5話
顔には出さず、静かに様子を見る私の目の前で、男達とラシェット様の話は続いた。
「そう言うわけには参りません。万が一のことがあっては困りますので」
「お前たちは騎士だろう。騎士の教えの中で、女性の尊厳を無視し踏みにじって良いと、そう習ったのか」
「ですが、これが私達の仕事です」
「そうか。では私はお前たちにそのような仕事を命じるような者と、まともに会話をする気はない。たとえ腕を落とされ、足を落とされてもだ」
王子が邪魔なのであれば殺す機会はいくらでもあった。
しかしそれをせずにここまで連れて来たのだから、生かしておくだけの理由があるのだろう。
多分誘拐犯の首謀者は、何かしらの要求を王子に向けて行うだろうことが想像できる。
でもラシェット様は今男たちが無理をすれば、その要求を訴える言葉すら聞かない、とそう言いきったのだ。
それがどんな危険を孕むものか承知の上で。
「……殿下、私は大丈夫です。それに私は、あなたに庇って頂ける立場の者ではございません」
言外に、あなたは私がお嫌いでしょうと、そんな含みを持たせてみるけれど、ラシェット様には通じなかったようだ。
いや、意味は通じた。だが、彼はそれを知った上で無視をしたのだ。
「お前たちの主人が、少しでも穏便に私との会話を望んでいるのであれば、この令嬢には指一本触れるな。彼女は私とは無関係な部外者だ。無関係な人間を巻き込み危害を加えるな。この程度の希望は聞き入れろと、そう伝えろ」
少しも揺らがないラシェット様の言葉に、男たちは僅かに怯んだようだった。
つい先程まで、何もできない王子だと向けていた蔑みの眼差しは既になりを潜め、迷うような気配が広がり始める。
この場で彼の言葉を突っぱねるのは簡単だろう。
いくら口で何を言おうとも、従わせるために実際に暴力が加えられれば屈服する人間は多い。
ラシェット様とて、大切に育てられた王家の末子だ。それもまだ十六歳の少年である。
暴力と脅迫に過度な耐性があるとは思えない……が、男たちは迷う様子を見せながらも、結局は今この場においては王子の言葉に従うことにしたようだった。
「……承知しました。……しばらくこちらでお待ち下さい」
何か苦いものを飲み込むような表情でリーダーの男が告げて、部屋から出て行く。残されたのは私達二人だけだ。
それまで緊張に肩を強張らせていたラシェット様が、やっとその力を僅かなりとも抜いたのは、パタリと扉が静かに閉まり、錠が掛けられる音を耳にしてからだった。
閉じ込められて何処にも逃げられないという状況は決して都合の良い環境ではないものの、目の前から男たちの姿が消えただけでもマシと言うことらしい。
つまり、男たちの前で彼は、随分虚勢を張っていたということだ。
男が置いて行ったランタンの明かりに照らされたラシェット様の身体は、先ほどよりも小さく華奢な、年相応の少年のものに見えた。
きっと本音はその場に座り込んで、頭を抱えてしまいたいのだろう。それをしなかったのは、男たちの姿が消えても、この場には私がいるからだ。
しばらくここで待てと男たちは言ったけど、それがどれほどの間のことになるかも判らない。
できれば腰を掛けられるソファなり椅子なりが欲しかったが、無い物を求めても仕方がない。
足元に古びているとは言え毛足の長い絨毯が敷かれていて良かった。
少なくともここに座り込んでも、直に床板に腰を降ろすよりは温度も固さによる痛みも、いくらかは緩和されるはず。
季節はまだ春が始まったばかりだ。昼間はぽかぽかと暖かい陽気になってきたけれど、夜はまだ冷える。
入り口近くに置き去りにされたままのランタンを持ち上げ、近くの壁際まで下がると、そのまま壁を背もたれに座り込んで、ランタンを足元に置く。
そして手にしたブランケットを広げて見せながら私は王子へ笑みを向けた。
「どうぞ、殿下。ずっとお立ちになっていてはお辛いでしょう? 少しお休み下さい」
それでなくとも馬車の中では散々だったのだ。あちこち打ち身になっていても、気分を悪くしていてもおかしくはない。
青あざの一つや二つは確実にできているだろう……でもラシェット様は、素直に私の申し出に頷こうとはしなかった。
私とブランケットの元へは近づこうとはせず、間に人が二人は入れるだけの距離を空けて座り込む。
その顔は、こちらを向こうとしない。
男たちを相手にする時のような警戒は私には抱いていない。
だけど気を許してもいない彼の心情が、ありありと伝わってくる。
アストロード様であったなら、躊躇いなく私の隣に並び、それどころか己の胸に抱き寄せるような真似も簡単にしてきただろうけれど、今共にいるのはアストロード様ではない。
これが私とラシェット様との心の距離だと思えば、当然のように感じた。
これ以上声を掛けても、彼が私の隣に来ることはないだろう。別に、それならそれで構わない、無理強いをしてまで隣に呼び寄せる理由もないのだし。
ただ、この雰囲気に押されて黙り込み、鬱々とした時間を過ごすつもりもない。
真っ直ぐに正面の壁を睨みつけるように見つめている王子の横顔を横目で見やりながら口を開く。先ほどのことが疑問で仕方なかったからだ。
「先ほどはなぜ、私を庇われたのですか?」
一方ラシェット様の方はと言うと、突然向けられた問いに怪訝そうに眉を寄せる。
やっとこちらを見た彼の目は、その目元がほんの少しだけアストロード様に似て見えた。
「……どういう意味だ」
私にしてみれば、やはり庇われる理由など思いつかない。
だけどラシェット様は、私が何故そんなことを尋ねるのか、理由が判らない様子だ。
彼にしてみれば、私を庇うその行為が疑問を持たれる種類の物だという認識がないのかもしれない。
当たり前のことを、当たり前にしただけとでも言わんばかりな様子に、なんだか首の後ろがざわざわとする。
不快なような、落ち着かないような、複雑な気分だ。
「私が殿下に疎まれていることは承知しているつもりです。そんな私を、どうして庇われるのですか。放っておかれても、誰からも非難はされないでしょうに」
王子を相手に生意気な口を利いている自覚はあった。でもここで言い淀んで黙り込むような性格だったら、私はそもそも悪女などと評判を立てられることもなかっただろう。
生意気な女だと後ろ指を指されたことは数え切れない。
同時に、そんな生意気な女を虜にし、屈服させたいと近づいてきた男たちも数多い。
今や私達は互いに相手の目を捕らえる形で、見つめ合っている。
ラシェット様の眉間に寄せられていた皺が深まったのは、それから僅か後だった。
「……別に特別な理由などない。ただ……」
「ただ?」
ほんの一瞬、彼は言い淀む。言いにくいと言うよりは、口にする事で認めたくないという抵抗のように感じられた。
でもじっと視線を逸らさずに見つめてくる私の視線を前に、黙り込むことはできなかったようだ。
少なからず、自分が私を今回の誘拐騒動に巻き込んでしまったという後ろめたさも、彼の口を割らせた原因の一つかもしれない。
「……私には理解できないが。……お前は、兄上にとって大切な人だろう」
思いがけない言葉に、つい目を丸くしてしまった。そんな私をよそに、ラシェット様の言葉は続く。
「お前が辱められたり、傷つけられるようなことがあれば、兄上が悲しまれる」
「まあ……」
たっぷり十秒も黙り込んだ後、じわじわと私の胸の内に込み上げてくるものは、純粋な安堵だった。
私の為ではなく、アストロード様の為だと言う事なのであれば、納得できる。
彼の中では私を嫌い排除したいと思う気持ち以上に、兄を慕い、その思いを慮る気持ちの方が強いということだ。
誰彼構わずに振りまくような博愛主義的な思考より、はっきりと目的があっての行動の方が私には信用出来て、理解しやすい。
突然くすくすと笑い出した私の声に、逆にラシェット様は驚いたようだ。無理もない、彼にしてみれば笑われる理由など何処にもない。
何故笑うのか、馬鹿にしているのかと、そう感じたとしても仕方ない。もちろん、私には彼を馬鹿にするつもりも、嘲笑しているつもりもない。
ただ純粋に、おかしかっただけだ。
「何故笑う」
「申し訳ありません、決して殿下を侮辱しているわけではございません。お優しい方だと、そう思っただけです」
「やっぱり馬鹿にしているのか」
「いいえ、とんでもない。お心遣い、感謝いたします。ですが、どうかこれ以上ご自身を危険にさらすような真似はお止め下さい。私はアストロード様にとって替えの利く存在ですが、あなたは違うのですから」
今度、目を丸くして一瞬言葉を詰まらせるのはラシェット様の方だった。
私の言う言葉の意味が理解できない、とそう言わんばかりだ。
「……それはどういう意味だ」
やはりたっぷりと沈黙した後で、怪訝そうに彼が尋ねてくる。でも私は、それ以上答えることはせずに、にっこりと微笑んで返す。
答えるつもりはないと言わんばかりの私の微笑に、ラシェット様はなおも言葉を重ねようと口を開き掛けたけれど、結局はそれ以上、その話題には触れなかった。
きっと問い掛けても私がまともに答えようとしないだろうと、察したのだ。
再び視線を前へと戻し、深く息を吐いた彼がぽつりと呟くように口を開いたのは、どれほどの時間が過ぎてからだろう。
きっと大した時間は過ぎていない。
それでも互いの微かな呼吸や身じろぎする衣擦れの音、ガタガタと外を吹き抜ける風が古い建物を揺らし軋む音程度しか聞こえてこない、静まり返った空気の中では、この沈黙の時間が何倍にも感じてしまう。
この沈黙に彼の方が黙っていられなくなったのかもしれない。
「……随分、落ち着いているな」
その声は事実だけを告げているようにも、内心の驚きを堪えているようにも聞こえた。
私が再び彼に目を向けると、彼もまたこちらを見ている。
こんな状況でもなければ、彼とこんな間近で互いに言葉を交わす事など、きっとなかっただろうと思うと、なんだか少しだけ感慨深い気がした。