一章:海風と少女
学校のない休日。俺は目覚ましの音で目を覚ました。耳元で元気に鳴り響く目覚ましを叩いて黙らせ、欠伸をする。
寝ていたとき暑かったせいか、大分汗をかいていた。額に浮いた汗を軽く拭い、俺は寝汗を吸い込んだシャツを脱ぐ。そして、タンスから新しいシャツを出して着替えた。
「ふぅ……」
それだけでも大分さっぱりした気がする。
俺はそのまま立ち上がり、部屋の外へと足を向けた。まずは、顔を洗って完全に目を覚まさなくてはならない。
自室を出て、階下へ降りて洗面所へと向かう。そして、少し冷たい水で顔を洗った。
夏場の水というのは朝のうちはそれなりに冷たいが、昼間になると温くなるのはどうしたものか。
そんなどうでもいいことを考えながら、リビングへと入る。しかし、そこに両親の姿はなかった。テーブルの上に目を向けてみれば、なにやら紙が一枚置いてある。俺はそれを手に取り、文面に目を通した。
それによると、どうやら親戚の家に行ってくるらしい。俺は一つ頷いて、その紙を丸めてゴミ箱へと投げる。
親戚の家に行くなんて、俺にとってはどうでもいい。両親もそこをわかっているのか、俺を連れて行かなかったのだろう。まあ、今は十時を過ぎているから放っておいただけということもあるのだが。
テーブルの上には朝食と昼食が用意されている。俺はテーブル脇にある椅子に腰を下ろし、とりあえず朝食を食べることにした。
午前中は、面倒だが宿題でも片付けるとしよう。宿題なんぞ、夏休みにまとめて出してほしい。
午後からは、釣りにでも行こう。俺はそう決めて、先ほど丸めた紙を投げたゴミ箱に目を向ける。
残念ながら、シュートは決まらなかったみたいだ。
海風が吹き付ける堤防を歩きながら、俺はため息を一つ吐く。
空は晴れ渡る快晴。雲一つない青空は、これでもかと言わんばかりに直射日光を振りまいている。
午前中は宣言通り宿題を終わらせ、昼食を食べてから外へと出てきた。
「あちぃ……」
ため息に続いて愚痴を一つ吐き、堤防を歩く。
そろそろ夏休みも近いせいか、遠くの砂浜ではちらほらと家族連れの姿が見えた。
いつか俺も泳ぎに行くのもいいかな、なんて考えながら、影の差している場所へと移動する。そして、腰を下ろしてバッグからコンパクトロッドを取り出した。
小型ながらもリールの装着できるそれは、携帯用の釣り竿として重宝するものだ。
俺は手早く仕掛けを作ると、餌を釣り針につけて海中へと投じた。
しかし、俺は海を見ながらぼんやりとするのが好きなだけで、釣りはそこまで好きではない。だが、ただ海を眺めているだけというのも勿体無くて、釣り竿を握っている。さすがに、何も持ってない人間がただ海を見ているだけというのは人に見られたら不審の目を向けられてしまうだろう。
一定のリズムで響く波の音を聞きながら、俺は海面に目を向けた。
波打つ海水に日光が反射して、少し眩しい。俺は僅かに目を細め、そのまま水平線へと視線を移す。
「今日も、良い風だな」
頬を撫でる海風に、俺は小さく笑う。
磯の臭いが駄目とか、海の風に含まれた塩分が嫌だ、なんてよく聞くけれど、俺は気にしない。
爽やかさのない風だが、俺にとってはこちらのほうが好ましかった。
海面に浮いたウキが、ぴくりと動く。数回小刻みに揺れると、そのまま海中へと姿を消した。
「今日は早いな……」
そう言って、俺は竿を引く。すると、竿先がしなって魚がかかったことを知らせた。
俺はリールを回し、魚を引き寄せる。大きな魚ではないのだろう。抵抗はあまりなく、簡単に引き寄せることができた。
「って、ちっさいなオイ」
水面から顔を覗かせたのは、全長十センチにも満たない小魚。俺はその小ささに苦笑を浮かべ、一息に魚を引き上げる。
背びれなどの毒がない魚であることを確認し、針を外す。すると、アスファルトの上で元気良く跳ね回った。
「慌てんな慌てんな」
このまま置いていても日干しになるだけなので、すぐさま海へと帰してやる。俺は、小魚をなるべく優しく海面へと放った。
ぽちょん、という音と共に、小魚の姿が消える。俺はそれを見送り、
「―――釣れますか?」
そんな声に、顔を上げた。
「今、一匹釣れたところだ」
とりあえずそう答えながら、声の主を見上げる。そこにいたのは、一人の少女だった。
黒の長髪に優しげな面差し。目は柔和な印象を受ける。白のワンピースに身を包み、海風に飛ばされそうな白い帽子を右手で押さえていた。
年齢は、おそらく俺と同じか一つ下ぐらい。
誰だろう?
声をかけられたから答えたが、俺はこの少女を知らない。同じ学校の生徒にしては見かけない顔だし、近所にこんな子が住んでいた記憶もない。
すなわち、赤の他人だった。
「隣、座っても良いですか?」
そんなことを考えている俺に構わず、少女がそんなことを聞いてくる。俺は僅かに黙考し、頷いた。
「別に俺の席ってわけでもないし、構わないぞ」
俺がそう言うと、少女は僅かに距離を開けて座る。そして、笑顔で空を仰ぎ見た。
「良い天気ですねー」
帽子を押さえながら、日光に目を細める少女。俺はそんな少女から、海面へと視線を移した。
「まあ、夏だからな」
適当に答える。しかし、少女は構わず話を続けた。
「わたし、海って好きなんですよね。海の風と波の音って、落ち着きますから」
「……それは、海が好きなんじゃなくて、海の風と波の音が好きなんじゃないか?」
「あははは、そうかもしれませんね」
楽しそうに、少女が笑う。俺は頬を掻き、さっきから気になっていたことを尋ねることにした。
「なあ、どこかで会ったことあったっけ? 俺、君のことを知らないんだけど」
すると、少女が今度はクスクスと笑い出す。
「それは奇遇ですね。わたしも、あなたのことを知りませんから」
「…………」
思わず沈黙する。いや、どう反応すればいいのか全くわからなかった。
「そうか」
「ええ、そうです」
それだけを返すと、俺は再び海面のウキへと目を向ける。
この少女が誰かは知らない。けれど、何故か気にならなかった。
普通、他人が真横に座っていたら嫌でも気になるものだが、この少女にはそれがない。
俺はそのことに疑問を覚えるが、どうでもいいか、と考えることを放棄した。
「釣り、お好きなんですか?」
海を眺めながら、少女が尋ねてくる。
「んー……釣りが好きというより、ここで風に当たっているのが好きって言ったほうが正しいな」
軽く竿を動かしながら、そう答えた。すると、少女は笑みを浮かべたままで再度尋ねてくる。
「なんで、ここで風に当たるのが好きなんですか?」
「さて、ね。俺にもよくわからんよ」
「そうなんですか?」
ああ、頷く。少女は俺の言葉に首をかしげると、左腕にはめられた小さな腕時計を見て声を上げた。
「あ、そろそろ戻らないと……それじゃあ、失礼しますね」
「ああ。じゃあな」
右手を軽く振る。すると、少女はもう一度笑って立ち上がった。そして、来たときと同じように帽子を押さえながら歩き去る。
俺は小さくなっていく背中を見ながら、一人呟く。
「……一体、誰だったんだろうな」
その問いに、答えてくれるものはいなかった。
「きりーつ。きをつけー、礼」
日直のおざなりな挨拶を先頭に、担任の教師に頭を下げる。担任はそれに頷いて応えると、足早に教壇から去っていった。
「ふぅ……」
ため息を吐く。今日は午後からの授業がない。そのため、生徒は昼で帰ることがきる。
部活動をしている人間は別だが、俺はどこの部にも所属していないから関係なかった。
「あれ、藤岡帰んのか?」
俺が帰り支度をしていると、畑山が声をかけてくる。俺は鞄に教科書を詰めながら。そちらに目を向けた。
「部活にも入ってないしな。さっさと帰ることにする」
「羨ましいな、おい。俺はこれからずっと部活だぜ」
畑山はうんざりした表情でそう言うと、手に持ったバッグを掲げる。刺繍された文字を見る限り、野球部のようだった。
「今時熱血は流行らないと思うんだけど、どうよ?」
「さて、な。そもそも、野球部という時点で熱血だと思うぞ」
うへえ、なんて声を漏らす畑山の肩を叩き、俺は教室を後にする。
熱血なんて俺の柄じゃないが、それを応援するくらいはしてやるさ。
午後から、俺は釣り場へと足を向けた。徒歩で十五分程度。自転車を使えばもっと早く着くのだが、散歩を兼ねているからいつも徒歩で向かう。
木にとまった蝉が鳴き、それに合わせるように他の蝉が合唱する。俺はその音量の大きさに、意味もなく夏だなと思った。
日差しも相変わらずキツイが、夏だからと我慢する。これで凍るような寒さだったら、異常気象もいいところだろう。
益体もないことを考えながら、堤防を歩いていく。蝉の鳴き声に波の音が唱和され、俺は本当に夏だな、と思った。
海に目を向けて、水平線を見る。しかし、日差しの反射のせいでよく見えない。その反射の間を縫うようにして、ウミネコが滑空していた。
「ああ、夏だな……」
今度は口に出してみる。これでスイカでもあれば完璧だったのだが、と周りを見回すけれど、当然そんなものはなかった。
俺は、日光のせいで陽炎が立ち上りそうなコンクリートの上を歩く。靴の底が溶けてないだろうな、と靴底を見るが異常はない。
そうやって、いつもの場所へとたどり着く。少しばかりだが影ができていたので、俺はそこに腰を下ろした。直射日光が当たる場所に比べると、十分涼しいと言えるだろう。
まったくの余談だが、ニュースなどで言っている最高気温は日陰で測った温度のことを指すらしい。百葉箱のようなもので測るのだから、当然と言えば当然なのだが。
バッグを開け、中からコンパクトロッドを取り出す。以前釣具屋のバーゲンで買った物だが、十分に役目を果たしてくれている。しかし、ずっと潮風を浴びているから手入れもしなければならないのだが。
欠伸を一つ吐き出して、リールをセットする。そして、仕掛けを繋げてから海面へと投じた。
水滴が落ちるような気の抜けた音と共に、餌が海中に沈んで見えなくなる。満潮の関係か、いつもよりも水位が高いようだ。
「ま、正直どうでもいいけどな……」
正直、釣りは二の次だ。ここにくる目的は、考え事をするため。部屋の中で考え事をするのも良いが、それだと他のことに気をとられるから好きではなかった。
俺は止めどなく流れる思考をそのままに、海面から正面へと顔を上げる。その拍子に海風が吹きつけ、俺は僅かに頬を緩めた。
やはりというべきか、落ち着く。
別に、海に思い入れがあるわけではない。両親が漁師で、子供の頃からよく船に乗っていた、なんてこともない。ただ、理由もなく落ち着くのだ。
そして、俺は様々なことを考える。
これからの先のことと、その意味。
「意味は……ねえよな」
それは考えることに対して言ったのか、それとも未来を生きることに対して言ったのか俺にもわからない。ただ、無意味だなと思っただけ。
手元で釣り竿が震え、俺は反射的に釣り竿を立てる。すると、それに抵抗するように竿の先がしなった。
海面を見ていなかったから、魚が餌を突いていたことに気づかなかった。それでもなんとか魚の口に針がかかったらしく、水面下で魚が暴れている。抵抗の大きさからして、少しはサイズがあるみたいだ。
「暴れるな暴れるな、っと」
リールを巻き、自分のほうへと引き寄せる。魚の泳ぐ方向と逆に竿を引き、魚を疲れさせるようにしながら巻き上げていった。そして、かかった魚が海面に顔を出す。
全長は20センチほどで、少し形が面白い。何が面白いかというと、魚の顔が馬のような顔だったからだ。
「ウマヅラハギか。こんな場所でも釣れるんだな……」
思わぬ収穫に、俺は感嘆のため息を吐いた。
収穫とは言っても、バケツもないので持って帰るわけにもいかない。元々食べる目的もないし、キャッチ&リリースだ。
いっそ円盤投げのように投げてやろうかとも思ったが、それをすると魚が死にそうなのでやめておく。
今座っている場所から、2メートルほど下はすでに海だ。普通に放すだけで、魚は無事海へと帰れるだろう。勿論、叩きつけるなんてことはしない。なるべく優しく、水面へと放してやる。
「ほら、もう釣られるんじゃないぞ」
釣った本人の言うことではないが、一応そんなことを言っておく。魚はそれに応えるように、水しぶきを上げながら海中へと戻った。
そして、新しい餌を釣り針につけようと手を伸ばし、
「お魚、逃がしちゃうんですか?」
以前のようにかけられた声に、手を止める。だが、すぐさま釣り針に手を伸ばして餌をつけた。
「まあ、食べるのが目的じゃないからな」
俺がそう言うと、笑ったような気配が伝わってくる。俺が斜め後ろに顔を向けると、数日前にも声をかけてきた少女がいた。
「こんにちは」
そう挨拶しながら、頭に被った白の帽子が海風に飛ばされないよう押さえつつ、少女が軽く頭を下げる。
「ああ、こんにちは」
俺もそれに倣って挨拶を返した。すると、少女は俺の隣へと移動する。
「隣に座ってもいいですか?」
「……前も言っただろう。別に俺の席でもないんだから、好きに座ってくれ」
では失礼して、と少女が呟き、腰を下ろす。
俺はそれを横目に見ながら、餌をつけた釣り針を海面へと放った。すると、小さな着水音と共に釣り針が海中へと姿を消す。そして、海面に浮くウキだけが残った。
そんな俺の動作を見ていた少女は、帽子を押さえながら視線を前へと向ける。
「夏ですね……」
ポツリと、そんなことを呟く。俺はその言葉に、小さく笑った。
「どうしたんですか?」
突然笑った俺を不思議に思ったのか、少女が聞いてくる。
「いや、俺もさっき同じようなことを言ったからつい、な」
「そうなんですか?」
「ああ」
そこで会話が途切れた。俺は海面に浮くウキを見て、少女は空を見上げる。会話はないが、別に気にすることもない。
そんな中で、海面に浮いたウキがピクリと動く。海面に小さな波紋が広がり、それが数回続いた。
そして、いきなりウキが海面へと引きずり込まれる。俺はそれに合わせて、釣り竿を引いた。
「かかったんですか?」
いつの間にか俺の動きを見ていた少女に、俺は頷き返す。
「かかった。しかも、少し大きめのやつだな」
手に伝わってくる手ごたえから、少しばかり大きな魚であることがわかる。
俺はリールを巻きながら、魚が泳ぐのとは逆方向に竿を引く。それを数回繰り返すと、魚が疲れたのかあまり抵抗なく引き寄せることができるようになった。
釣り糸をつかみ、そのまま引き上げる。すると、そこには三十センチほどの魚がかかっていた。
「これ……なんですか?」
その魚を見ながら、少女が聞いてくる。
「これはアジだな。しかし、こんなところで釣れるとは……」
魚の口から釣り針を外し、海へと帰す。すると、それを見ていた少女が口を開いた。
「思いっきり投げたりしないんですか?」
「……俺がそんな人間に見えるのか?」
「いえ、聞いてみただけです」
笑顔をそんなことを言ってくる。思ったよりも、良い性格をしているらしい。
俺は釣り針に餌をつけながら、少女に尋ねる。
「ところで、質問なんだが」
「はい?」
「アンタは、この近くに家があるのか?」
「えっと、なんでですか?」
「いや、歩きでここに来るくらいだ。近くに家があって、そこから散歩がてら来ているのかと思ってな」
そんな俺の質問に、少女は困ったような笑みを浮かべた。俺はそれを見て、軽く右手を振る。
「いや、別に答えなくていい。なんとなく聞きたかっただけだ」
しかし、俺がそう言うと少女は首を横に振った。
「家……ではないです。ほら、後ろを見てください」
少女にそう言われ、俺は後ろを見る。しかし、後ろには防波堤の壁があるだけだ。
「あ、違います。そっちじゃなくて、もう少し上を見てください」
俺はそのまま顔を上げる。すると、なにやら建物が見えた。
おそらく五階建てか六階建てぐらいだろう。少し離れた場所に建っているが、そのくらいはわかる。
「……なんだ、あれは?」
長くここで釣りをしてきたが、あんなものが後ろにあったとは気づかなかった。
「あれは病院です。利用したことないんですか?」
「いや、子供の頃から病気の類にかかったことがほとんどないからな」
思い返してみるが、病気になった記憶はほとんどなかった。さすがに軽い風邪くらいはあるが、学校を休むほどでもなく、夜にぐっすりと眠れば翌日には治っているようなものばかりだ。だから、自然と病院を利用することもなかった。
「健康で何よりです。病気は、かからないのが一番ですから」
少女が笑う。ただ、その笑いが今までと少しばかり違うように見えたのは俺の勘違いだろうか。だが、少女はすぐにさっきまでと同じ笑顔になる。
「さっきの質問ですけど、答えはあの病院にあります」
「病院? なんだ、入院でもしているのか?」
俺がそう言うと、少女は頷いた。
「入院もしたことありますけど、あの病院にはよくお世話になるんです。あ、あそこの部屋を見てください」
少女が病院の一角を指差す。俺はそれを目で追った。
「わたしが入院すると、大抵あそこの部屋になるんですよ。それで、窓から外を見るとここがよく見えるんです」
その言葉に、俺はなるほどと頷く。たしかに、あそこからならこの場所がよく見えるだろう。だが、それだと気になることがある。
「……もしかして、入院患者か?」
そんな俺の質問に、少女は笑顔で答えた。
「はい。散歩をしたいので抜け出してきました」
「…………」
俺は思わず、頭上の青空を仰ぎ見る。
「抜け出して、いいのか?」
とりあえず聞いてみる。すると、少女は首をかしげた。
「駄目なんじゃないでしょうか?」
「……なら、抜け出すなよ」
俺がそう言うと、少女は抗議するように声を上げる。
「そうは言いますけど、病院の中ってつまらないんですよ。だから、散歩くらい良いじゃないですか」
まあ、散歩するために病院を抜け出せるくらいだ。そこまで酷い病気を抱えているわけではないのだろう。
そんなことを考えていると、少女が僅かに笑みを引っ込める。
「それに、以前から気になっていたんです」
「気になっていた?」
「ええ」
一つ頷いて、少女はどこか遠くを見るように目を細めた。
「あなたは、よくここに来ますよね。いつも釣り竿を持って、この場所に座って。でも遠くから見ていたら、あなたは釣りをするためにこの場所に来ているんじゃないって思えたんです」
そのまま遠くを見つめながら、少女は言葉を続ける。
「さっき、病室からこの場所がよく見えるって言いましたよね?」
「ああ、言ったな」
俺が返事を返すと、少女は苦笑した。
「病室って、本当にすることがないんです。だから、わたしは本を読んだり、窓の外の景色を眺めたりすることしかできませんでした」
「……そうか」
「はい。それで、よくこの場所にくるあなたが何をしているのか、気になってきちゃいました」
そう言って、少女は笑う。
俺はその笑顔に、ふっと肩の力が抜けた。
「アンタ、馬鹿だな」
「あ、それは酷いです」
俺の言葉に、少女が頬を膨らませる。しかし、左腕の小さな腕時計を見てその表情を苦笑へと変えた。
「あ、そろそろ戻らないと。看護婦さんが見回りに来るんですよね」
埃を叩いて少女が立ち上がる。そんな少女に、俺は声をかけた。
「今は看護婦ではなく、看護師というらしいぞ?」
俺の言葉に、少女は笑って立ち去った。
それ以降、この変わった少女は時折この釣り場へと姿を見せるようになった。
休日、何もなかったら大抵俺はこの場所に来る。しかも、もうすぐ夏休みだからその頻度も増すだろう。だが、それに合わせてこの少女とのエンカウント率が高くなっているのはどうしたものか。
「なあ」
俺は、隣に腰をかけている少女へと声をかける。
流石に夏場は暑いので、一応帽子をかぶってはいるが、日差しが当たらない影の部分に腰を下ろしているのだから意味はないのかもしれない。
「なんですか?」
手に持っていた本から顔を上げ、少女は首をかしげる。それに合わせるように黒の長髪が揺れ、ついでとばかりに頭の白い帽子も揺れた。
「お前さ、暇なのか?」
俺の質問に、少女は心外だと言わんばかりに首を振る。
「暇じゃないですよ。現に、こうやって本を読んでいるじゃないですか」
「いや、本なら自宅で読めば良いだろう。何も、こんな場所で読む必要はないはずだ」
誰が好んでこんな暑い場所で本を読むというのだろうか。もっとも、その暑い場所で釣りをしている俺に言える台詞ではないが。
「海からの風が当たって、気持ち良い場所じゃないですか」
「風は風でも、熱風だけどな」
「あ、これは一本取られましたね」
何がおかしいのか、少女はくすくすと笑う。俺はそんな少女から視線を外し、ウキの浮かぶ海面へと向けた。
「でも、それならなんで貴方はここに来ているんですか?」
横からの問いに、俺は手に持った物を軽く叩く。
「なんでも何も、釣りをするために決まっているだろ。あとは風に当たるためだ」
「でも、釣りをするためなら他に良い場所があるんじゃないですか?」
「…………」
少女からの返答に、俺は言葉を返すことができない。
たしかに、釣りをするだけなら他に良い場所があるだろう。釣れるポイントというのは様々ある。
まあ、こいつの言うとおり、この場所は『魚を釣る』ということには向いていないだろう。
別に隠すようなことでもないので、俺は海面を眺めたままで、答えを口にする。
「……考え事をするためだ」
視線を滑らせ、遠くへと目を向けた。
遠くではカモメが気楽そうに飛び回り、その下では魚が水面を跳ねる。俺はその光景を見ながら、肩の力を抜いた。
「あんたと同じで、海の風が好きなんだ。だから、落ち着いて考え事ができる」
「……そうですか」
落ち着いた声。ちらりと横を見てみれば、少女も俺と同じように、遠い場所を飛ぶカモメを目で追っていた。
「どんな考え事をしているのか……聞いても良いですか?」
視線を合わせることはない。ただ、お互いに前を向くだけだ。
「別に大したことじゃない。今の、自分の境遇に関して考えたいだけだ」
「今の境遇、ですか?」
見たわけではないが、きっと首をかしげているだろう。自分で言っておいてなんだが、俺自身それで合っているか自信はない。
「そうだな……進路とか、将来とか。そんな、ありがちなことだ」
「将来に関して考えていたんですか?」
「一応は、な」
海面のウキが一度動く。俺はそれを無感動に眺めながら、話を続けた。
「一応、ですか」
「そう、一応だ。将来と言っても、あんたが考えているようなことじゃないだろうよ」
俺の言葉に、少女は目を瞬かせる。
「将来はどの学校に進学する、とか。どの会社に就職する、とかじゃないんですか?」
「違う。俺が考えていたのは、それに意味があるかってことだ」
首をかしげる少女に、俺は微かに笑う。
「考えてもみろよ。人間、どんな道を歩んだって行き着く先は同じなんだぜ? なら、どんな道を歩んでも同じだろ。だから、将来とか馬鹿らしいって思えてな」
それは、人間誰しも考えることだ。しかし、そんなことを言っても人は生きていかなければならない。例えそれが、最終的に皆同じ結末になるのだとしても。
「面倒なことだが、これから就職なり進学なりしないといけない。しかし、それらは生きていく上で必要なことだ。そして、俺にはそれらが必要最低限のことだとしか認識できない」
俺がそう言うと、少女は笑う。だがいつもとは少し違う、どこか不思議なものを見るかのような笑顔で、
「―――貴方は、生きるのがつまらないんですね」
そんなことを、言った。
「つまらない?」
「そうです。たしかに、生きるというのは面倒なことなのかもしれません。嫌なこともあれば、楽しいこともあるでしょう」
少女の話に、俺は耳を傾ける。
「ですが、それは誰だって同じことですよ。それを放棄するのは、ただの甘えです」
それだけを言うと、少女は立ち上がった。
「でも、これだけは覚えていてください」
そして、笑みを消して真剣な表情で俺を見る。
「そんな面倒でつまらない生活でも、渇望してやまない人はいるんですよ?」
そう告げると、少女は再び笑みを浮かべた。
「それじゃあ、わたしはそろそろ戻りますね」
笑顔のまま、少女は立ち去ろうとする。俺はそれを呼び止めようとして、あることに思い至った。
「おい」
ぶっきらぼうな呼びかけにも、少女は振り返る。
「まだお互いに自己紹介をしていなかった。俺は藤岡修司だ。あんたは?」
何度かここで会ったことがあったが、互いに名乗った覚えはない。そして、この少女の名前を今初めて知りたいと思った。
俺の問いかけに、少女はにこりと笑う。
「美樹です、常盤美樹。よろしくお願いしますね、藤岡さん」
でも、と常盤は言葉を続ける。
「いきなり自己紹介をするなんて、どうしたんですか?」
「あんな話をした後だしな。ああいった話は他人に聞かせるから話しやすいんだし、これから聞かせるつもりはない」
「ということは、他人以上ってことですか?」
「ま、そんなところだな」
俺の言葉に、常盤は小さく笑う。
「おかしな人ですね」
嫌味のない言葉に、俺は笑い返した。
「そうでなければ、あんな話はしないだろうよ」
そう言うと、常盤は今度こそ背を向けて歩き出す。ただ、その背中はやけに楽しそうに見えた。
俺も少しばかり愉快な気持ちで、海面へと視線を移す。
すでに、餌は取られていた。