめ)なんやから」


 瞬間、ぞわりと血の()き立つ感覚が、少女の身体(からだ)を突き抜けた。


(あきら)めちゃダメだ。――戦うんだ)


 その時(おさな)い少女の頭に浮かんだのは、闘志。非力な少女には、(もっと)も似つかわしくない選択肢だった。

 とっさに、腰のポーチに手を()える。

 武器がないことは知っている。だがほんの一瞬だけでも、彼らの気を()らせる「なにか」が必要だ。

 手拭などの入った小さなポーチに手を入れれば、一瞬、指先が(かた)いものに()れた。

 小槍当(ダーツ)と呼ばれるゲームに使われる、小さな小槍。

 (すき)を見て相手に()せれば、十分に凶器として機能するはずだ。


(これで気をそらして――)


 ポーチからそれを抜き出し、そっと逆手(さかて)に構える。

 これで、敵のひとりが近づいてくるのを静かに待つ。

 少女は、自分でも驚くほどに冷静だった。

 最大の威力(いりょく)を出させるには、敵を充分に引きつけてから、ほんの一瞬の(すき)()く必要がある。

 チャンスはほんの一瞬。

 まるで時間がゆっくりと流れているような感覚。

 虎視眈々(こしたんたん)獲物(えもの)(ねら)う捕食者のごとく、集中した五感は、最大限に()ぎ澄まされた。

 地を()みしめる男の足音。彼の手にもつランプの油のにおい。肩を上下させる彼の呼吸。それらすべての情報が、彼の一瞬の(すき)()く完璧なタイミングを(とら)えるためだけに、少女の頭に入ってくる。

 命の危険に(さら)されているはずなのに、不思議と恐怖は消えていた。

 その代わり、いつにもまして冷静で(たよ)れる理性が、そして敵を前にして()きたつ本能が語っていた。――これがお前の領域なのだ。お前はこの世界の住人なのだ、と。

 彼女は無意識のうちに、もはや9歳の少女のものとは思えぬ平静な瞳に、一種の快感さえ映していた。

 じっと相手の出方をうかがう少女に、近づいてしゃがもうとした男は、不意(ふい)にその動作の途中(とちゅう)で、ぴたりと静止した。

 少女の気迫(きはく)から、なにかただならぬものを感じたらしい。

 彼の視線は、スフィーリアの背後に向いていた。


「今、何(かく)しよーっちゃ」


「……っ!」


 男は目ざとく、スフィーリアが後ろ手に(かく)しもった「武器」に目をつけたのだ。彼はその屈強な太い手を、彼女に向けて伸ばしてきた。


(マズい、闘志(とうし)がバレた)


 もう、隙は()けない。

 唯一の勝算が、この時点をもって(つい)えてしまった。

 スフィーリアは(あわ)てて地に(こし)をついたまま(あと)ずさりし、近づく男めがけてがむしゃらに()りつけた。


「いやっ、こっち()んで……っ」


 必死の抵抗だったが甲斐(かい)はなく、すぐに細い足首を(つか)まれ、ずりずりと引き戻された。


「やめ、(はな)……っ!」


 もはや下着が見えるなどと躊躇(ちゅうちょ)している場合ではなかった。スフィーリアは()いたほうの足で、必死に抵抗を試みた。


「せからしい娘っちゃ!」


 それでもなお動こうとすれば、男が彼女の(ほお)(なぐ)りつけた。

 彼女がひるんだ(すき)に、男は彼女の小さな手を勢いよく引き()せた。スフィーリアは小さなうめき声とともに、(にぎ)っていた小槍をぽろりと地面に落とした。


貴様(きさん)、時計の針げな()ち歩きよんかちゃ」


 都会で流行のゲームを知らないらしい山賊(さんぞく)は、置時計の針と勘違いしたらしい。彼は地面に転がった大事な小槍を()みつけると、少女の身体を地面に押さえつけた。


「あうっ」


 押さえつけられた全身が痛む。動こうと思っても動けない。

 最後の足掻(あが)きとして、体をよじる。それでも大の男ひとりを押しのけられるような腕力(わんりょく)とは(ほど)遠い。

 周りを囲む男達が、殺せ、殺せと(さけ)んでいる。

 ついに男が、彼女の細い首へと手をかけた。その反対側の太い腕には、大きな包丁が(にぎ)られている。

 もはやどうすることもできずに、スフィーリアは精いっぱいに横を向いて目をつぶった。

 殺される。そう悟った。

 死ぬと理解した瞬間。

 その瞬間になって初めて、スフィーリアはもてる力の底から声をあげた。


「いやあああああああああっ!」


 死にたくない。

 そればかりが頭を(めぐ)って、思いは強い(いの)りとなって(あふ)れ出た。

 今までの人生、まだやりたいことを何もやっていないのに。

 こんなところで、こんなやつらのために殺されたくない。

 誰でもいい。神様。いや、悪魔でも鬼でも、どんな怪物(バケモノ)でもいい。

 願うことはただひとつ。


「たすけて――」


 その時だった。

 目を閉じた暗闇のなかで、何かが起こった。

 (するど)く銀に光る音がした。

 それが何なのか理解する前に、男の悲痛なうめき声が上がった。

 スフィーリアの首にかけられた粗暴(そぼう)な男の手は、急にその握力(あくりょく)を失った。

 そしてその直後、大きな質量のあるなにかが、倒れる彼女のすぐ耳元に、どさりと倒れた音がした。

 あたりはいつの間にか、荒々(あらあら)しい騒音(そうおん)に満たされていた。

 男たちの(さけ)び声がひっきりなしに聞こえるが、それらは先ほどまでとは違って、明らかな狼狽(ろうばい)畏怖(いふ)(はら)んでいた。

 また、(するど)い金属の音が聞こえた。

 風を切る音、そして、質感のある何かが、立て続けにドサリと地面に(たお)れる音。男たちの悲鳴(ひめい)にも似た粗野(そや)咆哮(ほうこう)が、夜の山に響きわたった。

 それを()に、あたりは静けさを取りもどした。耳を()ませば、遠くのほうではまだ、荒々(あらあら)しい雄叫(おたけ)びのような声が聞こえている。

 ()えた地を()いずるように(ただよ)う鉄のにおいが、スフィーリアの鼻孔(びこう)刺激(しげき)した。これはおそらく、血のにおいなのだろう。

 誰かが山賊(さんぞく)(たお)してくれたことは、見えない暗闇(くらやみ)のなかでも、容易(ようい)に想像がついた。

 体を(ちぢ)めて目を(つむ)りつづけるスフィーリアのもとに、その「誰か」が走ってくる音が聞こえた。


「立て。行くぞ」


 若い男の声だった。

 話し方からして、先ほどの山賊(さんぞく)でも、このあたりの人間でもなさそうだ。北にある王都(カルタゴ)周辺の人が話しそうな言葉(づか)いだ。

 スフィーリアは、おそるおそる(まぶた)を開けた。

 声の主を見上げるが、暗闇(くらやみ)のせいで顔は見えない。ただ真っ暗な森に、(だれ)かが立っていることしかわからなかった。

 ちょうどその時だった。

 木々の隙間(すきま)から、雲に(かく)れていた月明かりが、暗い森に()しこんだ。

 (やみ)()けこむように同化していた男が、初めてシルエットとして浮かび上がる。

 彼は立派な金装飾の()った、真っ黒なフードつきの短外套(ケープ)羽織(はお)っていた。

 この国の軍人の制服である。そのなかでも華やかな装飾から(さっ)するに、相当(そうとう)な地位の高官のようだ。

 まさか、と少女は目を大きく見開いた。


「もしかしてお兄さん、王室護衛官ですか……?」


 男はスフィーリアの問いに答えることもなく、すぐにこちらに背を向けてしゃがんだ。


「背中に乗れ、急げ」


「でも、あの……」


「そうだ。ホムラ皇太子殿下の護衛官だ」


 早口で言った護衛官の青年の言葉に、


「やっぱり」


 とスフィーリアは無言で目を(かがや)かせた。

 他でもない、(あこが)れの仕事に()く人が、彼女を助けてくれたのだ。


「とにかく早く乗れ。急げ」


 スフィーリアは()き上がりそうになる涙をこらえて、若い護衛官の背中に()けると、その首にしっかりと(つか)まった。

 それを合図に護衛官はすぐに立ち上がり、急いで山の下方へと()け下りた。

 ()ぶような動きに()られながら、スフィーリアは顔をうずめてしっかりと護衛官の背につかまっていた。

 青年の安心感のある背中に(すが)りたい一心で、彼の短外套(ケープ)に顔をうずめる。

 あたりでよく見かける陸軍の男たちのゴワゴワした肌触りではなく、もっと上質なやわらかい手触(てざわ)りだった。

 その短外套(ケープ)は、ほかの軍人のそれとは違って鉄(くさ)さが一切(いっさい)なく、代わりに上品で繊細(せんさい)な香木の香りがした。こんな緊迫(きんぱく)した状況下だが、ずっとこのまま(つか)まっていたいと思えるような、(やす)らぎを与えてくれる(かお)りだった。

 先ほどひとりで粗野(そや)な山賊たちを倒したとは思えないほど、彼の身なりと挙措(きょそ)には、高潔な品があった。


(やっぱ、かっこいいなぁ……)


 彼はただ強いだけじゃない。圧倒的な強さと同時に、王室につき従えるだけの品性を()ね備えているのだ。

 不意に、護衛官の首につかまるスフィーリアの小さな手の先が、(かた)い金属板のようなものに触れた。

 青年の熱を()びた(やわ)らかい服に、その一片の硬い(つめ)たさだけが、きわだって感じられる。彼が大きな歩幅(ほはば)()ぶたびに、それは彼の上着の鎖骨(さこつ)あたりで小さく(おど)った。

 小さな金属板をつかんで初めて、それが細い(ひも)で通され、護衛官の首にかけられていることがわかった。


(お守り、かな)


 スフィーリアは、手の感覚だけで存在している金属板を、両手で強く(にぎ)りしめた。

 熱のこもった少女の手のひらに、ひんやりと(かたい)い質感の存在を確かめられる。そのくっきりとした存在感が、どうしてか、彼女には特別なものに思われた。この恐ろしい窮地(きゅうち)から救ってくれる、絶対的な力を宿しているように思えてならなかった。

 護衛官の背に(かか)えられながら、スフィーリアは山のふもとにさしかかった。

 見下ろせば、暗いなかにいくつかの暖色の光が点在していた。集落の家々の窓明かりだった。


「ここから先はひとりで行け。あの村に行って助けを求めろ。いいな」


 青年は簡潔にそれだけ言うと、すぐにスフィーリアを背中から降ろした。それからふり返ることもなく、すぐに(きびす)を返して再び来た道を走ろうとした。


「待って! あのっ」


 スフィーリアは考えるまでもなく、あわてて引きとめた。でなければ彼は、今すぐにでもいなくなってしまいそうだった。

 駆けだした足音が止まった。暗闇(くらやみ)のなかで、護衛官がふり向いて彼女を見下ろしているのがわかった。


「ありがとうございますっ! あの、わたし……」


 心臓が、痛むほどに大きく躍動(やくどう)する。だが、これだけは言わなければならない。


「大きくなったら、ぜったい……絶対、お兄さんみたいな、強くてかっこいい護衛官になります!」


「無理だ」


 間髪(かんぱつ)入れずに、彼は即答した。

 大きく目を見開いたスフィーリアは、護衛官を見上げたまま言いよどんだ。


「でも……」


 かろうじて反論の言葉を(つむ)ぎだした少女をさえぎって、彼は愛想(あいそ)なく()げた。


「お(じょう)さんには無理だ。早くそこの村に助けを求めて、それから帰って寝ろ」


 彼はそれだけ言うと、すぐに(きびす)を返して、もと来た黒い森の中に消えていった。ふたたびスフィーリアがなにかを言う間もなかった。

 少女は森から出るのも忘れて、茫然(ぼうぜん)とその場に立ち尽くしていた。

 それから一(つぶ)の涙が、ぽろりと流れ落ちた。

 王室護衛官は、誰よりも強くありながら、同時に誰よりも品のある高潔(こうけつ)さを()ねそなえた、最高にかっこいい人たちだ。(おさな)いながら、そんな護衛官に(あこが)れていた。

 なのに――

 彼女の決意は、バッサリと一言で切って捨てられた。――誰よりも(あこが)れてやまない仕事をする、その人に。


(ムリだって……なんで、なんでそんな簡単に、わたしにはムリって……)


 今はムリでも、大きくなったらもしかしたら、強くてすごい護衛官になれるかもしれないのに。なのに彼は、彼女の現在だけでなく、その未来までもを、一瞬のうちに否定した。


(なんで、なんで……っ)


 憧れちゃ、いかんと?

 誰よりも高潔で、誰よりも強いその人に、なりたいと思ったら、いかんと?


(わたしが……女の子だから?)


 静けさがただよう森に、少女のかすかな欷泣(ききゅう)の声だけが響いた。

 護衛官に無下(むげ)に否定された(くや)しさは、死を悟ったときの恐怖や混乱も相成(あいな)って、一層深くなった。

 山賊(さんぞく)相手になにもできず、最後はただ助けを求めることしかできなかった(みじ)めさが、その思いに拍車(はくしゃ)をかけた。

 (くや)しくて、とにかく、(くや)しくて。

 思い出すほどに涙がにじむ。(にぎ)りしめた小さなこぶしには、くっきりと爪の(あと)がついていた。

 そのときになって初めて、スフィーリアは自身の(にぎ)られた手のなかの、異物の存在に気がついた。

 金属板だった。

 あの護衛官が首から下げていたものだ。見れば金属に通された細い(ひも)が、プツリと切れていた。強く(にぎ)っていたために、背中から降ろされたときに切れてしまったのだろう。


(どうしよ、返さんといかんったい)


 スフィーリアは護衛官が走っていった森の闇の中を見つめたが、もはや彼の姿はどこにもなかった。少女はふたたび、静かな森のなかにひとり取り残されていた。

 金属板に優しく()れれば、そこにはインクの文字がのっているのが、指先の感覚でわかった。

 暗闇のなかでは、何と書いてあるのかはわからない。もしかしたら、彼の名前かなにかが書いてあるのかもしれない。任務中でも肌身(はだみ)離さず持っていたくらいだから、きっと彼にとって大切なものなのだろう。

 スフィーリアは切れた(ひも)両端(りょうたん)をふたつ合わせて、くるりと結びなおした。それからその(ひも)を首にかけ、もう一度両手でしっかりと金属板をにぎる。


「わたし、絶対返しに来ます! 王室護衛官になって、それで、これを王宮まで返しに来ます!」


 スフィーリアは金属板を(にぎ)りしめたまま、誰もいない森にむかって(さけ)んだ。


「やけん、王室護衛官のお兄さん、王宮で待っとってください! わたし絶対、王室護衛官になるけん!」


 手のなかで、確かな(かた)さを感じる。それが彼女を夢へと導く、お守りになってくれる気がした。

 スフィーリアは首からさげた金属板を、叮嚀(ていねい)に白いドレスの中に入れた。それからくるりと背を向け、(さと)へと一気に走った。暗い山には、二度とふり返らなかった。

 (さと)の入り口の松明(たいまつ)(ほのお)が、道を大きく照らしていた。その道を目指して、少女は暗闇をまっすぐに走りつづけた。


 エル=イスカ連合王国銀暦(ティアルナムタ)1767年9月11日、休曜日の夜中のことだった。


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