六章:誓い
数日経った夜。
不意に、俺の携帯が着信を告げる。あまり使うことのない、いつも部屋に置きっぱなしにしてある携帯だ。俺は、自分の部屋で通話を繋ぐ。
「はい、もしも」
「藤岡君っ!」
俺の声を遮るように、女性の声が耳を貫いた。その声は、美樹のお母さんのもの。しかし、今までにない切迫した響きがあった。
「どうしたんですか?」
それを訝しく思いながら、尋ねる。
―――嫌な予感がした。
電話口の美樹のお母さんはひどく動揺しているらしい。
―――俺にかけてくる電話なんて、用件は限られているじゃないか。
それでもなんとか落ち着こうとしたのだろう。
―――今、俺に電話をするとしたら。
美樹のお母さんが、口を開く。
「美樹が……美樹が……」
―――それは、美樹に関することしかないじゃないか!
「美樹がどうかしたんですか!」
叫ぶ。
頭に浮かぶのは、ストレッチャーで運ばれていった美樹の姿。
「美樹の容態が急変して、今、お医者さんが……」
「っ! すぐに行きます!」
それだけで十分だった。俺は上着を適当に羽織ると、弾かれたように駆け出す。
外は、今にも泣きそうな雲に覆われていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……くそっ!」
人がいない夜道を走り抜ける。息が上がるが、足を止めるつもりはない。今更ながら、自転車でも使えば良かったと後悔した。
それでも走り、俺は病院へとたどり着く。
病院の中は走らないように、なんて張り紙を無視して、俺は階段へと走る。
今はエレベーターを待っている時間も惜しい。
二段飛ばしに階段を駆け上がり、転がるようにICUへと向かう。そして、ICUの扉の前に、美樹のお母さんがいた。酷く落ち着かないように、扉の前を行ったり来たりしている。
俺の姿を見ると、すぐさま駆け寄ってきた。
「藤岡君……美樹が……」
その顔は、青ざめている。その様子に、俺は最悪の事態を思い描いてしまった。
「美樹が、どうしたんですか?」
震える声を抑えて尋ねる。すると、美樹のお母さんはICUのほうへと目を向けた。
「詳しいことはわからないの。ただ、お医者さんが、美樹の容態が急変したって……。それで今、応急手当をしてる……」
「応急手当って……手術はできないんですか!」
「まだ美樹に体力が戻ってないから、手術は行えないって言っていたわ。今の美樹の体では、手術に耐えられないって……」
「そんな……」
俺は呆然としながら、ICUの扉を見る。
中を伺い見ることはできないが、今も美樹の治療が行われているのだろう。俺は引き寄せられるように、その扉へと近づいた。
すると、不意に扉が開く。そして、中から美樹を担当していた医師が姿を見せた。
すぐさま俺が駆け寄ると、医師は沈痛な面持ちで開いた扉のほうを見る。
「……美樹さんが待っています」
「―――え?」
それは、一体どういうことだろう?
俺は麻痺した頭で、とにかく美樹に会っていいんだって、そう思った。
ICUの中に入り、奥に進む。フラフラと、どこか危うげな足取りで。
「……美樹」
そして、美樹がいた。
診療台の上で、眠るように目を瞑っている。その周りには、治療を担当したであろう看護師達がいた。
「美樹」
もう一度呼びかける。すると、ゆっくりと美樹が目を開けた。
「……あ、修司、さん」
看護師に支えられながら、体を起こす。
そして、弱弱しく微笑む。
顔はいつもより白く、生気がない。少し痩せたようにも見える。
部屋の隅では、心電図が不規則に小さな音を鳴らしていた。
「急いで、来てくれたんですね。嬉しいなぁ……」
そう言って、場違いなほど嬉しそうに笑う。
俺には、それがとても遠くに見えて、一歩美樹に近づいた。
「美樹っ!」
俺に遅れて、美樹のお母さんが入ってくる。だが、それに振り向くだけの余裕はなかった。 俺はただ、美樹を見ることしかできない。
「あ、おかあ、さん」
囁くように言って、微笑む。その笑みに、美樹のお母さんは口元を抑えて膝を突いた。
「……先生、美樹は」
一番聞きたくないこと。美樹のお母さんは、それを担当の医師に尋ねた。
医師は、それに歯を食いしばって答える。
「手は、尽くしました」
それがどんな意味を持っているのか、俺の頭は理解しようとしない。
わかっているのに、ひたすら認めようとしなかった。
それでも、理解しないといけない。そして理解すると同時に、医師に対して声を荒げていた。
「そんな! アンタは医者だろ!? なら、美樹を助けてくれよ!」
それが、理不尽な願いだとわかっている。この人達は、本気で手を尽くした。でも、それでも、俺は何かに当たらなければ気が狂いそうだった。
「修司君」
そんな俺を、美樹の声が優しく遮る。美樹を見れば、美樹は微笑んでいた。
「そんなことを言ったら、駄目ですよ。先生達は、頑張ってくれたんですから」
そう言って、美樹は長年担当したであろう医師に頭を下げる。
「先生。今まで、ありがとうございました。長い間、お世話になりました」
美樹の言葉に、医師は顔を伏せた。
「……すまない」
「あはは……謝らないでくださいよ」
最後だというのに、美樹は気遣うように医師と話す。次いで、美樹は自分の母親へと顔を向けた。
「お母さん……ごめんなさい」
初めに告げたのは、謝罪。そして、申し訳なさそうに微笑む。
「わたし、親不孝者だね」
「そんなことっ……」
美樹の言葉に、美樹のお母さんは涙を滲ませながら首を振る。そして、優しく美樹を抱きしめた。
「そんなこと、ないわ。あなたは、私にとってかけがえのない、大事な娘だもの」
涙ながらにそう言って、美樹のお母さんは顔を上げる。
「わたしこそ、ごめんなさい。美樹を健康な体で産めていたら……」
「もう、お母さんったら。それは、何度も聞いたよ。そして、何度も言ったでしょ? それは、お母さんのせいじゃないって」
いつも通りに、美樹は話す。
微笑みながら、ただ、何かに耐えるように、額に汗を浮かべて。
そんな美樹を見ていたら、
―――ああ、本当に、最後なんだな。
なんて、そんなことを考えてしまって。
美樹は、必死にいつも通りにしようとしている。それが、痛いほどわかってしまった。
美樹が俺に顔を向ける。それと同時に、美樹のお母さんが少し離れた。
「修司さん」
「なんだ?」
だから、俺にできることはただ一つ。
俺も、出来る限り、いつも通りに美樹と話すことだけ。
「一緒に、学校に通いたかったです」
「俺もだ」
「そして、一度で良いから『先輩』って呼んでみたかったな……」
「それは勘弁してほしいぞ。だけど、一度くらいなら呼ばれてみたかった」
俺と美樹は、顔を合わせて笑う。
でも、俺は上手く笑えていただろうか?
せめて、美樹が安心できるようにと、必死に笑顔を作る。
「一緒に学校に通って、昼休みは一緒にご飯を食べて、放課後は一緒に遊びに行って……」
「それだと、俺はクラスの奴に冷やかされるな」
「嫌ですか?」
「いや、むしろ自慢してやるさ」
声が震えていないか、不安だった。
「自慢は、ちょっと恥ずかしいですね」
「そうかな?」
「そうですよ。でも、わたしも自慢したかもしれません」
「ならお互い様だ」
美樹の手を握る。
「登下校は、手を繋いでおくのも良いですね」
「それはさすがに恥ずかしいぞ。やっぱり、こういうのは時と場所を選ぶから良いんじゃないか?」
「あはは、そうかもしれません」
握った手は、氷みたいに冷たくて。
「休日は、デートに出かけましょう」
「そうだな。じゃあ、いつもの場所でどうだ? 俺が釣りを教えてやるぞ?」
「それじゃあデートにならないじゃないですか……でも、それも面白そうですね」
一緒に、笑い合う。
だけど、それは表面だけの笑いだった。
美樹がもう片方の手を伸ばし、俺の頬に触れてくる。
「泣かないで、ください」
触れられて気づいた。俺は、知らない間に涙を流していたらしい。
「泣いてなんか、いないぞ。それに、美樹だって泣いてるじゃないか」
そう言って、俺も美樹の頬に触れる。
「なら、一緒ですね」
「そうだな、一緒だ」
すると、美樹は傍にあったお守りを握りしめる。
「手術には、ご利益があったんですけどね」
「今度、文句を言ってくるよ」
「駄目ですよ、そんなことをしたら」
「美樹がそう言うなら、止めとく」
なるべく笑う。だけど、涙は止まりそうになかった。
「ねえ、修司さん」
美樹は、どこかぼんやりとしながら、
「修司さんは、しっかり生きてくださいね」
いつか聞いた言葉を、もう一度口にした。
「……ああ、わかってる」
右手を、血が滲むほど強く握りしめる。
そんな俺を見た美樹は、安心したように微笑んだ。
「約束、ですよ?」
俺は美樹の右手を取って、自分の小指を絡める。
「約束、だ。これでいいだろ?」
「……はい。これで、安心です」
そう言って、美樹は目を瞑った。
「修司、さん。最後に、ワガママを……言っていいですか?」
ゆっくりと、途切れそうな声で美樹が尋ねてくる。
「……なんだ?」
「この前の、病室での続き……修司さんから、してほしいな……」
少し、美樹が顎を上げた。それを見て、俺は涙混じりに苦笑する。
「そんなことでいいのなら」
「お願い、します」
肩を抱き寄せ、ゆっくりと口付ける。
時間にしてほんの数秒、俺は冷たい唇から自分の唇を離す。
「ふふ……ありがとう、ございました」
徐々に、美樹の体から力が抜けていく。
「貴方に会えて、本当に良かった」
最後に、微笑む。
そして、美樹の体から完全に力が抜けた。
お守りを握った手が、診療台から滑り落ちる。そして、それにつられるようにお守りが地面へと転がった。
心電図を見ていた一人が、声を出す。
「……バイタル、ゼロ。心拍、止まりました」
安らかな表情で眠る美樹を、優しく横たえる。
その顔は本当に穏やかで、
「う、うわあああああああっ!」
そして俺は、生まれて初めて、大声を上げて泣いた。