9話
そのまま煙が内側に入ってこないように、パタパタとスカートの生地で外に向かって仰ぐ。
煙そのものはそう派手なものではない。
匂いも殆どなく、練り香の存在を知らなければ、煙が上がっていることさえ気付かなくても不思議はない程度のものだ。
けれど着実に上がるそれは、僅かな隙間から部屋の外の廊下に音も無く広がって行く。
そのまま五分ほどが過ぎただろうか。
不意に扉の外で、ドサリ、またドサリ、と二つ分の何かが崩れ落ちる音が聞こえてきた。
それ以上外で物音がしないことをしっかり確かめてから私は練り香を引っ張り戻し、靴底で火種をきっちりと踏みつぶして煙を消す。
それから自分の髪を探り、ピンを一本引っ張り出すと、扉の鍵穴へ差し込んだ。
手応えと共に、ガチリと音が響いて錠が外れるまでに十秒もかからない。鍵にも色々と種類があるけれど、今回使われている物はごく一般的な種類だったようで、この程度の鍵ならさして手こずることもない。
鍵が開いた、ということはラシェット様にも判ったのだろう。無言のまま、少年の目が大きく見開かれ、私を凝視しているのが判る。
彼が何を言いたいのかを重々承知しながら、私はあえて気付かぬフリをしてドアノブに手を掛けながら、外側へ強く押した。
直後、扉はほんの僅かだけ開いて、でもすぐにガツッと鈍い手応えが伝わってくる。
鍵は確かに外れたはずだけど、妙に扉が重たく感じるのは、その外側で倒れているはずの見張りの身体が邪魔をしているからだろう。
どうやら外に立っていたはずの見張りの騎士達は、この扉に寄りかかる格好で倒れているらしい。
扉に体重を掛けて、無理矢理押し開こうとすると、私の後ろから伸びたラシェット様の手が一緒に力を貸してくれた。
そのおかげでどうにか生まれた扉の隙間から廊下を覗き込み、倒れた二人の見張り以外他に誰もいないことを確かめる。
「……大丈夫そうです、行きましょう。あ、済みませんがランタンを持ってきて頂けますか」
無言でラシェット様が一度扉から離れると、床に置きっぱなしだったランタンにホヤを被せて、手に提げ戻ってくる。
その間に廊下に出た私は、倒れている二人の見張りの騎士の腰からそれぞれ剣を一本ずつ奪い取り、廊下に出てきたラシェット様にその内の一本を差し出した。
その剣を受け取りながら、ラシェット様はやっぱり複雑そうに、そして何か言いたげに、足元の騎士達を見つめている。
そのまま廊下に転がしておくと、他の騎士達の目に付く恐れがあるので、ラシェット様と手分けして騎士達を、それまで私達が閉じ込められていた部屋の中へ引っ張り込み、外から再びピンで元通りに鍵を掛けた。
一連の作業を終えてもなお、ラシェット様の無言の視線は私に突き刺さっている。
だんだんと、先ほどよりも胡乱で疑惑に凝り固まった眼差しになってくる王子の視線に、無視しきれなくなった私はおどけるように小さく肩を竦めて見せた。
「……殺してませんよ? ただの眠り薬です」
証拠に騎士達の胸は規則正しく上下していた。即効性はあるけれど持続性はない薬なので、二、三時間もすれば目が覚めるはずだ。
「……それは見れば判る」
どうやらラシェット様の言いたいことは、見張りの騎士達の安否ではなかったらしい。まあ、何となく判るけれど。
「こういったことには結構慣れていると、そう申し上げました」
「慣れているとか、そう言うレベルの話じゃないだろう……!」
そうですね、そうかもしれません。ピン一本で鍵の開け閉めができる貴族の娘なんて、私も他に知りませんし。私がラシェット様の立場でも、同じように疑問を抱き、詰問するだろう。
ぐわっ、と強い勢いで突っ込んでくるラシェット様は、それでも声を極力抑えているところが立派だ。
でも残念ながら、今はその言葉に答えるよりも脱出する方が先だ。
とりあえず外に出て、それから馬を奪いたい。
問題はどこから外に出るかだけど、こちらもあっさりと解決した。
私達が閉じ込められていた部屋には窓がなかったけれど、隣の部屋には窓がある。
そしてその窓の鍵を外せば、人が一人ずつならば充分に通り抜けられる隙間が開いたからだ。
この建物が平屋だというのも、都合が良かった。
どうやらリッツモンド伯爵も騎士も、王子を閉じ込める事は考えていても、逃げ出した時の事までは想定していなかったらしい。
やはり何もできない少年だと侮られていたことが理由だろうけど、今はその侮りが少なからずこちらに都合の良い結果になったので、素直に感謝しておくことにしよう。
ラシェット様が何かを言うより先に、窓から外へ身を躍り出した私は、素早く周囲を見回して、その安全を確保すると後ろに合図を送った。
その私の合図を不満そうな顔をしながらも素直に受け入れ、同じように外に出た彼を促して先を急ぐ。
ここまでは順調だけど、伯爵は一時間で戻ると言っていた。モタモタしているとすぐに見つかってしまうだろう。
彼が戻る前には馬を奪い、そしてある程度の距離を稼いでおきたいけれど、さて上手くいくだろうか。
できればあまり面倒がない形で上手く行って欲しいと思う。
でもさすがに、こちらに都合の良い結果ばかりにはならなさそうで、ラシェット様と二人、息を潜めるように厩を探して辿り着いた私達の視線の先にいたのは、数頭の馬の他に三人の騎士達の姿だった。
馬を奪う為には、あの三人をどうにかしなくてはならない。あるいは彼らがこの場から立ち去るのを待つというのも手段の一つではある。
でもこちらには時間制限がある事を思えば、いつ立ち去るのか判らない相手の行動を待つのは上手くない。
同じことを考えているのか、ラシェット様も今は大人しく口を噤んだまま、騎士達を見つめている。その彼の手が、先ほど渡した剣の柄に掛かっていた。
放っておくと今にも飛び出してしまいそうだ。
彼が自分の剣の腕にどれほどの自信があるのか、私は知らないけど、他に手段がないならともかく、そんな無謀な行いを見逃すわけにはいかない。
ぐっと柄を握りしめる手に力を込めた、その彼の手を押さえつけるように、自分の手を重ねた。
ハッと目を見開き、私を見つめる王子の顔に、ゆっくりと首を横に振って、数歩後ろへ下がらせる。
「馬を奪うにしても、三人をほぼ同時に倒さなくてはなりません。騒がれては面倒な事になりますから。あなたには、それが出来る自信がありますか?」
静かに問えば、ラシェット様はばつが悪そうに瞳を伏せて顎を引いた。
できる、とはっきり答えられない自分を恥じているらしい。でも、できるのかできないのかがきちんと判断できる程に、自分の能力を把握しているのは立派な長所だ。
一番迷惑なのはできもしないことをできると主張し、無闇に突撃をして自分のみならず他者まで巻き込むような人間だ。
「だが、どうやって馬を奪う。多少無理をしなければ……」
「ええ。ですから、役割分担をしましょう?」
「役割分担?」
先ほどと同じように互いに顔を近付けて、ひそひそと言葉を交わす。再び互いの距離が近すぎるほど近くになったけど、さすがに今はラシェット様も気にしていられないようだ。
「あなたは一番右の男を黙らせて下さい。残り二人は、私が片付けます」
「二人? お前が? ……って、お前、何をして……!」
突然、手にしていた剣でざくざくとドレスのスカートを縦に裁断し始めた私の行いに、それどころではないはずなのに王子がぎょっと目を剥く。
右腿のあたりから一番下までざっくりとスリットのように割かれたスカートの内側から、チラリと覗く私の足に再び慌てて目を逸らす姿に苦笑した。
別にそんなに気にするようなものでもないと思うけれど。
でも確かに普段スカートの下の令嬢の足なんて目にする機会はラシェット様にはないだろうから、この反応も仕方ないのかもしれない。
ご婦人のスカートの内側は秘密がいっぱいだと、そう揶揄されるくらい、秘められたものだから。
とは言え私だって無意味にスカートを裂いた訳ではない。足回りが多少動きやすくなると、その足元に転がっていた小石を一つ手に拾い上げて、もう片方の手で鞘をつけたままの剣を握る。
そのまま、問答無用で手にした小石を男の一人に投げつけた。
見事、投げた小石が一番左側の男の額にぶつかり、ぎゃっと短い悲鳴が上がる。
「行きます」
そのまま、後ろも見ずに私は駆けだした。狙いは中央の男だ。
突然暗闇から現れた私の姿に男たちがぎょっと驚いて目を剥くも、声を上げる暇は与えない。
手にした剣でまずは中央の男の腹部に剣を叩き込み、前のめりになったその鳩尾に柄を打ち込む。
続いて小石を受けた額から血を流している男の足に、振り向きざまにやはり剣を鞘ごと叩き込んで姿勢を崩すと、その首筋を打って地面に沈めた。
残る一番右側の男はと振り返ると、ラシェット様がどうにか沈黙させることに成功したらしい。
何の前振りもない突然の私の行動に付いてこられなくても仕方ないと思っていたものの、感心にも王子は驚きつつも何とか付いてきてくれたみたいだ。
「お見事です」
極度の緊張に、肩で呼吸をしているラシェット様にそう声を掛ければ、何故かじろりと鋭い眼差しで睨まれる。
睨まれるのはいつものことだけど、今の彼の眼差しはこれまでとは比べものにならないくらい険しかった。
私としては褒めたつもりなのに、睨まれるなんてなんだか割に合わない。
でもラシェット様からすれば、おかしいのは私。
大の男二人を殆ど一瞬で地面に沈める令嬢など、まず間違いなく私の他に存在しない。
ラシェット様自身、ある程度の護身術を身に付けている人だから、判るだろう。
鍛えられた、自分よりも遥かに体格の良い騎士を、行動不能にさせることがどれほど難しいかを。
先ほどの鍵開けの技術もある。ここでとうとう彼は、自分が巻き込んでしまったと負い目を感じていた令嬢が、正しい意味で普通の令嬢とは違う存在だと確信したようだった。