四章:想いと願い
大分傾いてきた太陽を見ながら、俺はのんびりと道を歩いていく。おそらく、あと一時間もすれば完全に日が沈むだろう。
いつもとは違い、俺以外にも歩いている人が大勢いる。しかも、大半が浴衣に身を包んでいた。
それぞれ思い思いの浴衣を着て、楽しそうな顔をしている。
俺はその流れに逆らうように、逆方向へと歩いていく。そして、目の前の建物を前に気を引き締めた。
「よし、行くか」
深呼吸をして、一歩前に出る。多少、というか、かなり緊張するがなんとか堪えた。
病院の玄関先に目を向ければ、誰かが立っているのが見える。
「あ、藤岡さーん!」
その“誰か”は、こっちへ歩きながら手を振った。
「―――――」
それを見て、俺は硬直する。
誰か、なんて言うことはない、常盤だ。俺を藤岡さんと呼ぶのは常盤しかいない。
だが、いつもの常盤とは違う。
「あれ、どうかしました?」
そう言って首をかしげる常盤は、浴衣だった。
藍色を基調とした、全体的に落ちついた雰囲気の浴衣。
ところどころに花らしきものの刺繍が施されており、それがとても似合っている。
赤い鼻緒の下駄に、流れる黒髪も、いつもとは雰囲気を変えていた。
ああ、遠回しに言うのはやめよう。
「綺麗だ」
思わず、口からそう漏れてしまうくらい綺麗だった。
「え、あ……」
その言葉に、常盤も硬直する。そして、困ったように頬を染めて下を向いた。
「ほ、褒めてくれるのは嬉しいですけど、いきなりは困りますよ」
それでも喜んでくれたのだろう。その表情はとても明るい。
「でも、ありがとうございます」
嬉しそうにそう言って、軽く頭を下げてくる。ただ、顔はかなり赤かったが。
「いやぁ、若いっていうのは良いわねぇ」
そんな俺と常盤を見ながら、常盤のお母さんが歩み寄ってくる。
俺はといえば、今更自分の言葉が恥ずかしくなって顔を赤くした。
「照れない照れない。さて、それじゃ美樹のことをお願いするわね」
「はい」
「うん。じゃあ行ってきます、お母さん」
小さく手を振って、常盤が俺の横に並ぶ。
常盤のお母さんに一度頭を下げてから、俺と常盤は歩き出した。
カランコロンと常盤の下駄が鳴る。俺はそれを聞きながら、隣の常盤へと目を向けた。
「髪は結わなかったんだな」
「はい。後ろでまとめようかとも思ったんですけど、お母さんがこっちのほうが良いって言うからそのままにしておいたんです」
「そうか……」
そこまで言って、目を逸らす。なんというか、酷く落ち着かない。まるで、隣を歩いているのが常盤じゃないみたいだ。
「あの、どうかしましたか?」
そんな俺を見て不安になったのか、常盤が聞いてくる。俺はそれにどう答えたものかと思案し、正直に答えることにした。
「その、なんだ。まるで、常盤が別人みたいに見えてな」
「別人……ですか?」
「ああ。さっきも言ったんだが、あー……いつもよりも綺麗に見えて、な」
そこまで言って、何を言ってるんだと傍の木に頭を打ちつけたくなる。すると、常盤が顔を赤くしながら慌てたように手を振り回した。
「も、もうっ。さっきからそんなことばっかり言って。あんまりからかわないでくださいよ」
「いや、からかっているつもりはないんだが……」
実際、別人のように見えたというのは嘘ではない。俺がそう告げると、常盤は沈黙してしまった。耳まで赤いのは、多分夕暮れのせいではないだろう。
二人で会話もないまま、神社への道を歩いていく。
失敗したかな、と後悔しようとした時、不意に暖かいものが右手を包んだ。
視線を下げてみれば、黙ったままの常盤が俺の右手を握っている。
「は、はぐれたら嫌ですか……」
どこか不安そうに、常盤がそう言った。俺は、自分の手よりも一回り小さい常盤の手を優しく握り返す。
きっとそのときの俺は、常盤に負けないくらい赤くなっていた。
楽しげな祭囃子。そして、それを楽しむかのような喧騒。
俺は常盤と手を繋いだままで、それらを軽く見やった。
「うわぁ……すごいですね」
その横では、常盤が驚いたような声を上げている。
「なんだ、常盤は祭りにきたことなかったのか?」
「いえ、ないことはないんですけど、こんなに大きなお祭りは初めてです」
「そうか……なら、楽しまないとな」
「はい!」
元気良く答える常盤に、俺は苦笑を浮かべた。こんな常盤を見れただけでも、祭りに来た甲斐があったというものだ。
「さて、それじゃあどうする? 晩飯は食べてきたのか?」
「あ、はい。藤岡さんは食べてないんですか?」
「ああ。軽い腹ごしらえはしてるけど、折角の祭りだから色々食べようと思ってな」
「それじゃあ、食べ歩きながら面白そうなものを探しましょうか?」
「よし、そうしよう」
そう言って、俺は常盤の手を引いて歩き出す。すると、常盤も嬉しそうに歩き出した。
「まずは何をしようか……」
立ち並ぶ夜店を眺めながら、吟味する。大きい祭りだけあって、夜店の数も種類も多いため悩んでしまう。
金魚すくい。ヨーヨー釣り。射的。くじ引き。遊ぶものはかなりある。
食べるものも、焼きそばにたこ焼き、焼き鳥にアンズ飴、綿菓子等の定番なものから、あまり見たことないものまで色々なものがある。
「あ、藤岡さん。わたしあれがしたいです」
そんな中で、常盤が射的を指差す。俺はふむ、と頷いてそちらへと歩き出した。
「お、いらっしゃい! やっていくかい?」
店主らしき人が威勢よく声をかけてくる。
「ええ、二人分で」
そう言ってお金を出そうとすると、店主は俺と常盤を見て手を振る。
「おいおいアンちゃん、そこに張り紙があるだろ?」
「はい?」
言われて目を下に向けてみると、たしかに張り紙があった。
『カップル割引。カップルの方達は、半額になります』
「…………」
俺と常盤は、思わず顔を見合わせる。常盤の顔が赤いが、俺も多分赤い。
「だから、金は一人分ってことなんだが……なんだ、もしかしてカップルじゃなかったのかい?」
怪訝そうな店主にどういったものかと悩むが、それよりも早く常盤が動いた。
「いえ、カップルです」
楽しそうにそう言って、手ではなく腕にしがみついてくる。それを見た店主は、ニヤニヤと笑った。
「お熱いことで。ほら、それじゃあ二人分」
俺は半ば凍結しかけの思考をなんとか動かし、一人分のお金を渡してコルク銃を受け取る。 そして、機械のような動きでコルクを銃口に詰めた。
「わたし、射的って初めてなんですよねー」
横では、常盤が嬉々としてコルク銃を構えている。
俺はそんな常盤の楽しそうな様子に、ふっと肩の力を抜いた。
「えいっ。あ、外れちゃいました」
コルク銃なんて使ったことはないのだろう。常盤が放った弾丸は、景品から少し離れたところを通り過ぎていく。
「キャラメルかよ」
「わたし、甘いもの好きなんです」
そう言いつつ、常盤は真剣な表情で再びキャラメルの箱に狙いをつける。もしかしたら負けず嫌いなのかもしれないな。
俺は新しい常盤の一面に苦笑しながら、適度に狙いやすいものを狙う。そして引き金を引くと、狙い通り景品を撃ち落した。
「お、上手だねぇ」
「どうも。まあ、狙いやすいやつでしたから」
店主から景品……小さなぬいぐるみを受け取る。常盤のほうを見てみれば、少し悔しそうな顔で俺を見ていた。
「うぅ……上手ですね」
「一応、初めてじゃないからな」
常盤のコルク銃を見ると、すでに弾は残り一発。それでも、何も倒すことができなかったようだ。
最後の弾を銃に詰めて、常盤は再度キャラメルの箱を狙う。
いや、初めての奴がそんな小さな箱を狙うのはどうかと思うんだが。
そう思うが、決して口にはしない。黙って常盤を見る。
常盤は狙いをつけて、引き金を引く。するとコルクが宙を飛び、キャラメルの箱に命中して倒れた。
「やった! やりましたよ!」
諸手を挙げて喜ぶ常盤に、俺は苦笑する。余程嬉しいのだろう、店主からキャラメルを受け取ったときの笑顔は眩しいくらいだ。
そんな常盤に、俺はさっき手に入れた小さなぬいぐるみを差し出す。
「俺が持っていても意味ないし、やるよ」
「え、いいんですか?」
答えの代わりに、ぬいぐるみを手渡すことで応える。すると、常盤は笑顔で頷いた。
「ありがとうございます。大事にしますね」
喜んでもらえてなによりだ。
俺は、片手でぬいぐるみを抱きかかえた常盤と共に歩き出す。すると、常盤は空いているほうの手で俺の手を握ってきた。
「それじゃあ、他のお店を見て回りましょうか」
「そうだな」
なに、時間はまだある。だから今は、精一杯楽しむとしよう。
甘いもの好きという宣言通り、常盤が目をつけたのは綿菓子とリンゴ飴だった。
袋に入った綿菓子を購入し、さらには小さめのリンゴ飴を買って嬉しそうに笑う。俺はそんな常盤を見ながら、近くにあった焼き鳥を何本か購入した。
「藤岡さんは甘いもの食べないんですか?」
「ああ。甘いものはあまり好きじゃなくてな」
食べないわけではないが、好んで食べるほどじゃない。
俺がそういうと、常盤は『美味しいのに……』と小さく呟いた。
その呟きに苦笑しつつ、俺と常盤は人ごみに流されるように歩いていく。
「どこか落ち着いて食べられる場所に行くか?」
「そうですね……せっかくですから、味わって食べたいですし。そうしましょうか」
常盤の手を引きながら、俺は移動する。人ごみの間を通り抜け、夜店の掛け声を潜り抜けていく。そして、神社へと続く石段が目に入ったところで常盤のほうを向いた。
「それじゃ、上に上がるか。こっちはあまり人がいないし」
俺の言葉に、常盤は石段のほうを見て苦笑する。
「神社のお祭りなのに、肝心の神社に人があまりいないっていうのは……」
「気にするな。普通の人にとっては、夜店に行くことがお祭りなんだよ」
常盤の意見を流しつつ、石段を上っていく。ただ、少し急な石段のため、常盤が転ばないようにゆっくりと。
「こういうとき、浴衣と下駄って歩きにくいですね」
少し大変そうに石段を上る常盤。それに対し、俺は軽く肩を竦めた。
「いいじゃないか、風情があって」
「そういう問題じゃないと思うんですけど」
互いに笑い、石段を上りきる。そして、予想通りほとんど人がいなかった。
おみくじとお守りを売るための場所があるだけで、他に店はない。
俺は隅のほうに設置されている木製の椅子に目をつけると、常盤と共にそっちへと足を向けた。
「さて、ここで食べるか」
椅子に腰を下ろす。そして、先ほど購入した焼き鳥に口をつけた。
夜店の焼き鳥らしい大雑把な味だが、この場合はそれが正解だろう。海の家で不味い料理を食べるのと同じ原理だ。
俺の隣では、常盤が笑顔でリンゴ飴をかじっている。その様子は、やはりというか小動物っぽい。
いつもは大人びて見えるが、今は歳相応の女の子だ。
「あむ……ん、何ですか?」
リンゴ飴をかじりながら、不思議そうな顔で聞いてくる。
「いや、何も」
目を逸らし、焼き鳥を平らげていく。晩飯は軽めに食べていただけだから、余裕で食べきることができた。
俺は常盤がリンゴ飴に熱中していることを横目で確認して、さり気なくおみくじとお守りを売っている場所に目を向ける。
今日は常盤とお祭りに来た。常盤と一緒にお祭りを楽しみたい。だが、それと等分ぐらいの目的が別にある。
「ちょっと、席を外すぞ」
常盤にそう言って、俺は立ち上がる。常盤が驚いたような目で見るが、俺が大したことじゃないと告げると再びリンゴ飴に目を落とした。
そんな常盤に、余程リンゴ飴が気に入ったんだなと内心で笑う。そして、そんな愉快な気持ちを引き締めて歩を進めた。
「すいません」
売り子の女性に声をかける。すると、女性は珍しそうな顔で俺のほうを見た。俺ぐらいの歳の人間が、夜店ではなくこちらに来たことが珍しいのだろう。
「いらっしゃいませ。おみくじですか?」
「いえ、お守りが欲しいんですが……」
そう言って、売っているお守りを見る。いくつか種類があるが、俺はその中で目的のものを見つけて手に取った。
「これをください」
「はい。七百円になります」
財布からお金を取り出し、売り子の女性に渡す。そして、俺は踵を返した。
「何を買っていたんですか?」
俺が椅子に戻ると、常盤がすぐさま聞いてくる。その手にリンゴ飴はない。おそらく、食べてしまったのだろう。
「いや、ちょっとな」
曖昧に返して、軽く数回深呼吸をする。一度目を瞑り、気持ちを落ち着けてから目を開いた。
「常盤」
おそらく、ここまで真剣に話すのは生まれて初めてだろう。それと読み取ったのか、常盤も表情を引き締める。
「……なんですか?」
それでも、常盤の表情はどこか穏やかだった。
「俺は、お前がどんな病気を抱えているか知ってる」
上手く話すことなんて、できはしない。だから、俺にできることは真っ直ぐに話すことだけだ。
「……そうですか」
「ああ。お前のお母さんが教えてくれた」
俺がそう言うと、常盤は困ったように夜空を見る。
「隠して、おきたかったです」
「俺も、あまり知りたいとは思ってなかった」
常盤に倣うように、俺も夜空を仰ぐ。
「軽い病気なんだって、そう思ってたよ」
「ふふ……そうだったら良かったんですけどね」
悲しそうに呟いて、常盤が自分の左胸に手を当てる。
「ちょっと、怠け者なんですよ。しっかりと仕事をしてくれれば良いんですけどね」
怠け者、ね。
言いえて妙だな、と俺は思う。そして、それは自身に向けた皮肉だろう。
「……どこまで知っていますか?」
「全部……とは言えないが、大体のことは知っている」
「わたしが、残り少ない命ということもですか?」
「―――ああ」
常盤本人の口から余命が少ないと聞かされると、今までにない感情を受けた。じわじわと、本当なんだという実感が押し寄せてくる。
俺が頷いたのを見て、常盤は手に持ったぬいぐるみと綿菓子を横へと置く。そして、俺の方へと肩を預けた。
それに対し、俺は驚きの声を上げようとして止める。
―――常盤の肩は、僅かに震えていた。
俺は息を吐く。そして、柄じゃないと思いつつも常盤の肩に手を置いた。
そして、何分ほど経っただろうか?
不意に常盤が呟いた。
「……あと、一ヶ月ぐらいだそうです」
常盤は下を向いているため、その表情は見えない。
「一ヶ月、か」
何が、とは言わなかった。だが、言われずともわかる。
「最近、ああそうなんだって、自分でもわかるようになってきました。だって、前以上に怠け者が怠けるようになってきたんですから」
おどけようとしたのだろうが、その声は震えていた。
「お医者さんが言うには、血液を全身に送る力が弱くなっているそうです。そして、最近はさらにその力が弱くなってるって……」
「だったら……」
「わかってます!」
俺が手術を受けるように言おうとすると、それを遮るように常盤が声を張り上げた。
「手術を受けて成功すれば、良くなる可能性が高いってことも。でも、失敗する可能性もある。残り一ヶ月なら、手術を受けるほうが良いってこともわかってます」
そこまで言って、常盤が顔を上げる。
その顔は、涙で濡れていた。
「でも、もし失敗したら?」
不安を押し込めた声で、常盤は話を続ける。
「もし失敗したら、その残った一ヶ月もなくなるかもしれない。仮に成功したとしても、効果が出ないかもしれない……そう思うと、不安なんです」
再び、常盤は顔を伏せた。小さくしゃくりを上げ、小さな子供のように背を丸める。
そんな常盤を見て、俺は内心で首を振った。
どうやら、俺は常盤を見間違えていたようだ。
生きることに一生懸命で、前向き。そう思った。ああ、それは間違ってない。
「常盤」
だけど、不安を感じないわけじゃない。
生きることを望んでいて、それと同じくらいに死ぬことに恐怖していた。
「俺さ」
だから、俺は呼びかける。
「お前に生きててほしい」
「え……?」
俺の言葉で、常盤が再び前を向いてくれるなら。
「手術を受けることが怖いってことも、わかってる。そりゃ怖いよな。自分の体にメスを入れられるってだけでも十分怖い。失敗する可能性もある。それに、成功しても効果がないかもしれない」
自分で言ってみても、これは確かに怖かった。それでも、俺は常盤に語りかける。
「俺は常盤本人じゃないから、その怖さもお前の万分の一にも満たないかもしれない。わかるって言っても、それはただの想像だ。だから、本当の意味ではわかってやれないかもしれない」
でも、と俺は言葉を紡ぐ。
「俺は、それでも常盤に生きていてほしいんだ」
それが、自分勝手な願いだということもわかっている。
これほど恐怖している常盤に願うことではないと、それもわかっている。
―――それでも、俺は願う。
「だから、手術を受けてくれないか?」
そう言って、先ほど買ったお守りを取り出す。
その表面に刻まれた文字は『病気平癒』。
この神社に祀られし神は、健康祈願の神だ。だから、ここに来たいと思った。
常盤の右手に、お守りを握らせる。すると、常盤は顔を伏せたままで口を開いた。
「……なんで、ですか?」
「え?」
「なんで、わたしに生きていてほしいんですか?」
常盤が顔を上げる。そして、小さな、それでいてよく通る声で尋ねてくる。
その問いに、俺は頬を掻いた。
「まあ、なんというかさ……」
友達だから、なんて理由はどこかに放り投げる。
「俺、常盤のこと……ああ、こんなときまで苗字で呼ぶのは野暮だな」
一度息を吸う。そして、告げた。
「美樹のことが、好きなんだ」
小さく、常盤……美樹の肩が震える。
俺はそれに気づかない振りをして、告白を続けた。
「最初はさ、変な奴だと思ったんだ。いきなり話しかけてくるし、俺は美樹に見覚えないし。でも、色々と話していく内にさ、なんというか、その……惹かれたんだ」
だからさ、と話を続ける。
「好きな女の子に生きていてほしいって願うのは、当然だろ?」
例えそれが、美樹にとっては辛いものでも。俺は生きていてほしい。
「……最初は」
どこか懐かしむような表情で、美樹は俺を見る。
「最初は、あなたのことが少しだけ憎らしかったんです。いつも、病室から見えるあの場所でぼんやりと海を眺めて……それが、どれだけ羨ましく、憧れたか」
美樹の話に、俺は頷く。
「それは、悪いことをしたな」
「ええ。でも、そんなあなたを見て思いました。もしも、わたしの心臓がちゃんと動いてくれたら、あなたのように生きることがつまらないと思ってしまったんじゃないかって。そう思ったら、生きるのって難しいなって思っちゃいました」
どこか悲しそうに、美樹が微笑む。
「生きたい。でも、生きるのって難しいんですね」
「……まったくだ」
顔を見合わせながら、笑う。そして、美樹は真剣な表情へと変わった。
「わたしは結局、逃げていたんですね。生きたいけれど、怖くて逃げていた」
肯定も、否定もしない。それは、美樹自身が判断することだ。
「でも、これで決心がつきました」
そこまで言って、花のような笑みを浮かべる。
「わたし、手術を受けます」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……本当か!」
数秒遅れて尋ね返すと、美樹は苦笑する。
「はい。どうせ残り一ヶ月です。それなら、賭けたほうが良いでしょ?」
今まではそれができなかったんですけどね、と美樹が笑う。そこには、先ほどまでの恐怖の色はない。
俺は、ほっと安堵の息を吐いて、
「それに、手術を受けないとこれから先、修司さんと一緒にいられませんから」
美樹の発言に、思わず呼吸が止まった。
「あ、え……?」
一瞬、自分の名前を呼ばれたということに気づかなかった。すると、常盤は楽しそうに笑う。
「修司さんだって、わたしのことを名前で呼んだじゃないですか。だから、お相子です」
それに、と頬を上気させて美樹が告げる。
「さっきのって、告白じゃないんですか?」
言われて思い返す。たしかに、俺は美樹に好きだと告げた。ああ、告げたな。
「い、いや。間違ってない」
俺がそう言うと、美樹は嬉しそうに立ち上がる。そして、俺がさっきお守りを買ったところへと小走りに駆けていく。
売り子の人と会話し、何かを手に持って美樹が戻ってくる。
「じゃあ修司さん、これは、お返しです」
笑顔で、一つのお守りを差し出してくる。その表面に書かれた文字は『健康祈願』。
「……俺は健康だが」
意図がわからずにそう言うと、美樹は少しばかり申し訳なさそうな、それでいて真剣な目で俺を見る。
「もしも、これはもしもの話です。わたしが手術を受けても駄目だったら、わたしは修司さんの傍にいることができなくなってしまいます」
「それは……」
「もしもです。でも、可能性はあるんです。だから、今のうちにこれを渡しておきたいんです。もしわたしが……」
そこまで言って、辛そうに目を伏せた。
俺は、それ以上言わせたくなくて、思わず美樹を抱きしめる。
それでも、止めることはできなかった。
「もし、わたしが死んでしまっても、修司さんは……しっかり生きてくださいね」
「っ!」
抱きしめる腕に、力を込める。
「修司さん……あはは、ちょっと、痛いですよ」
「……馬鹿なことを言うからだ」
歯を食いしばる。でも、それでも俺は笑みを浮かべた。
「そんな馬鹿は、ずっと俺の隣にいろ」
俺がそう言うと、美樹は泣きながら笑う。
「告白の次は、プロポーズですか?」
返事をする代わりに、美樹の顔を優しく撫でる。
そして、ゆっくりと顔を近づけていく。
美樹は目を瞑り、俺も目を瞑った。
徐々に距離が近づく中で、賑やかな音と共に空に大輪の花火が咲く。
―――花火の光に照らされる中、俺と美樹の距離はゼロになった。
祭り以降、慌しい日々が待っていた。
美樹が手術を受けることを医師と美樹のお母さんに告げ、その手術を行うために色々とすることがあったからだ。
俺はその間、できる限り美樹の傍にいた。
美樹が不安にならないように……というのは建前で、ただ一緒にいたからったからだ。
そんな俺と美樹を見て、美樹のお母さんがやけに楽しそうにしていたのは余談だろう。
多分、名前で呼び合っている時点でバレていたんだと思うけれど。それでも、優しい眼差しで俺と美樹のことを見守ってくれていた。
……まあ、美樹の甘え方が半端ではなかったせいもあるのだが。
俺が病院から帰ろうとすれば、俺の服の裾を握って帰してくれなかったり。あまつさえ涙目で『帰るんですか?』なんて言われた日には、本気で病院に泊まろうかと思ったくらいだ。
そんな日々も、正直に言えば楽しかった。
美樹が隣にいて、一緒に笑っていられる。それが、とても楽しくて、幸せで。
このままずっと過ごせたらどれだけ良いかと、心の中で切望した。
手術が行われる日までの、短い期間。俺は、ずっと美樹と一緒にいた。
でもそれは、どこか泡沫の夢みたいで。
すぐに崩れてしまうんじゃないかって、一人のときに不安になる。
そんな考えが浮かぶ度に、俺は頭を振って否定した。
「どうしたんですか?」
美樹が話しかけてくる。俺はそれに、笑みを浮かべて首を振った。
「なんでもない。ただ、幸せだと思ってな」
「そうですねー。たしかに、幸せです」
そう言って、美樹が幸せそうに笑う。
大丈夫。きっと、これからもずっとこの笑顔を見ていける。
俺は自分のポケットに入れてあるお守りを握り締めて、ただ一心に、そう願った。