別れの情景Ⅵ 秋の手紙
別れの情景のシリーズのⅥになります。
お元気ですか。
私は今、故郷の田舎に来ています。
今日はとてもさわやかな一日で、私は一日中、近くの川の岸辺や草ぼうぼうの野原を歩きまわっていました。吸いこまれそうに真っ青な空、流れていく空の羊たちをじっと見上げていると時間を忘れます。絹糸のように柔らかい、少しひんやりとした風に頬ずりされて、なにかとてもなつかしい気分になりました。
高校生まで、この自然の中で暮らしていたことを思い出しました。あのころはなんて素直に、世界をそのままに抱きしめていられたんだろう、と不思議な気分になりました。
小さいころからずっと都会にあこがれてきました。あそこにいけば、どんな楽しいことが待っているんだろうって思ってきました。こんな田舎に生れてしまった自分はなんてかわいそうなんだろうと思ってきました。
都会の大学に合格して、大学の入学式の会場に足を踏み入れた時の幸せを、たぶん、私は、一生忘れません。やっと私も都会というものの一部になれたということに感動しました。そして、ここで、何があっても、自分のできるベストをつくして、悔いのない人生を送ろうって、決心しました。
そして、私は、都会の、あの熱い焼けつくような夏と、時間刻みのひりひりするような喧騒にからめとられながら、息をつく暇もないほどの忙しさを走りぬけてきました。
私は自分が幸せになれるはずだと思っていたし、幸せにならなくちゃいけないとずっと思ってきました。苦しかったり、悲しかったりする時は、それは自分の努力が足りなかっただけで、もっと努力すればいいとずっと思っていました。でも、きっとそれは、私の錯覚だったんあだなあと、今は思います。都会という名前の人にずっと憧れて、片思いしてきて、ようやく、近くで暮らせることになって、勝手に舞い上がっていただけなんだなあと思います。都会の方も、実は、私を愛してくれていると思い込んで、たとえそうでないとしても、私が思いつつければ、いつかはきっと愛してくれると信じて、その錯覚に酔っていただけのような気がします。
前置きが長くなってしまってもうしわけありません。すぐにでも連絡するようなことを言っておきながら、もう一カ月もたってしまったこと、もうしわけなく思っています。ほんとうにすみません。
ですが、私が考えなければいけなかったのは、目の前にある二つの絶望のうちどちらの絶望の方がよりましかということだったのです。私は答を出すのが怖かったのです。
結論を先に申しあげた方がいいかと思います。もうしわけありませんが、私たちの婚約はなかったことにさせてください。
ひとことで言ってしまえば、私たちは求めるものが違いすぎたのでしょう。
いつもすれ違いだったような気がしますが、とりわけ印象的だったのは、夏の初めごろ港の近くのレストランで食事をした時のことです。ひどく暑い日で、一日の仕事がとても忙しかったので、あなたにお会いするころには私は疲れ切っていました。あなたは元気そうに仕事の話をしていましたが、私は疲れ切って、相槌を打つのが精いっぱいでした。突然あなたが怒りだしました。私が、あなたの話を全然聞いてないというのです。聞いていなかったわけじゃありません。ただ、疲れ切っていた私には少し難しく、興味も持てなかっただけです。私は「ごめんなさい。疲れていて」と謝りました。あなたはそんなこと言いわけにならないと言いました。「二人が婚約したのは、これからふたりで楽しい時間を作っていくために努力しようということだろう。何の努力もせずにぼくを不愉快にするくらいなら最初からここへ来ない方がましだろう」とあなたはおっしゃいました。そして、あなたの知っている立派な女性の話をいろいろと教えてくれて、あとはろくにおしゃべりもせず、食事が終わるとさっさと帰ってしまわれました。
私の胸は悔しさと怒りでいっぱいでした。「こんなひどい仕打ちをするなんて、二度とあなたを許さない」と私は思いました。頭の中がもうぐちゃぐちゃで、長いこと海からの風に吹かれながら歩き回っていました。どうしてなんだろう。と私は思いました。私はあなたのためにこんなにつくしているのに、あなたはいつも努力が足りないという。そして決まって「ぼくはこんなに君のために努力しているのに」と言うのです。
来る日も来る日も私は同じことばかり考えていました。やがて私にも少しずつわかってきました。あなたが私に求めている私の姿と、私があなたに求めている姿が少し違っているのだということに。
あなたが私に求めているのは、あなたのことだけを考え、あなたのために生きる、情熱的な恋人のような「私」でした。私があなたに求めたのは、どんなに努力してもあなたの望みそのままにはなりきれない私を、そのままに受け入れてくれるあなたでした。あなたは本当に私に親切に、考えられる限りのことをしてくださいました。そして、あなたが努力すればするほど、あなたの思い通りにならない私が不満でした。
私はあなたの気にいる私になろうと努力したつもりです。あなたの好きだという本を読み、あなたの好きだという音楽を聞きました。あなたが好きだというものを作ってきたこともあります。でも、いつも、あなたは言うのです。少しはぼくのことも考えてくれよ。
自分の努力が足りなかったと責められるのはまだ我慢できました。けれども、私がそれなりに努力しているのに、その努力を、一切、認めてもらえないことは耐えがたいことでした。私は私のありのままを認めずに、足りないところを指摘するあなたに不満でした。あなたの不満が私の不満でした。どうにかしたいと思っても、どうにもならず、そのことがお互いの不満をかきたてる、どこまで行ってもすれ違いの悪循環なのでした。
私たちは、二人の婚約を、かけがえのないものとして選んだわけではありませんでした。最初から、お互いの親を通して、結婚を前提に知り合ったわけですから。でも、あなたが正式にプロポーズしてくださった時、私はうれしかったです。「今はまだ、この人を、本当に愛している自信はない。きっと相手もそうだろう。だけど、愛するように、そして愛されるように、精いっぱい努力して、きっと幸せになろう」と、そう思いました。私は、それが間違いだったとは思いません。二人とも、一人で生きていくのは寂しすぎると思ったから結婚を望み、愛をそそぐ相手としてお互いを選んだのです。ただ、結果的には、二人が二人の関係に望むものが違いすぎたのだと思います。
あきらめるしかないことはわかっていました。私にはあなたの気に入るほどの努力をする気力は、もはやありませんでした。どんなに努力をしても、あなたには認めてもらえないことも。でも、婚約を破棄することは、もう一つの絶望を受け入れることでした。子どものころからずっと抱き続けてきた一つの思い、私の生き方を根っこのところで支えてきた一つの夢、「努力すれば、きっと幸せになれる」という信頼が、結局、幻想にすぎなかったことを認めることでした。私の人生は物語ではなく、ハッピーエンドが約束されているわけではないと、頭では理解していました。でも、心の片隅でいつも、私はそれを期待していたのです。それを失ったら、私の心はむき出しで荒野に放り出されてしまうと思うと、私はそれが怖かったのです。
でも、何日も何日も、ふるさとの秋の透き通った空気のなかを歩いていると、それが私の運命だったのだと思えたのです。
あなたは、私が婚約を破棄したいと申し上げたとしても、反対はなさらないだろうと私は思いました。私はあなたにとってそれだけのものに過ぎません。そう思ったとき、私は私の運命を受け入れる決心をしました。私の片思いだったと思いました。あなたに対して、都会に対して、そして、私の幸せな人生に対して。
眼を閉じて天を仰いでいると、やさしい風が涙をぬぐい、温かな陽が乾かしてくれるのでした。私は私でいるしかない。ありのままの私でいるしかない、とそう思ったのです。
いろいろな方にご迷惑をかけてしまうことになるのはとても申し訳なく思います。明日、両親に話し、こちらですべきことが終わったら、そちらへうかがって直接おわびを申し上げるつもりです。
あなたに、初めてお会いした時、何てすてきな方だろうと思いました。そのあと、本当にいろいろなことがありましたが、あなたに会うとき、私はいつも少しだけいつもと違う自分を感じておりました。あなたのことを考えると胸が温かくなるような気がしました。あなたには不十分だったのかもしれませんが、それが私にとっての恋というものだったのです。結婚したいとは言ってくださっても、愛しているとは言ってくださいませんでした。あなたの正直さを好ましく思います。私の思いは片思いだったのです。
もう一度だけあなたに会いに行くつもりです。そのときには私は何の努力もせずに、ありのままの自分でいようと思います。
さようならは、その時までとっておこうと思います。とりあえず今日はこれで失礼させていただきます。
この話そのままではないけれど人生って難しいなと思うことが多いです