プロローグ:夏のはじまり
この物語に登場するとあるキャラクターは、拙作の「あの日見上げた青空に」に登場するキャラと性格などが酷似しています。元々はこちらが原型となっていますが、ご注意ください。
波の音が聞こえる病室で、一人の少女がベッドに背を預けていた。
窓の外へと目を向けて、ぼんやりと外を眺める。だが、ぼんやりとしているようでその目には強い意志が宿っていた。
コンコン、とノックの音が響く。
少女は、はい、と返事をした。
それに遅れること数秒、病室の扉が開く。そして、開かれた扉に続くように人が入ってきた。
真っ白な白衣を着た、中年の男性。おそらくは医師だろう。
その後ろには、看護師と少女の母親らしき人物が一緒にいた。しかし、母親の表情は硬い。
少女はそんな母親の表情に何かを感じたのだろう。ベッドから身を起こし、真っ直ぐに母親を見る。
そんな少女に、医師が一歩前へと出た。そのまま、何かを伝えるために口を開く。
「―――――」
少女は医師の言葉を聞き、僅かに目を伏せた。だが、すぐさま顔を上げて―――柔らかく微笑む。
その笑みを見た医師は、歯を食いしばって頷いた。ただ、悔しそうに握られた拳がやけに痛々しい。
医師は少女に小さく頭を下げ、病室を後にする。
そんな医師に続くように、看護師も病室から外へと歩み出た。ただ、母親だけは少女の傍に腰を下ろす。だが、母親は少女を見ることができなかった。小さく肩を震わせ、押し殺したように泣き声を上げる。
少女は困ったように母親に小さく笑いかけ、こう告げた。
『わたしは負けない。生きてみせるよ』
と。
そう告げて、少女は窓の外を見る。
晴れた青空の下では、桜の花が舞っていた。
初夏も近づいたこの時期は、気温もずいぶんと上がるようになってきている。蝉も鳴き始め、そろそろ夏の到来を感じさせた。
「ま、その代わり暑いがな」
俺はそんなことを呟きながら、窓の外へと目を向ける。
グラウンドには朝練を終えた運動部の姿がちらほらと見え、校門では急ぎ足で生徒が通り抜けていく。
窓から吹き込んでくる風を吸い込み、俺は肩の力を抜いた。
「……夏だな」
風についた磯の香りに、俺は遠くへと目を向ける。校舎の二階から見ることのできる範囲でも、視界の三割は海によって占められていた。
「ふぅ……」
ため息を吐く。すると、不意に肩を叩かれた。
「よぉ、藤岡。朝からため息なんて吐くなよ。幸福が逃げちまうぜ?」
背中にそんな声をかけられ、俺は気だるく振り向く。
そこに立っていたのは一人の男子生徒。
身長は百七十五センチ程度で俺と同じくらい。俗にいうスポーツ刈りの髪型に、気さくそうな顔をしている。名前は畑山健吾と言って、このクラスの中では親しい部類に入る人間だ。
「そんなことで幸福が逃げるのなら、今頃俺は車に撥ねられて死んでいる」
「ははっ、そりゃそうだ」
畑山は俺の言葉に軽く笑い、隣の席へと腰を下ろす。俺はそれに構わず、再び窓の外へと目を向けた。
「しっかし、最近暑いよな」
「そうだな」
畑山の言葉に、適当に答える。
「あれか? 地球温暖化の影響ってやつか?」
「だろうな」
畑山の言葉を、おざなりに返す。
「俺に対するお前の態度は、地球温暖化に比例するみたいに冷たくなってきてるよな」
「かもな」
「……OK、表に出ろ。俺は出ないから」
「暑いから断る」
そう言って、顔を見合わせる。そして、互いに笑い出した。
畑山は豪快に笑い、俺は軽く笑う。
「いや、相変わらず良い性格してんなお前」
「知らねえよ、そんなこと」
笑いを苦笑に変え、再度窓の外へと目を向ける。だが、畑山は喋り足りないらしく、俺の肩を突いてきた。
「なあ、お前も何か部活に入らね?」
脈絡もない話。しかし、俺とこいつの間では時折交わされる会話だ。
「なんでだ?」
「だって、お前運動神経良いじゃねーか。勿体ないって」
畑山の言葉に、俺は椅子に背もたれる。
「とは言っても、やる気が出ない」
「出せよ。部活に入っていたほうが内申点も良くなるし、な?」
なにが、な? なのかは知らないが、俺は首を横に振った。
「別に、内申点に興味はない。それに、二年の今から入ってどうする」
「んー……そこはほら、運動不足の解消とか?」
「授業の体育だけで十分だ」
ばっさりと切り捨てて、俺は一つ欠伸をする。それを見て、畑山はやれやれと肩を竦めた。
「本当に相変わらずだな。ま、俺も無理にとは言わないけどな……」
そこで一旦言葉を区切り、畑山は真剣な目へと変わる。
「お前さ、将来とかどうするんだ?」
教師みたいなことを言うな、と内心で思うが、これもこいつの良いところなのだろう。真剣に他人を心配できるこいつが、少しばかり羨ましい。
「―――さあな」
だが、それに応えることはできそうにない。
俺の答えに畑山は苦笑して、椅子から立ち上がる。
「まあ、そこもお前らしいと言えばお前らしいけどな。だけど、そろそろ進路のことも考えとかないといけないぜ?」
「わかってる……サンキュな」
「良いってことよ。そんじゃ、そろそろ席に戻るわ」
畑山がそう言ったのと同時に、教室の扉が開く。そして、担任の教師が入ってきた。そのまま教室を見渡し、頷く。
「よーし、遅刻はいないな。出席を取るぞー」
そんなことを言いながら壇上へと上がり、出席簿を開く。
「青木ー」
担任の声をBGMに、俺は雲一つない夏空を見上げた。
「将来をどうするか、か……」
言われたことを反芻し、目を瞑る。
―――そんなこと、俺自身が知りたかった。
俺が通うこの学校は、至って普通の県立高校である。
有名な進学校というわけでもなければ、スポーツが盛んというわけでもない。本当に、至って普通の学校だった。
特に目標のない地元の中学生なら、そのまま進学するであろう高校。俺も、その中の一人だ。
特に目標や夢があるわけではなく、勉強も多少はできるが有名な大学に進学する気もない。自宅から近いという理由で進学したくらいだ。
そもそも、中学生の時点で確固たる目標を持っている者などあまりいないだろう。大抵は流されるままに日々を送り、高校生の中盤以降に自分の道を模索する。
まあ、俺の場合はそれがより顕著なだけだ。
定期試験である程度の点数が取れて、授業もサボらない。それだけをこなしていれば、ある程度の道は開けるだろう。
普通の大学に進学し、普通の会社に就職する。そんな、大多数の人間が歩む人生。
―――それが、ひどく色褪せたものに見えた。
そして、それ以来どうにもやる気というものが出ない。
やっても無駄だ、意味がない。そんな考えが浮かんでしまう。
詰まるところ、最終的にはある結論に行き着くんだ。
「俺、なんのために生きてるんだろうな」
呟きは小さく、誰にも聞かれることはない。
「藤岡ー」
そして、そんな思考を遮るように担任の声が響く。
「……はい」
おざなりな返事をして、俺は頬杖を突いた。
何にせよ、人は生きていかなくてはならない。例えそれが、流されるままの人生だとしても。
そんな俺の考えを嘲笑うかのように、傍の木で蝉が鳴いた。