二章:夏休み
学校は夏休みを迎え、部活動にも入っていない俺は毎日が暇だった。ダラダラと寝て過ごすのも良いが、流石にそれは健康的ではない。
「暇だな……」
ベッドに寝転がったままで自室の天井を眺めつつ、ぼんやりと呟く。
生憎とゲームはあまりしないし、第一したいゲームがない。
俺はまとまらない思考のまま、窓の外へと目を向ける。
空には多数のいわし雲が浮かび、天気で言うなら曇りと言ったところだろう。
勢いをつけて体を起こし、壁にかけてある時計に目を向けた。
「一時二十分、か」
昼飯は規則正しく十二時過ぎに食べている。だから、今はまさしく暇だった。
軽く頭を掻きながら、部屋の隅に置いてあるバッグに目を向ける。コンパクトロッドなどの釣具が入っているバッグだ。
俺は数秒ほど黙考し、バッグを手に取る。
「ま、他にすることもないしな」
誰にともなく呟いて、俺は部屋を後にした。
堤防をのんびり歩けば、横合いから海風が通り抜けていく。
夏らしく、その風はあまり涼しくない。暑いか涼しいかと聞かれれば、一応涼しいと言えるが、クーラーなどに比べればまさに天と地ほど差がある。
「そんな暑さの中、何故俺はこんなところを歩いているのだろう?」
口に出して、何を言っているんだと苦笑した。暇だから出てきたというのに、暑いから帰りたいと思っている自分の思考が面白かったのだ。
これが無意識の内に家から出てきていたというのなら、病院に行かなければいけないだろう。主に精神科に。
俺は麦茶を入れたペットボトルを持ってきたことを確認しつつ、いつもの場所へと向かう。今日は日差しもきつくないが、一応帽子も入れてある。被っておいて損はない。
少しゆっくりとした歩調で、俺はいつもの場所へと着く。肩から提げていたバッグをコンクリートの上へと置くと、俺自身も腰を下ろした。
「どっこいしょっと……」
ちょっと年寄りくさいな、と苦笑する。その苦笑ついでにバッグを開け、中からペットボトルを取り出した。夏の暑さの中を歩いていたせいか、喉も乾いている。捻ってフタを外し、口をつけて飲む。
「ふぅ、うまい」
渇きが潤ったのに気を良くし、今度はバッグからコンパクトロッドを取り出す。そして組み立て、仕掛けをセットした。
餌をつけてから海面へと放る。
どうせ時間は売るほどあるんだ。のんびりと、考え事をするとしよう。もしかしたら、俺と同じ暇人がくるかもしれないし、な。
釣りを始めてから一時間ほど経っただろうか。今日は魚一匹釣れるどころか、アタリもない。
「……ん?」
そんな中、遠くのほうから小さく音が聞こえた気がした。何か、重い物が倒れるような音。
その音に、俺は後ろを見る。しかし、後ろは防波のために壁になっているため、誰もいなかった。
「気のせい、か」
再び海面に目を向ける。だが、なんとなく気のせいではない気がした。
第六感とでも言おうか、何かがあるかもしれないという不思議な感覚。風に乗ってきた音だったせいか、不確かであやふやな音。俺は数秒考えて、立ち上がった。
なに、何もなかったら笑い飛ばせばいいだけの話だ。
俺は釣り糸を海中から上げて、立ち上がる。そのついでに釣り針を見て納得した。
餌が取られていては、かかる魚はいないよな。
傍のコンクリート造りの階段を上り、俺は周りを見回す。車道などはなく、遊歩道のような道があるだけ。その道脇には木々が植えられている。春に釣りをしていたら桜の花びらが降ってきたことから、これは桜の木だろう。
そんなことを考えながら、俺は肩を竦めた。
やはり、勘違いだったらしい。
おそらく風に吹かれた木々がこすれた音だったのだろう。
俺はもう一度だけ確認して戻ろうと思った。
左を見て、右を見る。ほら、なにもいない。だから戻―――
「え?」
そこで、俺は動きを止める。さっきは軽く見回しただけで気づかなかった。
二十メートルほど先の道端で、誰かが倒れている。しかも、その傍には何度か見たことのある白い帽子が転がっていた。
「っ!」
考える暇もなく駆け出す。二十メートルの距離をすぐに走り抜け、俺は倒れている常盤のすぐ傍に膝をついた。
「おい! どうした!」
頭を打っていたらと考え、体を揺らさないようにして肩を叩く。
常盤の状態を確認してみれば、やけに息が荒い。額からは汗を流し、苦しそうに両腕で自分の体を抱きしめていた。
周りを見回すが、誰もいない。携帯電話は持ち歩いていないし、近くに公衆電話もなさそうだ。
「くそっ! おい、常盤! しっかりしろ!」
呼びかけることしかできず、俺はそう声をかける。すると、常盤はゆっくりと目を開いた。
「ふじ……おか、さん」
意識があることに軽く安堵する。しかし、事態は好転したわけでもなかった。常盤は体を九の字に曲げ、苦しそうに呻く。
「お、おい!」
当然のことながら、俺に医学の知識があるわけがない。頭を打ったら動かしたらいけないとか、そのくらいことしか知らなかった。
以前病気だと言っていたが、それがどの程度のものかも知らない。
「常盤、今のお前を動かしたら危ないのか?」
だから、ここは本人に聞くしかなかった。すると、常盤は苦しげな表情のままで首を横に振る。
「いえ……でも、少し我慢すれば、落ち着くと思いますから」
そう言って、常盤は弱弱しい笑みを見せた。
その笑顔を見て、何故だかわからないが、
―――ひどく、腹が立った。
「馬鹿なこと……言ってんじゃねえ!」
素人目に見ても、今の常盤の状態が危険なものだとわかる。
突然声を荒げた俺を、常盤は目を見開いて驚いていた。俺はそれにかまわず、常盤の体の左側に移動する。
「文句は後で聞いてやる」
それだけを告げ、俺は常盤を抱え上げた。俗にいう『お姫様抱っこ』というやつだが、この際そんなことはどうでもいい。
「え……藤岡、さん?」
それに対して、常盤は先ほどとは違った驚きを浮かべていた。
「すぐに病院に着く。だから、それまで我慢しろ」
俺はそれを封殺すると、常盤を抱えたままで駆け出す。幸いと言うべきか、病院はすぐ傍にある。
走っている間、常盤は顔を伏せたまま俺の右腕を握っているだけだった。
入り口の自動扉が開くと同時に、中へと駆け込む。そして、すぐ近くにいた看護師へと声をかけた。
「すいません! こいつを診てやってください!」
流石に人一人を抱えたまま走ったせいか、かなり息が乱れる。それでもなんとか声を張り上げ、駆け寄ってくる看護師に常盤を見せた。すると、常盤を見て看護師の表情が変わる。
「美樹ちゃん! ちょっと誰か、先生を呼んできて! それと、ストレッチャーの準備をお願い!」
どうやら、常盤のことを知っているらしい。俺は大慌てで担当の医師らしき人を呼ぶ女性の姿に、僅かに安堵した。
「常盤、すぐに医者がくるってよ」
そして、腕に抱きかかえている常盤へと声をかける。常盤はそれに応えるように、俺の右腕を握る手に力を込めた。
声を出す元気がないだけなのかもしれないが、先ほどよりは呼吸も安定しているように見える。
俺が常盤の横顔を見ていると、奥のほうから台車のようなものが出てきた。たしか、あれはストレッチャーだったと思う。患者を乗せるためのものだ。
「ゆっくりと、ここに横たえてください」
看護師の指示に従って、常盤をゆっくりストレッチャーの上に寝かせる。すると、常盤が僅かに目を開いた。
「ありがとう、ございます……藤岡さん」
少し聞き取りにくかったが、それが感謝の言葉だとわかると俺は首を横に振る。
「気にすんな。謝るより、自分の体のことだけを考えとけ」
ぶっきらぼうにそう言うと、常盤は小さく微笑んだ。そして、それを合図にしたかのように医者らしい男性が駆け寄ってくる。
俺はストレッチャーに乗ったまま運ばれる常盤を見ながら、大きく息を吐き出す。
どうやら、これでなんとかなりそうだ。
そう考えると、安心したせいか疲労が襲ってきた。俺は手近にあった待合用の椅子に腰を下ろし、数回深呼吸をする。額を拭ってみれば、かなりの量の汗が手に付着した。
自分では気づかなかったが、思ったよりも汗を掻いていたらしい。
それが常盤を抱えて走ったからなのか、それとも常盤の状態に不安を覚えたからなのかは、俺には判断できなかった。
それからしばらく、俺は病院の椅子に背を預けたまま座っていた。
待合室の時計を見てみれば、すでに六時を回っている。夏場のせいか、まだまだ外は明るい。だが、それでもすでに三時間以上が経過していた。
「よっと……」
ずっと同じ姿勢だったせいか、少し体が痛い。しかし、俺はそれを無視して立ち上がった。ついでに軽く体を伸ばしてみると、ばきりと背骨が鳴る。
さすがに、これ以上この場にいるわけにはいかない。今更ながら、近くにいた看護師を捕まえて常盤のことを聞いてみることにした。
「え、美樹ちゃん? 容態が安定して、今眠っているところなの」
「あ、そうですか……」
容態が安定したというところに、知らず安堵の息を吐く。
「それなら、会うのは無理ですね」
「ええ。会うなら明日以降にしてくれるかしら?」
寝ているから会えないというのなら、そこまで酷い病状ではないのだろう。俺はそう判断して、看護師に頭を下げた。
「わかりました。ありがとうございました」
そう告げて、背を向けようとする。だが、それよりも早く看護師が口を開いた。
「美樹ちゃんを運んできてくれて、ありがとうね」
思わぬ感謝の言葉に、俺は歩き出そうとした足が止まる。けれど、すぐさま思い直して今度こそはと歩き出した。
何気ない、感謝の言葉。
だけど、そんなものを聞いたのはずいぶんと久しぶりの気がする。
俺はそのまま視線を両腕へと落とす。
すでに常盤の重さはないが、なんとなく……本当になんとなくだが、まだ、抱きかかえたときの暖かさが残っている気がした。
ジリリリリ、と耳元で目覚ましの音が鳴り響く。その音量の大きさに、俺は顔をしかめつつ右手を伸ばした。
「やかま……しい」
リィン、と残響を残し、目覚ましが止まる。別に低血圧というわけではないが、やはり寝起きに耳元で大音量が鳴っていたら気分も悪くなるというものだ。
俺は寝惚け眼を擦りつつ、ゆっくりと目を開く。すると、ぼやけた視界が徐々にクリアなものへと変わった。それに続くように眠気が霧散し、俺は上半身を起こす。
夏休みだから午後まで寝ていても良いが、それはさすがに駄目だろう。
そんな、真面目なようで当たり前のことを考えながら頭を覚醒させる。そして、今日は何をして時間を潰そうかと思考を回転させた。
休日をどう過ごすか。それを一日の始まりに計画する人も多いだろう。中には行き当たりばったりで過ごす人もいるが、大抵は前者のはずだ。
そして俺は、前者であり後者でもある。
こうやって寝起きに一日の計画を考える日もあれば、何も考えずにダラダラと過ごす日もある。
まあ、何も考えなかった場合は大抵釣りにでも出かけるのだが。
くだらない思考を放棄して、俺は今日の予定を組み立てていく。
朝飯を食べて、適当に宿題をやる。そして、そのあとは……。
そこまで考えて、ふと昨日のことを思い出した。
道の脇で、苦しげに倒れていた常盤にことを。
俺はしばし沈思黙考する。
「……昼からは、見舞いに行ってみるか」
知らない仲ではないし、あそこで倒れていたということは、また釣り場に顔を出そうとしていた可能性が高い。
そのことを考えて、はぁ、とため息を吐く。
「物好きな奴だ……」
ま、見舞いの品はリンゴでいいだろう。
俺は病院の入り口をくぐり、受付へと足を向ける。どこの病室にいるかわからないし、もしも入院していなかったら笑えない。
「すいません。常盤美樹という女の子の病室はどこでしょうか?」
受付の女性に尋ねると、女性は少し不思議そうな顔をした。
「502号室ですが……」
どう見ても俺を見て、不思議そうな顔をしている。
「……顔に何かついていますか?」
とりあえず聞いてみた。これで、目と鼻と口と耳がついているなんて言われたらある意味尊敬してしまうだろう。
「いえ、すいません。美樹ちゃんのお見舞いに男の子が来たのは初めてだったもので……」
そう言って、女性は気まずそうに笑う。俺はと言えば、大して気に留めなかった。
「まあ、俺も女性の見舞いにくるのは初めてですが」
「はい?」
「……なんでもありません。502号室ですね」
一礼して背を向ける。エレベーターを使うまでもない、階段で上ろう。
俺は少し薄暗い階段を上りながら、ふとあることが頭に浮かんだ。
昨日、看護師は常盤の顔を見ただけで美樹ちゃんと呼んでいた。そして今日も、部屋の番号を調べることなく502号室だと教えてもらった。
つまり、アイツは顔を覚えられるほど病院を訪れている。もしくは入院している。
通院している患者や入院している患者の全てを覚えているという可能性もないわけではないが、少しばかり現実味がない。ならば、やはり覚えられるほどこの病院を訪れていると判断するべきか。常盤自身も何度か入院していると言っていたし、その可能性が一番高いだろう。
そんなことを考えながら階段を上っていくと、危うく5階を通り過ぎるところだった。
そのことに苦笑しながら、502号室を探す。右を見て、左を見る。最後の桁が2だから、多分端のほうの部屋だろう。
とりあえず、右側へと歩き出す。間違っていても気にすることはない。
俺は行きがけに買った袋入りのリンゴを持ち替えつつ、壁にかかったプレートを確認していく。
「506……504……って、なんで最後に4がつく部屋があるんだ」
どうでもいいことに突っ込みをいれつつ、俺はその隣の部屋へと視線を向ける。
『502号室』
そんなプレートがかかった部屋。そして、その下には『常盤美樹』の文字があった。
名前が一つしかないということは、おそらく一人部屋なのだろう。俺はその扉の前に立ち、一度深呼吸をする。そして、軽くノックをした。
コンコン、という軽い音が響き、それに合わせて部屋の中からごそごそと音がした。
「はい、どうぞ」
返事があったことを確認して、俺はドアノブを捻る。
「邪魔するぞ」
「……え?」
何故か、そんな声が上がった。少しばかり呆然とした表情で俺を見る常盤に、俺は眉を寄せた。
「人の顔を見てその反応はいただけないな」
「え、あ……すいません。ちょっとびっくりしちゃって」
そう言って、常盤は微笑む。
着ていたのはいつもの白のワンピースではなく、真っ白な寝間着。やけに清潔そうなその服が、常盤を病人なんだということを教えてくれた。
「ほら、見舞いの品だ」
手に持ったリンゴを差し出す。すると、常盤はおずおずと受け取った。
「あ、ありがとうございます。中身は……リンゴですね。わたし、大好きなんですよ」
中身を見て、常盤は笑みを深くする。それに対して、俺は肩を竦めた。
「見舞いの品に果物は妥当すぎだと思ったがな。もしも病室に山ほどあったらどうしようかと思っていた」
「あはは、さすがにそれはないですよ。もしも山ほどあったとしても、わたしが食べちゃいますから」
そう言いながら、ベッド横にリンゴを置く。そして、常盤は少し楽しそうに俺を見た。
「それにしても、びっくりしちゃいましたよ」
「何がだ?」
「まさか、藤岡さんがお見舞いに来てくれるとは思いませんでした」
常盤の言葉に、俺は息を吐く。
「知り合いが目の前で倒れていたんだ。それで気にしないほど、俺は無神経な人間ではないんでね。昨日はどうなったかもわからない状態で帰ったし、さすがに見舞いにくるさ」
「……嬉しいです」
常盤は小さく呟いて、クスリと笑った。
「喜んでもらえたようで何よりだ」
そんな常盤に、俺も笑って返す。そして、二人で顔を見合わせて静かに笑い合った。
そのまま笑い合うこと少々、俺は笑うのを止める。
そして、断りをいれてから手近にあった椅子に腰を下ろした。
病室ではエアコンが動いており、部屋の温度を適温に保っている。視線を横に向けてみれば、窓から海が見えた。
「なるほど、ここが前言っていた場所か」
以前、常盤は病室から釣りをしている俺を見ていたと言った。たしかに、この場所からなら俺が釣りをしている場所も見える。
「はい。ここから見える景色の中に、藤岡さんの後ろ姿もあったんですよ?」
「なるほど。しかし、気づかなかったな」
そもそも、病院があることすら知らなかったのだから気づくもないのだが。
俺はベッド脇に置いたリンゴを手に取り、常盤に顔を向ける。
「リンゴ、剥いてやろうか?」
俺がそう言うと、常盤は僅かに驚いた表情へと変わった。
「剥けるんですか?」
何の心配をしているんだ。
「心配するな。これでも去年の家庭科の成績は3だ」
「……それって、微妙ですね。もちろん、5段階評価で3ですよね?」
常盤の不安そうな声に、俺は答えない。ただ、軽く笑ってやった。
「あの、もしかして……」
「それじゃあ果物ナイフ借りるぞ」
有無を言わさず果物ナイフを借りる。
常盤には答えなかったが、実際のところ5段階評価の3だ。それでも、3だからといって料理が苦手というわけではない。包丁さばきだってそれなりだ。
俺は手早くリンゴの皮を剥くと、均等に手ごろな大きさに切り分ける。それを皿に乗せて、ベッド脇の台に置いた。
台の上には花瓶が一つ。ただ、花は少し枯れかけている。
「なんだ、綺麗に剥けるじゃないですか」
そんな俺を見ながら、常盤が安心したような声を出す。俺はそれに軽く笑った。
「家庭科の成績が低いからといって、料理が下手とは限らないだろ。それに、去年は料理じゃなくて裁縫とかだったしな」
「紛らわしいですよ……じゃあ、いただきます」
手を合わせてから常盤がリンゴをかじる。その姿が、どことなく小動物っぽく見えたのは俺の目の錯覚か。
「……なんですか?」
「いや、美味しそうに食べるなと思ったんだ」
「あ、藤岡さんも食べます?」
そう言って、常盤がリンゴを差し出してくる。
「いや、見舞いの品に買ってきたものを食べるわけにはいかないだろ」
「いいじゃないですか。はい、あーん」
常盤がリンゴを突き出してきた。
ちょっと待て。なんだ、その『あーん』というのは。
病室には俺と常盤以外誰もいないとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。
俺は差し出されたリンゴと、常盤を交互に見比べる。常盤は笑顔だ。そして、その笑顔が告げている。
『食べてください』と。
「……いただきます」
笑顔の圧力に負け、差し出されたリンゴを食べる。すると、常盤は満足そうに頷いた。
俺はリンゴを咀嚼しながら窓の外を見る。
食べたリンゴは、それなりに美味しかった。
窓の外から聞こえてくる蝉の鳴き声をBGMに、俺と常盤はいろいろな話をする。
大したことではない、ほんの些細な話。
言葉少なに語り合う、お互いの話。
俺が話して、常盤が笑う。
常盤が話して、俺が相槌を打つ。
それは、学校で級友同士が話すようなものに過ぎない。しかし、常盤と話すときは少し違った印象を受けた。
どこか心安らぐような、落ち着くような感覚。
俺は椅子に腰掛けたまま、壁に背もたれる。そして、病室の天井を見上げて肩の力を抜いた。
「どうしたんですか?」
そんな俺を見て、常盤が不思議そうな顔をする。
「いや、大したことじゃない。ただ、落ち着くなと思っただけだ」
「落ち着く、ですか」
なおさら不思議そうな顔をする常盤に、俺は苦笑を返した。
「ああ、なんだろうな? 言葉にはできないが、何故か落ち着くんだよ」
ただ、お互いに喋るだけ。それだけなのに、やけに安心するのは何故だろう?
いつも釣りをしながら考えるような、未来に対する無気力な考えも、今は浮かばない。
常盤の雰囲気がそうさせるのだろうか?
俺が天井から視線を戻すと、常盤と目があった。黒い、力強い意思を感じさせる瞳。俺はその瞳から視線を外し、今度は壁にかかったカレンダーに目を向ける。
「なあ」
「はい?」
「退院するには、まだ時間がかかるのか?」
「え? あ、はい。一、二週間くらい様子を見るそうです」
そう言って、常盤は右手を自身の胸に当てた。
「子供の頃から病気がちだったせいか、すぐに大げさになっちゃうんですよね」
どこか儚げに常盤が告げる。
「……用心するに越したことはないだろ」
「そうですけどね。でも、なんで退院のことを?」
さっきと同じように、不思議そうな顔をする常盤。俺はそれに対し、少しだけ目を逸らす。
「夏休み中、暇でな。もしかしたら、また見舞いに来るかもしれない」
俺がそう言うと、常盤はきょとんとした顔つきになり―――嬉しげに笑った。
「はい、どうぞ」
承諾の声に、俺はそうかと返す。
常盤も一人で病室にいるというのは暇だろうし、俺も夏休み中は暇だ。だから、また見舞いに来よう。
―――そんな考えとは別に、また常盤と話をしたいと思ったことは、なるべく考えないようにした。
夏の夕暮れは遅い。太陽が傾き、徐々に山際へと近づいていた。
病室に斜陽が差し込み、俺は時計に目を向ける。
時刻はそろそろ夕食になろうかという時間。俺は、椅子から腰を上げた。
「帰るんですか?」
ベッドの上から常盤が聞いてくる。俺はそれに対し、頷くことで答えた。
「病院はそろそろ夕食だろ? それに、長居が過ぎると体に悪い」
既に何時間も居て言う台詞ではない。常盤もそれを思ったのか、面白そうに笑った。
「そうですね。そろそろ晩御飯が運ばれてきますし……」
常盤のそんな声に合わせるかのように、廊下の方からカラカラと音が聞こえてくる。
「あ、晩御飯ですね」
どうやら、夕食を配るための配膳台を押す音らしい。
「それじゃあ、俺はこれで失礼する」
丁度良い区切りになったな、と内心で思いつつ、ドアノブに手をかけた。しかし、ドアノブを捻るよりも早く背中に声がかかる。
「藤岡さん」
「……ん?」
手を止め、背後へと振り返る。すると、常盤がベッドの上で体を起こしていた。
「今日は、ありがとうございました」
斜陽に照らされながら、常盤が微笑む。黒の長髪が日に照らされ、金砂のように煌く。その光景はどこか神秘的で、
―――俺は、ほんの少しだけその笑みに見惚れた。
「……気にするな」
何とかそう言って、俺はドアノブを捻る。そして、扉をくぐる前にもう一度だけ常盤へと目を向けた。
「またな」
我ながら素っ気無いと思う。しかし、常盤はそれに笑顔で答えてくれた。
「はい。それじゃあ、また」
そんな常盤の言葉を耳に残し、扉を閉める。
僅かに騒がしい廊下で、俺は言いようのない感覚に身を預けていた。
「……帰るか」
呟いて、廊下を歩き出す。
その感覚が何なのか、俺にはわからない。
ただ、また明日も来ようと、そう思った。