第一章
今から二千年以上も前のこと
大陸のほぼ中央部にその国はあった。
領地の中を、東西世界を繋ぐ大きな街道が通っており、貿易のためにたくさんの人々が行き来していた。
王の命令で、国内の街道沿いは安全が保たれており、交易が盛んに行われていた。
しかし、
そこから生まれる利益を狙われ、周辺の地域から襲われることも多かった。
特に、国境付近では小競り合いが繰り返され、鎮圧するために軍隊が頻繁に出動していた。
今日も、北部方面を警備する部隊と、近隣の少数民族とが、国境の森で戦闘を繰り広げたらしい。
陽が落ち時折梟の声が聞こえてくる中、森の中にある野戦病院の片隅に横たわっている一人の若者を、数人の兵士達が取り囲んでいた。
「傷は浅いぞ!」
「気をしっかり持つんだ!」
兵士達の声が響く。
しかし若者は微かに、
「父さん ごめん・・」
とだけつぶやいて息を引き取った。
若者の名は陀院といい、
今日戦っていた部隊の参謀をしていた。
周りにいる男達の中には、彼の父親で二番隊全部隊の隊長を勤める宇龍の姿もあった。
連絡を受け、急きょ駆けつけたその大男は、悲しみと悔しさで人一倍大きな背中をブルブルと震わせて嗚咽していた。
野戦病院の周辺はすでに闇に包まれている。
明かりとともに浮かび上がった白いテントを、草原からの寒風がゆらゆらと揺らしていた。
今回の戦は、陀院にとって初めてのものだった。
討伐するのは、辺境の少数民族で楽に勝てる相手だ。
宇龍は息子の初戦を勝利で飾ってやりたかった。
敵を追い払い、勝利することは出来たが、宇龍には悲しい結果となってしまった。
今回部隊の指揮を執っていた将軍は、こんな結果になってしまい、陀院のことを話すのが辛かった。
将軍が口ごもりながら話した内容では、戦闘は終始見方に有利だった。
その最中、陀院は敵の様子を見ようとして、木陰から何度も身を乗り出したそうだ。
そこを狙われ一斉に射抜かれたのだ。
参謀として、敵の様子を知りたい気持ちが先走り、接近戦でしてはならない初歩的な失敗をしていた。
兵士が同じ動きを繰り返すことは危険だ。
そのことは訓練で何度も教えていた。
なのに慌てていたのか。
それとも運がなかったのか。
何故・・
そんなことで、命を落とさなくてはならないことが、宇龍には口惜しくて堪らなかった。
陀院自身が、自らのふがいなさを自覚していたのだろうか。
最後の言葉が父への謝罪だったことが、余計哀れで不憫だった。
父親の宇龍は、幼少から人一倍身体能力が高く、武勇に優れていたため、武闘大会の都度優勝を重ねてきた。
軍隊に入ってからも、他の戦士達に遅れをとったことは一度もなく、国内随一の戦士と言われていた。
古今彼の右に出る者はいないだろうとさえ言われた。
毎年、王の前で行われる武術大会ではずっと審査委員長を勤めていた。
それだけに、一人息子の陀院に対する期待は大きく、小さな頃から手取り足取りで、息子を立派な戦士とするべく教育を施してきた。
いずれは、宇龍だけが使える鋼の鞭を、息子に継がせることが父の夢でもあったが・・
今その夢は全く潰えてしまった。
宇龍は十年程前に妻を亡くしていた。
それ以来妻帯せずに、親子二人で暮らしてきた。
妻に先立たれ、一人息子を亡くした宇龍は天涯孤独な身の上となってしまった。
息子の死以来、宇龍は生き甲斐を無くしてしまった。
気持ちが高揚せず、ふさぎ込む事が多くなった。
駐屯している砦の宿舎に閉じこもり、あまり外にも出なくなった。
心配した隊員が様子を見に行くと、奥の部屋で壁に向かって横になっている、宇龍の後ろ姿がよく見かけられた。
そこには、以前の戦場を駆け巡る宇龍の勇姿は無かった。
いつしか隊員達も知らない間に、長年勤めた隊長職も、城勤めも辞め、砦から姿を消していた。
それから一年近くが経った。
しかしこの一年、宇龍は何をしていたのかあまり覚えがなかった。
食べ物を食べ、眠くなれば寝ていたのだろう。
周りの景色や人々の様子も変わっていたにも関わらず、生きていること自体が虚ろであって、心が動くことがなかったのだ。
まるで、雨降り前の空のように、心に灰色の雲がかかったままの状態だった。
以前は、大きな宇龍が近づいていくと、その威圧感に辺りの人々は振り返ってまで見ていた。
しかし今は生気を無くし、ただぼんやりとたたずむ彼を見て、人々は気味悪く感じると共に、事情を知る者からは哀れみの眼で見られていた。
普段、宇龍は街の中にある海燕の家に住んでいる。
しかし、相変わらず息子のことを思い出してはため息をつき、何をするでもなく、ぶらぶらしているだけの毎日を送っていた。
海燕は、宇龍の下で二番隊の副隊長として働いていた男だ。
宇龍が辞職した後は、隊長を勤めている。
宇龍との付き合いが長く、
互いに協力しながら戦いをくぐり抜けてきた。
宇龍に命を助けられたことが何度もあり、お互いが固い信頼関係で結ばれていた。
そんな海燕にとって、英雄だった宇龍が落ち込んでいる姿を見るのは辛かった。
何とか元気を取り戻し、二番隊に復帰してもらいたかった。
そこで、海燕は子供を相手にしていれば、気を紛らすことが出来ないものかたと考えた。
海燕には息子が三人いて、どの子もまだ幼かった。その子達相手に日々を過ごしていれば、いずれは気持ちが安らいでいくのではと思ったのだ。
妻の亜育に相談したところ、妻も賛成してくれた。
そこで、自宅に宇龍を住まわせ、生活の面倒を見ることにしたのだ。
今、宇龍は海燕の家族として迎え入れられ、空いていた離れで寝起きしている。
そんなある日、
夕陽が遠く地平線に沈もうかという頃、
仕事帰りの人、
買い物に出掛ける人達が、
都の通りを歩いている中に、宇龍の姿もあった。
特段目的があるわけではなく、何気に出掛けて来たにすぎない。
海燕の家族から、外に出た方が気持ちが晴れるからと勧められているので、何の目的もなく外出したのだ。
どこをどう歩いたのか分からないまま、いつしか宇龍は市場の通りを歩いていた。
夕方にはなっていたが、まだ辺りは明るく、石畳の通路の上にかかっている日よけ用の帯布が、地面に影を落とし
風で揺らいでいた。
店先で揺れる銅食器が、時々ぶつかり合い乾いた音を立てている。
何処から流れて来る物売りの声や、荷車の音が方々から聞こえる。
あちこちの屋台で焼かれる肉の焦げる臭いや、香辛料の香りが入り混じって市場全体を覆っていた。
しかし、宇龍の意識はボンヤリとしたままで何にも関心が湧かなかった。
通りを歩いている人達と、一緒になって歩いているだけで、何かを見たい訳でもなく、何となく足を動かしているだけだった。
するとある店の前で、馬鹿野郎と怒鳴る老人と、傍らで黙って立っている青年の姿が眼に入った。
「何をやってるんだ。」
「こんなこともわからないのか。」
立て続けに老人が怒鳴っている。
どうやら青年は店番をしていたらしいが、何か失敗したらしい。
それも稚拙な失敗らしく
「お前は何度言ったら覚えるんだ。」
と老人が呆れて言った。
青年は何も言わないでうつむいていた。
青年の容姿は、
スラッと背が高く、目鼻立ちもはっきりとし、むしろ清々しい感じさえ受ける。
外見から判断した限りでは、馬鹿者よりもむしろ好青年といった印象だ。
宇龍は思い浮かべた。
自分も陀院のことを幼いころからよく怒鳴っていた。
強い戦士に育てることしか頭になかった。
しかし陀院は身体能力が低く、戦士として父親には遥かに及ばなかった。
それどころか、一般の兵士程の力量もなかった。
訓練中、こんなこともできないのかと何度も怒鳴った。
暗くなってからも、一人残って訓練している姿をよく見かけたが、なかなか上達していかなかった。
人一倍強靭な体を持ってうまれた宇龍には、苦もなくできることが陀院には無理だった。
教えるつもりで対峙していても、
覚えが悪いことにいらついた。
そんな凡庸さが歯がゆく、
ついつい言葉も荒くなってしまい、
愚か者、恥を知れと罵ってしまっていることもあった。
叱られている間、
蛇院は怒っている父の言葉を黙って聞いていた。
そんなことが幾度もあった。
どうしようもなく、
無言でたたずんでいる、息子の様子を思い浮かべると可哀相になった。
何を思って聞いていたのだろう。
きっと辛かったに違いない。
上手くできない、自身のふがいなさを責めていたのかもしれない。
そんな息子の心情を考えると、宇龍の心は傷んだ。
自分は息子を叱ってばかりいた。
息子に自分が教えてきたことは、戦い方だけだったような気がする。
『他に何をしていたのか?』と自問自答しても、すぐに浮かんで来ないほど、軍人になるための生活一辺倒だったように思える。
『自分は愚かなことをし続けていたのではなかったか。』
今更になって、どうにも出来なく、もどかしさばかりが募って来る。
陀院に申し訳ない気持ちが沸き起こり、今更ながら胸が締め付けられた。
老人は興奮していたので、大きな声で怒鳴っていた。
「いいか 金と品物は一緒に交換するんだ。先に品物を渡したら、金を払わずに逃げられるに決まってるだろう。
何度言ったらわかるんだ。」
『この青年は利発そうに見えるが』
怒鳴られている青年のことが気になりながらも、宇龍は家路についた。
一週間後、
宇龍はふと以前のことを思い出し、
青年の様子を見に市場へ行ってみた。
通りをしばらく歩いてから見覚えのある狭い店に入った。
店内には、天井近くの棚には鉱石や、金・銀があしらわれた首飾りや腕輪といった装飾品類が置かれている。
その下の棚には、刺繍が施されたスカーフやマント等、色とりどりの布製品や関連する品物が不規則に並べられている。
向かいの棚には、ガラスタイルが埋め込まれ色とりどりに装飾された、大小の壺や皿が飾られていた。
また鍵の掛かる棚には、銅製の燭台が大事そうに置かれ、それらとは関係無く、西瓜や麦といった野菜や穀物が足元に無造作に置いてあり、まさに雑貨店という感じだ。
青年は一人だけで店番をしていた。
宇龍が品物を見るフリをしながら様子を伺っていると、
時々空間に手を伸ばして、何かを描くような動作をする。
宇龍は思い切って話しかけてみた。
笑顔を浮かべ怖がらせないように注意しながら、
「今日は一人で店番かい?」
「うん 今おやじさんは買い出しに行ってる。」
「おやじさんは君の父さんかい?」
「いやっ、 父さんの知り合いだよ。
前の工場をクビになっちゃったので、雇ってもらっているんだ。
でも失敗ばかりしていてね。
よく怒られるんだ。」
青年は、そう言って恥ずかしそうに頭をかいた。
生前陀院が、宇龍から怒られたことをこぼしていたと聞いたことがあった。
陀院は父である自分をどう思っていたのだろうと青年を見ながら宇龍は考えた。
「誰だって失敗したくてする訳じゃないよ。
失敗するのは君だけじゃない。
気にするなよ。」
思わず優しい言葉をかけた自分に、宇龍は少し驚いていた。
青年は安心したのか、少しずつ身の上を話し始めた。
青年の名は朱鞠といい、
街外れに両親と住んでいた。
父は地方の下級役人をしていたが、既に退官していた。
息子の朱鞠は、幼い頃から学業に秀でていたので、親は後を継せようとして役所に勤めさせた。
しかし、同僚や上司と折り合いが上手くいかなかった。
要領が悪く、仕事でも失敗を繰り返すうち、とうとう役所を首になってしまった。
「俺も、仕事を上手くやろうと思って頑張ってみたんだ。でも無理して頑張っていると、胸の辺りが痛くなって来て、何もできなくなってしまうんだ。
父さんは怠け病だと言って、取り合ってくれなかったけどね。」
「可愛そうに 休むわけにはいかなかったのかい?」
「時々休んだりしたけど、稼がなきゃならないから他のところを探して働いてるんだ。」
他の職にもいくつか就いてみたが、どれもこれもうまくいかなかった。
言われたことはそこそこやるが、気が回らないので仕事の出来が良くない。
また、いつも上の空で人と会話が噛み合わず、協力し合って仕事をすることが苦手だった。
我慢しながら無理して働いていると、体調を崩してしまう。
両親も困っていたが、何より本人が辛かった。人並みな仕事をこなせず、周りに迷惑をかけては怒られることを、繰り返していたのだから。
そのあと青年はもぞもぞ呟きながら、空に手を伸ばして、何かを描くような動作をした。
「何をしたんだい?」
宇龍が聞くと
「よく分からない。」
と言う。
「分からないものを何故描くのだ?」
と聞くと、
「何故か描きたくなって自然に手が動くんだ。
頭に浮かんだり感じたものの、文字や形を描くのが好きなんだ。
描いていると気持ちが良いんだよ。
ただ夢中になりすぎると、周りの様子が分からなくなってしまうんだ。」
「変わった子だ。」
と宇龍は思った。
朱鞠が宇龍に自分のことを話したのは波長が合ったからか、
一見恐そうな宇龍が優しかったので、安心したからかは分からない。
ただ、心がどこか現実とかけ離れており、様子が危うそうな朱鞠を見て、宇龍は息子の面影をわずかに感じ始めていた。