9話
ラシェット様と婚約してから、私は彼の婚約者として王宮に部屋を与えられた。彼の私室に近い客室だ。
それを聞いた時、ラシェット様は驚いていたから、きっとそう手配したのはアストロード様なのだろう。
つまり昼も夜も区別なく、何かあった時には私に王子を守れと言う意味だ。私としては、最初からそのつもりで話を進める予定だったので異論はないが、当然厳しい顔をしたのはクラウスであり、ラシェット様本人でもある。
だけどやっぱり彼らは否とは言えない。
ご不満でしょうけど、しばらくは我慢して頂戴ねと内心で仕事の早いアストロード様の行動に感心しながら、夜会から部屋に戻った私の元へ届けられていたのは一通の手紙だった。
差出人はオルコット伯爵。つまりラシェット様の祖父だ。
パーティ会場で目にした時から薄々感じていたけれど、やっぱり伯爵はこのまま大人しくラシェット様と私の婚約を認めるつもりはないらしい。
広げた手紙には、一度ゆっくりと会って話ができないかと言う誘いの言葉と、日時、場所が記されていた。
無視をしても良かったけれど、今の時点で余計な揉め事を起こすのも上手くない。それにたとえ今回無視したとしても、あのオルコット伯爵の様子だと、二度三度と私が応じるまで諦めないだろう。
後でごちゃごちゃとしても面倒だと、私は素直に伯爵の求めに応じて、彼の誘いを受けることにした。
呼び出された場所は翌日の午後、王宮の庭園にある東屋だ。
私が出向くと、既に東屋にはオルコット伯爵その人がいて、じっと咲き始めたばかりの薄紅色の薔薇を愛でるように見つめていた。
「ごきげんよう、オルコット伯爵様」
私が近づいてきたことには、彼はとっくに気付いていたらしい。驚いた様子もみせず、先日の夜会の時よりは少しだけ冷静な眼差しで私を振り返る。
ラシェット様の祖父と言っても、まだ五十を幾つか越えた程度だ。優雅な仕草で私を見るその姿は、娘のニーナ妃だけでなく、ラシェット様の面影も窺えるようだった。
「……本日は、突然のお招きにも関わらずお受け下さり、ありがとうございます」
「とんでもございません。ラシェット様のお祖父様のお誘いをお断りすることなど、できませんわ」
どこか含みを持たせるように答えて微笑めば、そこでオルコット伯爵は逆に苦渋を噛み締めるように、眉間に深い皺を寄せてしまった。
彼にとってとことん、私は不満のある存在らしい。無理もないけれど。
伯爵は私に東屋のベンチを勧めながら、自分は一定の距離を保ったまま先程見つめていた薔薇の傍らに立った。
言われるがまま腰を下ろし、ゆったりと背もたれに身を預ければ。
「単刀直入に伺います。この度の婚約、あなたは……いえ、王太子殿下はどのようなお考えで命じられたのでしょうか」
本当に前置きなしの単刀直入な問いに、少しだけ笑ってしまった。馬鹿にするような嘲笑ではなく、彼の声音から本心で孫を案じていることが知れる、微笑ましさからだ。
「何がそれほどおかしいのでしょうか」
でも私のそんな笑みは、オルコット伯爵には皮肉にしか見えなかったらしい。
険しい眼差しを向ける伯爵の言葉に、日頃の行いのせいだと言われればそれまでだけど、なんだか何をしても悪いようにしかとって貰えないのは少し切ない。
「いえ、他意はございません。お気に障ってしまいましたならお詫びします。身内の愛情に触れる機会があまりございませんので、つい」
すると、そこで何故か伯爵が黙り込んでしまった。そんな彼に、続けて答えた。
「王太子殿下はラシェット殿下を害そうというお考えはお持ちではございません。少なくとも、弟王子としてお守りしようとのお考えでいらっしゃいます」
「……そのお考えの中に、あなたを第四王子殿下にお預けになる、どんな意図がおありですか」
「それはどうぞ、ラシェット殿下ご本人へお尋ねください。王子殿下はもう子供ではございません。ご自身で納得し、ご自身で受け入れられたことです。そんなご自分のお考えは、ご自身でご説明できるでしょう」
本当は、私はラシェット様の護衛であり、婚約は護衛の為の手段であると説明すれば伯爵は不承不承ながらも納得できるのだろう。
でも私がラシェット様の護衛である事はアストロード様から口止めされているので、いくら伯爵相手であろうと王子は打ち明けることはできない。
そうした秘密を隠しながらも身内を納得させる手腕も、これからのラシェット様には何度でも必要になってくる。いつまでもお母様、お祖父様の手に庇護される雛鳥ではいられないのだから。
微笑みを浮かべたまま、それ以上口を噤んで答えない私を凝視し……それから伯爵は深い溜息を付くと言った。
「……私にとって、ラシェット殿下は愛する娘が産んだ、愛しい孫です。王位など大それたことを望んではおりませんが、殿下には生き抜いて頂きたい」
「お身内として、当然のお言葉かと思います」
「ですがもし、それをあなたが邪魔なさるのであれば……」
それから先を伯爵は黙り込んで続けなかったけれど嫌でも判る。小さく肩を竦め、私は続けた。つい先日、護衛騎士のクラウスにも言われたばかりだ。
「どうなさいますか? 私を消しますか?」
怯える様子も見せない私に、伯爵はどう感じただろうか。再び一瞬沈黙し、それから胸に溜まった息をゆっくり吐き出すように答えた。
「……あなたを消せば、王太子殿下のお怒りを買いましょう。……どうか、あなたが孫を傷つける存在でないことを、切に願います」
私から視線を逸らさない伯爵の目を見つめ返した。
娘が王の妃となり、子を生み、その子が育つ今までの間で、伯爵は一体何度自分の無力さを噛み締め、それでもどれほどの気持ちで出来うる限りの手を打ってきたのか、その目を見れば全てではないにしろ、何となく感じてしまうものはある。
子供や孫に何の感情も持たず、家の為、自分の為と盤上の駒程度にしか考えていない貴族も多い中で、伯爵の、娘と孫に対する愛情は疑いようがない。
ああ、そうかと納得した。身内にこんなふうに愛してくれる人がいるのであれば、ラシェット様があんなに素直に真っ直ぐ育つ理由も判る。
彼は身を盾にして自分を守ってくれる、血の繋がった身内の愛情を知っている人だ。だから自然と、他者にも心を砕き、優しさを分け与えることができるのだろう。
本当に彼が王子ではなく、伯爵家に生まれた跡取り息子などであれば、十六なんて年若い年齢で自分の生き死にを考えずとも済んだだろうに。
「ご安心くださいませ、今のところ私にはラシェット殿下を傷つけたり、陥れようと思う考えはございません」
「……」
「信じてはいただけないかもしれませんが、こう見えて、私はラシェット様を嫌ってはおりませんのよ」
そう、少なくとも。
「少なくとも、このまま儚くお亡くなりになってしまっても良いと、思わない程度には」
にっこりと笑顔を向ける私に、伯爵の反応はやはり苦い。やっぱり彼としては色々と納得できないことも多く、私を孫の側から排除したい存在である事に違いはないだろう。
それでも、排除が適わない今の状況で、少なくとも私にラシェット様を害する気持ちはないと言うだけでも、いくらか安堵はしたはずだ。
納得できるかできないかは別問題、それは今後ラシェット様本人に頑張って貰うしかない。
伯爵の言いたい事はそれで終わりだろうと、私は自ら腰を折ってお辞儀すると彼の前から辞した。
伯爵ではなく別の人物に声を掛けられたのは庭園の小道を抜け、王宮へと戻る途中でのことだ。
聞き覚えのある若い声に顔を上げれば、小道の向こうからこちらへ大股に近づいてくるのはラシェット様と、その後ろにクラウスが続いていた。