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三章:生きること

 俺は空に敷き詰められた厚い雲を見ながら、いつもよりも湿気の多い風にため息を吐いた。

「これは、雨が降るかもしれないな」

 一応バッグの中に折りたたみ傘はあるが、夏の夕立を防げるほど大きな傘ではない。横殴りの雨などが降れば、数秒で濡れ鼠になれるだろう。

 そんな天候の下、俺は歩道を歩いていた。

 右手には、つい先ほど花屋で購入した花束を握っている。

 あれから数回常盤の病室を訪れたが、台の上に飾ってあった花が本格的に枯れてしまった。そのため、代わりになる花を選んでみたのだ。

 薄い黄色に白。そしてピンク色の花。とりあえず、病室に映えそうな色の花を一本ずつ選んでみた。

 さすがに、ここで菊の花や椿の花を選択するほど馬鹿な人間ではない。一応手に取ってはみたが、すぐに戻した。

 そんなことを考えながら、俺はやや軽い足取りで歩いていく。

 なんとなくだが、気分が良かった。今まで心の中にあった、空虚めいたものが薄れているのを自覚する。

 そんな自分に、俺は苦笑した。

 今までと何が変わったのだろうか?

 いや、何故変わったのだろうか?

 そう考えたほうが正しい。

 それを考えたところで、俺は再び苦笑した。

「いや、簡単なことだな」

 呟いて、俺は今向かっている場所にいる人物のことを思い描く。

 釣りをしているところにいきなりやってきて、話しかけてきた。

 俺の考えを聞かせ、それを否定する。

 道端で倒れていて、必死になって病院へと運んだ。

 そして、病室で一日中話し合った。

「常盤、か……」

 今まで出会ったことのないタイプの人間だった。

 クラスメートの女子などと比べても、同じような者はいない。

 クラスの女子は、やれ流行がどうだとか、昨日のドラマがどうだとか、そんな愚にもつかないことばかりを話しているだけだ。しかし、常盤は違った。

 常盤は、どこか違う場所を見ている。日々をただ過ごすだけの俺とは違う、どこか決意めいたものを秘めていた。それが、少し眩しく見える。

 俺と話す間も、とにかくアイツは楽しそうだ。何事にも積極的に動いて、それを楽しんでいる。

 

 ―――それは多分、常盤が『生きる』ことを大切にしているから。


 俺とは対極の考えだが、生きることを大切にできる常盤を、素直にすごいと思えた。

 今の世の中、生きることに飽きて自殺するような奴もゴロゴロいる。だから、そんな中で常盤みたいに生きることに一生懸命な奴を、俺は見たことなかった。

 人間は、自分にないものを持った相手に惹かれるという話を聞いたことがある。だからとは言わないが、アイツには親しみ以外のものを感じていた。

 釣り場で何度も会い、ここ数日病室でも様々なことを話した。

 俺は自分の感情を理解して、笑みに苦笑を滲ませる。

「……なんだ、簡単なことじゃないか」

 そう、それは簡単なこと。

 俺は、常盤(アイツ)に惹かれているんだ。


 病院の入り口をくぐり、常盤の病室へと向かう。

 最近は何度も訪れていたため、迷わずに病室へと向かうことができた。すれ違う看護師に会釈をしながら、階段を上っていく。

 常盤の病室は502号室。

 俺は階段を一段一段踏みしめながら、エレベーターを使えば良かったかと今更ながらに後悔した。

 少しばかり汗をかきながら、5階へと上りつく。俺は呼吸を整えて、常盤の病室へと足を向けた。

 5階の中でも奥のほうにある病室だ。廊下で患者さんにぶつからないように注意しながら、前へと進む。

 そして、すぐに『常盤美樹』というプレートのかかった病室前へとたどり着いた。

 入り口の扉が、少しだけ開いている。俺は花束を持っていない左手を持ち上げ、とりあえずノックをしようとして、

「先生……わたし、あとどれくらい大丈夫なんですか?」

 不意に中から聞こえたそんな声に、腕を止めた。いや、むしろ止まったと言ったほうが正しい。

「どれくらい、大丈夫?」

 俺は、今聞いた言葉を反芻する。一体、何が大丈夫だと言うのか。

 なんとなく嫌な予感を覚えつつ、俺はノックのために上げた腕を下げる。

 それは、ただの好奇心と興味だったのだろう。

 常盤がどんな病気を抱えているのか、俺は知らない。だからそれを知りたいなんて思ってしまったのだから。

 いつもの常盤からすると、そこまで酷い病気とは思えない。以前だって、病院が暇だからと言って抜け出してきたような奴だ。

 だからきっと、大した病気じゃない。

 ……少なくとも、俺はそう思いたかった。

「本当は、患者にそういったことを教えるのはあまり良くないのですが……君とは長い付き合いです。それでは納得しないんですよね?」

 常盤の声に答えるように、男性の声が聞こえてくる。多分、担当の医師なのだろう。ただ、その声は僅かに硬かった。

「はい。わたしは、今の自分の状態を知りたいんです」

 凛とした声で常盤が答える。すると、医師は諦めたようなため息を吐いた。

「……正直、危険な状態です。以前、私が言ったことは覚えていますか?」

 危険な状態という言葉に、嫌な予感がさらに膨らむ。それが何だかわからない。だが、それでも俺は聞きたいと思って、

「はい。あと、半年も生きられれば良いほうだと」

 そして、常盤がいつもの声色で告げた言葉に、俺は驚愕した。

「半、年……?」

 呆然とした声が漏れた。しかし、話はそれだけでは終わってくれない。常盤が、どこか懐かしそうに言葉を紡ぐ。

「それを言われてから、もう5ヶ月近くが経ったんですね……懐かしいなぁ。あの時は、お母さんが泣いちゃって困ったんですよね」

 ―――その声は、本当に懐かしそうで。

「……なんだよ、それ」

 俺は、そんな常盤の言葉がやけに遠いものに聞こえた。

 半年と言われて、すでに5ヶ月近くが経過している。ならば、残りは1ヶ月だ。

 そんな幼稚園児でも理解できそうなことだというのに、俺の頭は一向にそれを理解しようとしない。


 いや、正確には理解したくなかっただけだ。


 俺は、力なく廊下の壁に背を預ける。そんな俺を置いて、常盤と医師の話はさらに続いていた。

「最近は状態も安定していますが、油断はできません。この間だって、いきなり発作が起こったのですから……これからは、散歩に出るのも難しくなるでしょう」

「散歩ができないのは、ちょっと悲しいですね。でも、倒れちゃったからしょうがないですよね」

「はい。それと今言いましたが、状態は安定しています。しかし、心臓の状態は悪くなっています。今まで以上に、血液循環が悪くなっていますから」

 だから、と医師は言葉を続ける。

「医師として告げます。今すぐにでも、手術を受けてください」

 それは医師としてだけでなく、その人個人としての頼みでもあったのだろう。真剣で、真摯な願いだった。だが、常盤が選んだのは、否定。

「先生が、わたしのことを思って言ってくれているのはわかります。けれど、ごめんなさい。今まで通り、投薬だけで治療したいんです」

「常盤さん、たしかに手術は怖いかもしれません。ですが、手術を行えば高い可能性で病状は良くなるんですよ?」

 常盤は、そんな医師の言葉に小さく笑った。

「わたしは、手術自体が怖いんじゃないんです。手術を受けたその後……可能性としては低いですけど、病状が快復しなかったときのことが怖いんです」

「その後?」

 訝しげな声に、常盤は頷く。

「今まで、わたしは前を向いて生きてきたつもりです。自分のこの体にだって、負けるもんかって思ってます。でも……」

 そこで、常盤は初めて不安を滲ませた声を漏らした。

「もしも手術を受けて駄目だったら、わたしはきっと前を向けなくなる。それが、とても怖いんです。生きていきたい。でも、それが無理だってわかったら、わたしは多分、立ち直れないから」

 常盤の言葉に、医師は答えない。ただ、常盤の話すままになる。


「そうなったら、わたしは死んじゃうから」


 ポツリと零れた言葉に、俺は右手から力が抜けた。

 手に持った花束が、パサリと地面に落ちる。その音に、俺は麻痺した思考で『何故?』と思った。何故常盤が、そんな状態なのか……。

「誰かいるんですか?」

 病室の中から、常盤の声が響く。

 俺は、落とした花束を咄嗟に拾い、何故かその声から逃げるように、その場から駆け出した。

 立ち聞きしていたのが後ろめたいというのもある。しかしそれ以上に、今常盤と会ってまともに話せる自信は―――ただの一片たりともなかった。


 どうやって家まで帰り着いたのか、よく覚えていない。

 俺は機械仕掛けの人形のように、ただ黙々と帰路を辿っていた。

「……ふぅ」

 ため息を一つ吐き出す。思考が混濁して、何かを考えるということが当分できそうになかった。

 こんな状態で、よく車に轢かれなかったなと苦笑する。だが、すぐにその苦笑も消えてしまった。

「知らなかった、な」

 常盤がどんな病気を抱えているのか、俺はまったく知らない。常盤に聞いたこともないし、常盤から話してきたこともなかった。

 ちょっとした病気でしかないのだろうと、勝手に考えていた自分が今では憎らしい。できることなら、過去の自分を殴ってやりたかった。

 いつもなら考えないようなことを考え、俺は再度ため息を吐く。

 ……どうやら、余程俺は混乱しているらしい。

 俺は落ち着くために、深呼吸をする。しかし、数回深呼吸をしてみたが、あまり効果はなかった。だが、まあいい。混乱した思考でも、考えることは可能だ。

 さっき聞いたことを思い返して、俺は右手を強く握り締める。

 詳しい病名などはわからない。だが、常盤は心臓に“何か”を抱えているらしい。それも、手術をしなければ命を失ってしまうほどのものを。

「……ちくしょう」

 呟くが、それに意味はない。そもそも、ここで何を言おうとアイツには届かないのだから。

 ベッドに寝転がって、自分の机を見る。机の上には、見舞いのために買っていた花を置いていた。

 帰る途中に力一杯握り締めてしまったせいか、茎が折れてずいぶんと歪な形になっている。しかし、それでもなお花は綺麗に咲いていた。

「折れたところから下を切れば、持っていけるか……」

 さすがに、今からもう一度病院に行く気にはなれない。しかし、一晩眠って明日になれば少しはマシになっているはずだ。

 それまでは、俺の部屋の一角でも飾っておいてもらうとしよう。


 ぼんやりとした思考のまま、俺は意識を覚醒させる。枕元の目覚まし時計を取ってみれば、時刻は八時前を指していた。

「あんま、よく眠れなったな……」

 少しは眠れたが、熟睡には程遠い。眠りは浅く、ふとした拍子に目が覚める。それを何度も繰り返しただけだ。

 俺は一度背伸びをすると、ベッドから降りる。今が夏休みで良かった。こんな状態で学校に行ったら、授業中に居眠りすること請け合いだ。

 とりあえず、顔を洗えば気分もすっきりするだろう。

 そう考えて、俺は洗面所へと足を向ける。その途中で母親とすれ違ったが、夏休みのこの時間に起きたことが珍しかったらしく、目を丸くしていた。

「明日は雨が降るかもしれないわねー」

 ついでに、そんな失礼極まりないことを言い残してくれる。俺はそれに顔をしかめながら、顔を洗った。

 タオルで顔を拭けば、それなりにすっきりした気がする。そう思ったところで、大分腹が減っていることに気づいた。

 思い返してみれば、昨日の夕食はあまり食べてなかった気がする。

 俺は三大欲求の一つ、食欲の促すまま今度はリビングへと足を向けた。仮に朝食の準備が出来ていなくても、何か食べる物ぐらいはあるだろう。

 そう思いながらリビングに入ると、幸いと言うべきか朝食の準備はすでに出来ていた。

 俺はテーブル脇の椅子に座り、朝食を食べようと手を合わせる。しかし、朝食を食べるよりも早く、俺の目の端に何かが映った。

「ん? なんだこれ。回覧板?」

 テーブルの隅に置かれていたものを手に取り、文面を確認する。何のことはない、ごくありふれた町内の回覧板だ。俺はパラパラとページをめくっていく。

 夏休みの過ごし方とか、近所の家で子犬が産まれたとか、町内会議の案内とか。

 一言で言えば、俺にとっては意味のないものだった。

 俺は元にあった場所へと回覧板を戻そうとして、最後のページに書かれていた文面を見てその手を止める。

「……夏祭り、か」

 もう一度引き寄せて見てみれば、今度の日曜日に近くの神社で開かれる夏祭りについて書かれていた。

 この夏祭りというのは、毎年この時期に開かれるものだ。由緒ある祭りらしく、規模は大きい。夜店などもかなり出るし、毎年当日は多くの人が訪れる。途中で花火なども上がるため、人気のあるイベントだ。

 俺はこの神社が何を祀っているかを思い出そうと首を捻り、眉間を指で叩く。

「なんだっけ?」

 神社だから神様を祀っているはずなのだが、何を祀っていたか思い出せない。

 もう一度文面を見てみれば、ご丁寧に神社の成り立ちから祀っている神様について書かれていた。

 俺はそれを流し読みしようとして―――祀っているものに目を留める。

「これは……」

 ソレを見て、俺は思わず文面を見直す。だが、間違いがないことを確認すると俺は小さく笑った。

「地獄に仏、渡りに船ってか?」

 母親が怪訝そうな顔で見てくるが、気にしない。これは、文字通り渡りに船だ。

 俺は良くなった気分に満足しながら、朝食に手をつける。

 なにはともあれ、まずは食事を摂らないとな。


 一晩だけ部屋を飾ってくれた花を再び束にして、俺は家を後にする。

 昨日に比べたら雲も少なく、柔らかいものの日差しがキツい。俺は日差しに手をかざしながら、陽炎が揺らめきそうな道路を歩いていく。

 街路樹では蝉が大合唱し、その下を小学生らしき子供が駆け抜ける。俺はそれを横目に見ながら、病院の入り口をくぐった。その途端、人工的な涼しさが俺の体を冷やしてくれる。

 額に浮いた汗を手の甲で拭い、俺は軽く息を吐いた。少しばかり喉が渇いたので、自販機でスポーツドリンクを買って喉を潤す。中身を飲み干すと、空き缶を近くのゴミ箱へと入れた。

 そのままエレベーターへと進み、上へのボタンを押す。すると、すぐに扉が開いた。

 俺がエレベーターの中に入ると、他に乗る人はいないようだったので扉を閉める。

 機械音と共に上昇していく感覚に、俺は目を閉じた。

 正直に言うと、常盤に会って平静を保てる自信はあまりない。だが、昨日の話を信じるならば、今の常盤は危険な状態なのだ。

 一秒後には……なんてことも、ありえない話ではない。それを考えると、多少話し辛くても会ったほうが良いに決まっている。

 チン、という軽快な音と共にエレベーターが止まり、扉が開く。

 俺は目を開けると、考えるのを中断して廊下へと踏み出した。


 二回ほど深呼吸をして、病室の扉をノックする。

「はい。どうぞ」

 すぐさま返ってくる声に、俺は僅かに安堵して扉を開いた。

「邪魔をするぞ」

「あ、藤岡さん」

 俺の顔を見た常盤は、少し微笑む。だが、すぐに拗ねたような顔になった。

「昨日は来てくれませんでしたよね」

 昨日、という言葉に俺は一瞬動きを止める。しかし、すぐに苦笑という形で動きを再開した。

「仕方ないだろ。ちょっと用事があったんだ」

 俺がそう言うと、常盤は一転して笑顔になる。

「ふふふ、ごめんなさい。冗談ですよ。藤岡さんにだって都合はありますし、わたしはお見舞いに来てもらっている側の人間ですから」

 そこまで言って、常盤はただ、と話を続けた。

「毎日来てくれていましたから、昨日も来てくれるのかなって思ってました」

 少しばかり照れたように笑う。俺はその笑みに笑い返しながら、手に持った花を差し出す。

「見舞いの品だ。ま、それに対する詫びだとでも思ってくれ」

「あ、わざわざありがとうございます。この前花が枯れちゃって、ちょうど良かったですよ。それにしても、綺麗な花ですね。藤岡さんが選んでくれたんですか?」

 花をしげしげと眺めながら常盤が聞いてくる。

「一応な。病室に合いそうな色の花を適当に見繕ってきた」

「菊の花とか椿の花じゃないんですね」

「……お前は俺を何だと思っているんだ?」

 俺がそう言うと、常盤は楽しそうに笑った。

「冗談です」

 ……一応、選択肢の一つに考えてしまったことは伏せておこう。

 俺が花を手渡すと、常盤は手馴れた手際で花瓶に挿す。

 俺はそれを見ながら、近くにあった椅子に腰を下ろした。

「なあ……」

 なるべく昨日のことを意識しないようにして、常盤へと話しかける。

「はい? なんですか?」

 それに小首をかしげる常盤。

「入院患者って、外に出ることはできないのか?」

「外に、ですか? 散歩くらいなら問題ないですけど」

「ああ、違う違う。遠出することはできないのかなって思ってさ」

 俺がそう言うと、常盤は少しばかり考え込む。そして、すぐに顔を上げた。

「お医者さんの許可が出れば大丈夫だと思いますけど……それがどうかしたんですか? あ、またそこに行きます?」

 柔らかく笑いながら、常盤が窓の外を指差す。そこには、俺がいつも釣りをしていた場所があった。

「それも悪くないな。けど、今回は別の場所に行きたいと思ってな」

「別の場所ですか?」

 不思議そうな顔をする常盤に、俺はああと頷く。

「今度の日曜に、近くの神社で祭りがあるんだ。良かったら、それに行かないか?」

 遠回しに誘っても、常盤は気づいてくれない可能性がある。だから、俺は直球で誘ってみることにした。

「お祭りがあるんですか。それは……行ってみたいですね」

「夜店とかもたくさん出るみたいだし、楽しいと思うぞ。病室にいるだけじゃ気が滅入ると思ったんだが」

「うーん……」

 俺の言葉に、常盤は困ったように笑う。

「行きたいのは山々なんですが、この前倒れちゃったせいでお医者さんの許可を取れるかわからないんですよね」

「……そうか」

 そう言われては、無理強いすることはできない。

「すいません」

「いや、常盤が謝ることじゃない。俺が勝手に誘っただけだ」

 苦笑しながら手を振る。内心ではかなり落胆しているが、それを表に出すわけにはいかなかった、

「後で先生に聞いておきますけど、あんまり期待はできないんですよ」

「わかった」

 頷く。そして、この話はここで終わりにした。


「じゃあ、またな」

 もうじき夕食の時間になる。時計を見てそう判断した俺は、席を辞することにした。

「はい。お見舞いに来てくれて、ありがとうございました」

「……まあ、こっちは暇人だ。そんな面と向かって礼を言われることじゃない」

 常盤の顔を直視できず、僅かに目を逸らす。だが、常盤はそれを気にすることなく話を続けた。

「いえ、入院しているのって、すごく退屈なんですよ。だから、お見舞いに来てもらえるっていうのはとてもありがたいことなんです」

「そうか。じゃあ、お相子ってことでいいな」

「ふふっ、そうですね」

 顔を見合わせて、しばし笑い合う。

 すると、不意にノックの音が響いた。

「あ、晩御飯が来たみたいですね」

「そうみたいだな。それじゃあ、俺はこれで帰るよ」

 そう言って、俺は扉のほうへと向かう。すると、俺がドアノブに触れるよりも早く扉が開いた。

「美樹、ちゃんと休んで……あら?」

 そんな声と共に、入ってきた女性が俺に目を向ける。

 歳は三十代後半ぐらいだろうか。その面差しは、どことなく常盤に似ている。もしや、常盤のお母さんだろうか?

「あ、お母さん」

 俺の考えを肯定するように、常盤が嬉しそうな声を上げる。どうやら、母で間違いないらしい。とりあえず会釈をしておく。

「こちらの方は?」

 自身の母から話を振られ、常盤は笑みを浮かべる。

「この前話した藤岡さん。よくお見舞いに来てくれるんだ」

 何を話したんだろうか? ふとそんな考えが浮かんだが、すぐさま放棄した。

「あらあら、貴方が藤岡さんね。美樹の母です。美樹が倒れているところを運んでくれたそうで……」

 深々と頭を下げてくる。

「いや、そんな大したことじゃないですから。頭を上げてください」

 俺はそれに慌てつつ、なんとか頭を上げてもらう。年上の人に頭を下げられることなんて、今まであまりなかった。

「それに、よく美樹のお見舞いに来てくれているんでしょ? いつも、美樹が嬉しそうに話してくれるわ」

「はあ……」

 どう答えていいかわからず、とりあえず相槌を打つ。すると、常盤が若干困ったような声を上げた。

「もうっ、お母さんったら。余計なことは言わないでよ」

「あら、怒られちゃったわね」

 クスクスと笑う。そして、台の上の花瓶に目を向けた。

「もしかして、花を持ってきてくれたのかしら?」

「はい。どんな花が良いかわからなかったので、色で選んだものですけど」

「ありがとうね。買ってこなきゃいけないって思ってたから。それに、十分良い花を選んできてくれたみたいだし」

「そう言ってもらえれば、幸いです。それでは、俺はこの辺で……」

 後は親子水入らずのほうがいいだろう。そう思って、俺はドアノブに手をかける。すると、常盤のお母さんが声を上げた。

「それじゃあ、玄関まで送るわね」

「え? いや、大丈夫ですよ」

「いいからいいから。それじゃ、美樹はゆっくりしてるのよ」

 半ば押されるように常盤の病室を後にする。病室の扉を閉めると、常盤のお母さんは俺へと振り向いた。

「少しお話したいことがあるのだけど、良いかしら?」

「……はい。かまいません」

 俺が頷くと、常盤のお母さんは微笑んで歩き出す。俺もつられるように、それに続いて歩き出した。


 階段を上り、屋上の扉を開ける。すると、熱気染みた風が通り抜けていった。

 屋上は斜陽に照らされ、その中を歩いていく。そして、少し先にあったベンチへと二人で腰を下ろした。

「それで、話っていうのはなんですか?」

 話を振る。今の俺に対する話と言えば、常盤のことしかないだろう。

 常盤のお母さんは、どこか遠くを見ながら口を開いた。

「美樹が病気を抱えているのは知っているわよね」

「はい」

「その病気のせいで、美樹の余命が少ないことも?」

「……はい。聞くつもりはなかったんですが、昨日常盤と担当の医師の人が話しているのを聞いて……」

 そう、と呟き、目を伏せる。俺はそれを見ながら、次の話を待った。

「美樹は先天性の心臓病を患っていてね。心不全って言ったらわかるかしら? 生まれつき血液を循環させる力が弱くて、よく入院していたの」

 頷くことも出来ずに、俺は話に耳を傾ける。

「それにはⅠ度からⅣ度までの症状があるんだけど、美樹はⅢ度。歩くぐらいなら問題ないけど、走ったりはできない体なの。そのせいで、あまり学校にも通えなくてね。小さい頃から寂しい思いをさせてきたわ」

「……そうですか」

 それくらいしか言えない自分が、酷く憎らしい。常盤のお母さんは、どこか物悲しい表情で空を眺めている。

「それでも、美樹は自分の体に負けなかった。辛い毎日を一生懸命生きて、今まで生きてきたの。でも、ここ数年で美樹の心臓はさらに悪くなった。そのせいで、今年の三月が終わる頃には余命半年って宣告されて……」

 そこまで話して、常盤のお母さんは俺のほうを見た。

「だけど、それでもあの子は負けようとしなかった。時折発作に襲われても、それでも笑みを浮かべて言うのよ、『わたしは負けない。生きてみせるよ』って。母として、そんなあの子見ているのは辛かった。でも、あの子が頑張っているのに私が諦めるわけにもいかなかった」

 そこで、ふっと安らいだ表情へと変わる。

「それにここ一ヶ月ぐらい、あの子は今までにない表情を見せてくれるようになったわ」

「今までにない表情、ですか?」

「ええ。時折病室を抜け出して、どこかに行くようになったのよ。そして、帰ってきたらとても楽しそうな表情をしているの。あんなに楽しそうな美樹の表情を見たのは、十七年間の中でも初めてだったわ」

 その言葉に、俺はどう答えていいかわからなかった。そんな俺を見た常盤のお母さんは穏やかに笑う。

「別に責めているわけじゃないのよ。美樹がたまに、窓の外を眺めているのは知っていたわ。貴方、あそこでよく釣りをしていたでしょう? だけど、美樹は違うことを言うのよね。『あの人は釣りをしてるんじゃない』って。そして、何をしているのか気になって見に行ってしまったのよ」

 困った子ね、と楽しげに呟く。俺もそれに同調して、少しだけ笑った。

「それに、ここ最近はそれが顕著になったわ。その上、よく貴方のことを話してくれるようになった。だから、貴方がどんな人間かはよく知っているつもり。まあ、母親としては少し寂しいけどね」

 そこまで言って、不意に真剣な表情になる。

「そんな貴方だから、お願いしたいことがあるの」

 真剣な声色での言葉に、俺は姿勢を正す。

「なんでしょう」

「あの子に、美樹に手術を受けるように言ってくれないかしら。このままだと、あの子はあと一ヶ月ももたない。だから、私はあの子に手術を受けてほしいの」

「ですが、常盤は手術を受けたくないって……」

「ええ。それもわかってるわ。もしも手術を受けても駄目だったら、あの子は前を向いて生きることができなくなるかもしれない。成功する確率は七割近くあるけど、三割は失敗するの。そして、成功しても効果がないこともある。それが、あの子にとっては怖い。だから、貴方にそれを取り除いてほしいの」

「……取り除けるか、わかりませんよ?」

 自信は、正直言ってあまりない。だが、そんな俺を見て常盤のお母さんは笑った。

「大丈夫。貴方で無理なら、私にも無理よ」

 その言葉には、本当に自分の娘を思う気持ちがあって、

「―――わかりました」

 俺は、頷いていた。

「ありがとう。ごめんなさいね、こんなことを頼んじゃって」

「いえ、アイツは友達ですから」

 そう言うと、常盤のお母さんは何故か表情を楽しそうなものに変える。

「友達? 本当にそれだけ?」

「え、いや、あの……」

 いきなりの豹変振りに、俺は思わず口をつぐむ。しかし、常盤のお母さんはすでに俺の感情を見抜いているらしい。

「冗談よ。それと、安心なさい。あの子だって、貴方のことは悪く思ってない。いえ、むしろその逆だから」

 そこまで言って、ベンチから立ち上がる。

「あの、ちょっとお願いがあるんですが」

 立ち上がった常盤のお母さんを呼び止めると、俺はさっき常盤に話したことを話した。すると、少し考え込んで頷いてくれる。

「お祭り、ね。担当のお医者さんが渋るでしょうけど、なんとか頼み込んでみるわ」

「お願いします!」

 俺が頭を下げると、常盤のお母さんは小さく笑う。

「気にしなくていいわ。だって、それもあの子のためなんでしょ?」

 その言葉に、俺は真剣に頷いた。


 常盤のお母さんに見送られ、俺は帰路につく。そして、歩きながらさっきの会話を思い出していた。

 常盤は、一生懸命生きている。それに比べて、俺はどうだろうか?

『そんな面倒でつまらない生活でも、渇望してやまない人はいるんですよ?』

 以前常盤が言った言葉。それには、一体どれほどの感情が込められていたのだろう。

 アイツは、本当に生きることを望んでいた。俺が面倒でつまらないと思う生活も、アイツにとってはまったく別のものなんだ。

「くそっ!」

 傍にあった木を、思いっきり殴りつける。拳に激痛が走ったけれど、そんなものはどうでも良かった。今はただ、自分が許せない。もう一人の自分がいたなら、その顔を全力で殴ってやりたいぐらいだ。

 自分の生きてきた道に嫌気を感じつつ、俺はひたすらに帰路を辿る。

 その横では、五月蝿いくらいに蝉が鳴いていた。


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