8話
「アストロードにべったりだと思ったら、次はラシェットだと? そんなに王子が好きなら俺であっても良いだろう」
そんな訴えをしてくる彼を、思わず鼻で笑い飛ばしてしまいそうになった。
王子だから、私が二人の元にいる……そんな初歩的な思い違いをしているから、私はこの人をまともに相手にする気もなくなるのだ。
「私がアストロード様をお慕いするのも、ラシェット様に寄り添うのも、お二人が王子だからではありませんわ。たとえアストロード様が奴隷でも、ラシェット様が罪人でも同じようにいたします」
「判らない事を言う。いいか、マリアン、ラシェットなど止めておけ。どうせすぐに死ぬ男だ、俺の気持ちは判っているだろう。今ならただの気の迷いだと、今回のことは忘れてやれる」
忘れてやれる、ですか。そんなことを言いながら、実際言うことに従ったって、いつまでもネチネチ言い続けるでしょうに。
だけど、この王子は本当に一体私の何を気に入って、毎度こんな事を言ってくるのだろう。特別彼と交流があったわけでもないし、好かれるようなことをした覚えもないのに。
気持ちはありがたい……のだろうけど、私にとっては面倒でしかなかった。
「先日の贈り物は、お気に召していただけました?」
贈り物と聞いて、何を思い出したのか。ほんの僅かエリック様の表情が引きつったように見えたけれど、彼は「何の事だ」と私の問いを切り捨てる。
それはそうだろう、贈り物の存在を認めれば、自分が王太子の元へ刺客を送ったことも認めることになるから。私もあえて、そんな無意味な追求を続けるつもりもない。
ただこの会話で私はあなたの味方ではないのだ、と理解して貰えたら……そう考えたのだけど、残念ながらエリック様には伝わらなかったようだ。
「そんな事よりも、俺の元へ来い。俺なら面倒になったからと、他の男に投げ与えるような真似はしない。一生面倒を見てやる」
「情熱的なお言葉ですけれど、あなた様には既にご婚約者がおありでしょう? そのようなお言葉、容易く口にされてはいけませんわ」
「お前が手に入るなら、婚約など破棄しても構わない」
「では、王位は諦めて、王族であることも捨てて、アストロード様の臣下となって下さいます?」
とたん、エリック様がその口を噤んだ。嘘でも頷かないところが、彼がある意味正直な人間であると言うことなのだろうけど、私が求めているのはそんなものではないのだ。
「……お前のことは、大切にしてやる」
「残念ですけれど、私は別に大切にして頂かなくとも良いのです。それよりも、今のご婚約者の方を大切になさいませ」
結婚前から自分の婚約者が別の女に、自分のものになるよう訴えているなど、まともな感覚を持つ女性なら到底許容できないことだ。
そのせいでエリック様の婚約者からも私は大層嫌われている。私のことを思ってくれるのなら、そちらの方をどうにかしてくれた方がよっぽど有り難い。大体、今の婚約者に愛想を尽かされ、支持者から抜けられたら困るのはエリック様本人でしょうに。
だけど私のその希望を彼は叶えてくれるつもりはなさそうだ。
「マリアン!」
「お断りします」
「何故だ!」
「だってあなたは、私を籠の鳥になさるでしょう? どこへも行けないように翼を切って、自分の手元でしか囀ることができないように囲い込む方だわ」
「それの何が悪い!」
「鳥は、飛べなくなったら終わりです。そうなるくらいなら、私はいっそ殺して欲しい」
瞬間、エリック様が息を飲むように沈黙した。彼の眉間にきつく皺が寄る。
きっと彼は、私の言うことを半分も理解できていない。そして理解できないことに大きな苛立ちを感じている。
私とアストロード様のことが判らない、と言うのはラシェット様も同じだけれど、ラシェット様がエリック様と大きく違うのは、判らないと呆れながらも、いつも最後には引いてくれることだろうか。
だけどエリック様は引いてくれない。無理矢理にでも、自分に理解できる形に当てはめようとする。それが私が彼を受け入れられない、一番大きな理由だった。
「……アストロードは、いつかお前の羽根を引き千切って息の根を止めるぞ!」
「そうかもしれませんね。それならそれで、構いません、閉じ込められるよりは使い潰される方がずっといい」
「マリアン……!」
「それに、お忘れにならないで下さいませ。私は今、ラシェット様の婚約者です。周りが何を言おうと、どう思われようと、それは変わらない事実ですから。たとえ王子であろうと、他者の婚約者に手を伸ばす事は許されませんわ」
ギリッと音がしそうな勢いで、エリック様が歯を噛み締める。数秒黙り込んだ彼は、唸るように口を開いた。
「ではラシェットを殺し、お前を奪うだけだ」
つい先程、アストロード様への殺害の意志は隠したくせに、今はラシェット様相手にそんなことを言う。腹芸ができない人だ、ある意味そんな真っ直ぐさはラシェット様と似ているような気もする。
もっとも、ラシェット様よりもずっと融通の利かない頑固な真っ直ぐさだろうけど。
「そうですか。では私はラシェット様のお側で、彼の盾になりましょう。でも、王族殺しなんて大罪を女のために行うなんて甘いお考えは、早い内に捨てた方がよろしいですよ。いつかあなたの足枷になります」
そこで再びエリック様が沈黙し……絞り出すような声を洩らすまでにはどれほどの時間がかかっただろう?
「……なぜ、お前は俺の気持ちを理解してくれようとしない」
どこか途方に暮れた子供のような印象がした。欲しい欲しいと訴えて、でも手に入らなくて、どうしたらいいのか判らない、と言わんばかりの。
でもエリック様は私が彼を理解しようとしないと言うけれど、そうじゃないでしょう。
「あなたが、私を理解しようとしてくださらないからです」
その時、背後でカタンと小さな物音がした。振り返ればそこにいるのはグラスを手にしたラシェット様だ。一体いつからそこにいたのか、なんて疑問は抱かない。少し前から彼が私達の様子を窺っていたことには気付いていたから。
でもエリック様は全く気付いていなかったみたいだ。ハッと顔を強ばらせると、一体弟王子にどこまで聞かれていたのか疑う眼差しを向け、そのまま何も言わずに身を翻して立ち去ってしまう。
兄として……それも互いに命のやりとりをするような冷え切った関係の弟に、自分の決して誇ることのできない執着心を知られたのは、エリック様にとっては屈辱だろう。
無言なのはラシェット様も同じだ。何も言わず、私の目前にグラスを差し出してくるので、私も何も答えないままそれを受け取り、口を付ける。
ラシェット様が持ってきてくれたのは、果実水だった。甘すぎず、酸っぱすぎず、サッパリした味わいが口の中に広がっていく。見ればご自分も同じものを口にしている。
そのまま無言でお互いに果実水を口にしながら、どれほどが過ぎた頃か。
「……お前、いつからエリック兄上とあんなことになっていた?」
いつもよりも憮然とした口調が、彼が何も知らなかったことを示している。無理もない、アストロード様の時と違って私も特別第二王子の求愛をひけらかすようなことはしなかったし、エリック様もさすがに人前では口を噤んでいたから。
でも、それは表に出していなかっただけだ。
「先に申し上げておきますが、私から誘惑したわけではありませんよ? 気付いた時にはあちらの方から言い寄られるようになったんです」
「どうして、兄上も、エリック兄上もお前を……」
「さあ、どうしてでしょう。変わり者がお好きなのではありませんか? でも、あなただって兄君達のことは言えないと思います」
「何?」
彼は心底意味が判らない、と言わんばかりだ。そんなラシェット様に、私はにっこり微笑みながら、一歩身体を近付けると下から覗き込むように彼の顔を見上げた。
そして思わずラシェット様が僅かに顎を引いた時。
「以前ほど、私をお嫌いではないでしょう? 少なくとも視界にも入れたくない、と言う程ではない」
「なっ! そんなこと、あるわけないだろう!」
「本当ですか? 案外、今回の婚約も乗り気でいらっしゃるのではありません?」
「自惚れるな、誰がお前なんかと……!」
「あら、ひどい。でも今のラシェット様は、私を邪険にはできませんよね? だったら、もっと優しくしてくださらないと。でないと私、アストロード様に泣きついてしまうかもしれませんよ?」
「……お前、遊んでいるだろう」
恨めしげな彼の声に、はいともいいえとも答えず、私はただ広げた扇で口元を隠しながら、くすくすと笑った。
頭が回る一面を見せる事もあれば、あっさりとこちらの言葉に誘導されて話題を煙に巻かれても気付かない事もあるラシェット様は、やっぱりこの国の王子としては、素直すぎて優しすぎる。でも、こんな人も今の王家には必要だ。
いつまで彼の側にいる事になるのかは判らない。数日か、数ヶ月か、一年か、それ以上か。
でも私がこの役目を任されている間は、可能な限りこの人を守ろう。
それをアストロード様もお望みだし、私自身、この王子に少しずつ興味を抱くようになっていた。