7話
私がラシェット様と共に夜会へ出席したのは、それから三日後のことだった。
その間にアストロード様や私の父を初め、他必要な根回しは全て終わっている。ニーナ妃やオルコット伯爵へはラシェット様の方から報告して、なんとか理解と許可を貰ったそうだ。
つまり今夜の夜会は私達の婚約のお披露目でもある。そしてなんと正式に婚約式まで後日行うらしい。
婚約式は司祭立ち会いの下、将来の結婚を誓約する文書に互いの名を記す正式な手続きだ。
てっきり婚約とは言っても口だけのことだろうと思っていたから、まさかラシェット様がそこまできちんと婚約の形を取るとは思っていなかった。
「いいんですか、本当に?」
「何がだ」
「こんなにきちんと、婚約して。正式に手続きを踏んだら、そう簡単に撤回はできなくなりますよ?」
「今更怖じ気付いたか」
ふん、とラシェット様が鼻で笑う。どうやら私のこの問いは、私自身が戸惑い狼狽えた為だと判断したらしい。
ここのところ私に振り回されている自覚があるラシェット様だから、初めて私を戸惑わせることができたと思ったのだろう。こう言うところがまだまだ少年らしい。
そのまま優越感を味わせてあげたいけど、残念ながら負けず嫌いなのは私も同じなのだ。
「いえ、別に私はよろしいのですけど。ラシェット様の方が難しくなるのでは? 私から逃げるのが」
「逃げたりなどするか!」
逃げる、という言葉に敏感に反応した王子は、キッと私を睨むように見返す。そんなラシェット様に、意図的に艶然と微笑むと手を掛けていた彼の腕を更に引き寄せ、その肩にそっと頬を押し当てた。
「……っ……」
びくっと彼の肩が、それこそ逃げ出しそうな程の強さで固くなる。でも逃げない、逃げたら自分が負けになると、そんな強迫観念を感じているようだった。
ぎゅっと口元を引き結び、まるで戦いにでも挑むかのような固い表情をしているラシェット様に、そっと囁く。
「駄目ですよ、少しは笑ってください。怪しまれますよ」
「……別に、政略で婚約するんだ。好き合った者同士のフリなど不要だろう」
「あら。王太子殿下から下賜された女を粗雑に扱えば、謀反の意志ありと受け止められるかもしれませんけど?」
再びラシェット様の睨む眼差しが私を見る。でもこの指摘は彼も否定できなかったようで、不承不承ながらもその口元に笑みを刻む努力はしてみたようだった。
だけど、やっぱり無理矢理笑おうとすると口元がぴくぴくと引きつる。心底不本意と言わんばかりな王子の姿に、小さく噴き出すように笑ってしまった。
「笑うな!」
「だって、心から不本意だ、って言わんばかりなんですもの。……ええ、済みません、私が少し意地悪でした。普段通りで結構ですよ、考えてみれば婚約したからってラシェット様が私に愛想良く微笑み掛けるようなら、その方が不自然ですものね」
「お前な……!」
ギリギリと奥歯を噛み締める音が聞こえてきそうだ。でも、これで充分だ。
端から見れば婚約した男女が、仲睦まじく談笑しながら寄り添っているように見えるだろう。その証拠に、元々私達が肩を並べて現れた姿にざわついていた会場は、今のこのやりとりで更に大きなざわめきを生み出している。
誰もが皆、信じられないものでも目にしたかのような驚愕に満ちた眼差しをしていた。
唯一普段と変わりなく、微笑すら浮かべているのはアストロード様だけだ。そのアストロード様からは、つい先程直接、婚約を祝うお言葉を賜っている。
「私の代わりに、マリーを大切にしてやってくれ」
と、そんなお言葉も一緒に。
ラシェット様は兄王子のその言葉に、無言で深く頭を下げることで答えたけれど、少し離れた場所からこのやりとりを見つめていたオルコット伯爵や、その親族達は怒りを顔に出さないようにするのがやっと、と言った有様のように見えた。
無理もない、伯爵は私がラシェット様の護衛だと知らない。ニーナ妃も知らない。
そんな伯爵からすれば大切な可愛い孫が、兄王子が使い古した、悪評名高い女を下賜されているのだ。その上、自分の代わりに、なんて王太子の言葉は馬鹿にされているとしか思えないだろう。
それでも逆らえないだろうと、足元を見られているような気分になるに違いない。
でも冷静に考えれば、ラシェット様にとって私との婚約は全てがマイナスなことばかりではないのだ。
まずアストロード様との繋がりが持てる。これが一番大きい。それ以外にも、我が侯爵家が第四王子の後ろに付くことになる。
それをアストロード様が私の父に命じられた。自分の護衛騎士をラシェット様に回すより、我が侯爵家に守らせた方が安心だからという理由で。
建前としても婚約によって我がブリックス家が第四王子に力を添えることは自然だ。
それにたとえ王妃や公爵家の手の掛かる王太子の護衛騎士達に第四王子を守れと命じても、その裏でアストロード様の目をすり抜けて、王妃や公爵が守るフリをして殺せと別の命令を出すとも限らないし、ラシェット様の周囲で見聞きしたことのすべての情報が彼らに筒抜けになる、それは上手くない。
その点我が侯爵家はあくまで独自で動くことができる。ブリックス侯爵家は通常の貴族家に比べ立ち位置が特殊で、過去の功績から、代々王によりその身分の保障と行動の自由を許されているからだ。さしもの王妃や公爵家も、理由なく理不尽な圧力を加えることは難しい。
我が家が謀反や国家転覆を狙っていると疑われればまた話は別だろうけれど、そんな疑いを易々と掛けられるほど、無能な父ではない。
父は、アストロード様の命令であればそれがどんな内容であれ従う。
たとえ自害や、自分の手で妻子を殺せと命じられても逆らわないだろう。
そんな父だから、今回の命令もきっと何一つ理由を問うことなく、頷いたに違いない。
結果的に王太子のお墨付きで娘を介して第四王子を守る、という大義名分を手に入れた我が侯爵家の存在で、今後ラシェット様を狙う暗殺の手は多少鈍るはずだ。
命を守ると言う点においては、ラシェット様にとっては我が家は充分助けになる。でもそのせいで評判の悪い娘を娶らねばならない。
社交界では一体どんな取引があったのかと興味を持つ者もいれば、屈辱的な条件を呑まねばならない立場の弱いラシェット様を哀れむ者もいるだろう。
でもその中で一番純粋に腹立たしい感情を抱いたのは、実はオルコット伯爵以上に、今こちらを睨むような眼差しで見つめてきている、第二王子エリック様ではないかと思えた。
そんなエリック様が私に接近してきたのは、婚約を発表した夜会が、もう終わりに近づき、あれやこれやと好奇心丸出しで私とラシェット様とのことに探りを入れてくる貴族達をあしらうのに疲れ、バルコニーへ避難した後のことだ。
ちなみにこの時ラシェット様は、私の希望を聞いてドリンクを取りに行ってくれている。冷たい飲み物が欲しい、とわざとらしくしなを作ってお願いしたら、気持ち悪いと、もの凄く嫌そうな顔をされたけど……それでも、不承不承ながらもお願いを聞いてくれる彼はやっぱり優しい王子だ。
こんなお願いをして聞いて貰えるのも限られた期間だけだから、この際堪能させてもらおうと考えながら、私は後ろを振り返らずに問う。
「いつまで、そちらにいらっしゃるんですか?」
数秒の間の後、厚いカーテンの影からエリック様が姿を見せる。
その顔立ちは、繊細な美貌を持つアストロード様にもラシェット様にも似ていない、全体的に大柄で骨の太い騎士のような第二王子だった。
その外見に違わず、エリック様は相当剣が使えると聞く。多分私も、真正面から馬鹿正直にぶつかったら、きっと敵わない。
夜会だというのに、彼の腰でガシャリと重たく音を立てて存在を主張する剣が、華やかな夜会に水を差しているように見えた。
「お前はひどい女だ」
開口一番、エリック様はそんなことを言った。大股に近づいてくると、私を捕らえるようにその手を伸ばす……でも、私は捕まらない。するりと身を交わすと、一定の距離を保ったまま、それ以上エリック様に間を詰めさせることはしなかった。
その埋められない距離に、エリック様の顔に渋面が浮かぶ。