2話
「……殿下」
控えめに掛けた声は、車輪の音と馬車の振動音でかき消されてしまいそうだったけれど、何とか相手に届いたらしい。
「怪我をしてしまいます。座席の下に、座りましょう」
私の言う座席の下とは、向き合った馬車の座席と座席の間の僅かな床になっているスペースのことだ。床と呼ぶのも不似合いな程に小さなスペースだけど、今は逆にそれが有効だ。
座席がない分、振動が直接身体に響いてくるのでそれが辛いけど、二人で固まって座ればお互いの身体がストッパーになって座席の間に挟まれ、多少の揺れで身体があちこちに吹き飛ばされることはないだろう。
幸い私と彼の体格なら、何とか座れるはず。
床には座席の背もたれ部分のクッションや、私が身体に巻き付けていたブランケットを敷けばいくらか振動も緩和されるはずだ。
振動の合間を縫うように、ごそごそと動き、床に必要なものを下ろす。その私の動きを、音と気配、そしてようやく暗闇に慣れてきた彼の目がうっすらと捉えたらしい。
「いや、それは……」
彼は再び何かを言いかけたものの、何度目かの強い衝撃に結局口を噤んだ。きっと反対しようとしても、それ以上に有効な案が思いつかなかったと言う理由もあると思う。
結局彼も激しく揺れる馬車の中で振り回される現状に辟易していたのだ。激しく揺れる馬車の中、私達は無言のままどうにか場所を作り、手探りで床に座り込んだ。
私の手が彼の腕に触れた時、その身体が強張るのがはっきりと判った。
狭いスペースでは互いに身を寄せなければならないけれど、彼の本意としてはやはり気に入らない女には必要以上に触れたくない、という思いがあるのだと思う。
当然のことだと思うし、仕方ないことだと思う。
彼にとっては不本意だろうが……やはり仕方ない。
「ご不快でしょうが、しばらくご容赦下さい」
馬車が揺れる度、私達の身体がぶつかるように触れ合って僅かに息を詰める気配が伝わってくる。
身体の強ばりを解けというのは無理だろう、お互いに。揺れる振動の中では身体を突っ張らねばならないし、必然的に強張ってしまう。それでも私を彼が無礼者と振り払うことはしないでいてくれている。
それだけでも充分有り難かった。こんな場所で抵抗されたり反抗されては余計に手間になる。
快適とは口が裂けても言えないけど座席に座っているよりは、身体の位置は落ち着いた。
彼の身体も、二人で狭い場所に座り込むには丁度良い。男性とは言え、彼はまだ十代半ばの少年。
多分同じ年頃の少年よりも、若干小柄なのだろう。触れてみれば骨格はさすがにしっかりしていると判るものの、平均女性よりも少し高めの身長を持つ私と身長は今のところ、それほど違いはない。
よって、お互いの顔の位置がほぼ同じ高さにあるのが判る。多分、こんな非常事態でもない限りは、一生触れる事などなかった人だし、触れさせることを許さなかった人だ。
そう思うと少しばかり不思議な気分になった。
先ほど私が彼を「殿下」と呼んだことからも判るように、この少年は王子だ。
名をラシェット様。
残念ながら、彼は王太子ではない。
この王子のことを説明するには、まずこの国の王家の話をしなくてはならないだろう。
我がアグレア王国には王子が四人いる。
正妃……つまり王妃の子が、現在の王太子であり、第一王子であるアストロード王子だ。母親は公爵家令嬢で、国の中で最も力の強い最上級貴族家だ。
第二王子にエリック様。母親は侯爵令嬢。やはり強い交友関係と影響力を持つ。
第三王子はジョフリー様。母親は小国とはいえ他国の王家の血を引いているので、決して粗末に扱える存在ではない。
そして最後に、第四王子ラシェット様で母親の実家の名はオルコット伯爵家となるわけだ。
この通り、四人の王子それぞれが、母親が違う。
このように王子が四人、それも全て腹違いとなれば、必然的に王位継承権争いで国は揺れそうなものだけど、現在のところさして大きく問題とされていないのは、王が早い内に王太子をアストロード様に定めたことと、彼が王妃の子であるからだろう。
また王太子自身が、非常に聡明な王子であり、彼の支持者が多い事も理由の一つになるかもしれない。
身分的にも立場的にも否を唱えることのできない条件を持つ長子を、王太子に立てることはごく自然な成り行きだと、私も思う。
……だけど、それももちろん表向きの話だ。
表では王太子として彼を立てながら、裏ではまことしやかにその王太子の座を奪おうと、虎視眈々と王子達が互いの命や失脚を狙っているというのは、貴族達の間では既に周知の事実。
もちろん次期王位を意識しているのは、四人の王子や貴族たちだけでなく、彼らの母である妃達やその実家も同様だ。
そうした状況であるから、王子達の力関係はどれだけの味方や後ろ盾を手に入れるかで大きく変わってくる。
どれほど本人や周囲が王位を望もうと、そこに手を伸ばすための力が足りなければ話にならない。そして宮廷での力は、そのまま貴族や民衆からの支持であり、優れた手駒を指す。
現在最も多くの支持を受けているのは、やはり王太子アストロード様だ。
王自らの立太子であるため、当然彼の一番大きな後ろ盾は王その人。また、実母である王妃の実家の影響力も強い。
それに比べ他三人の王子達は、アストロード様より劣る。彼らがこの現状を覆す為には、正攻法では無理だろう。
しかし、全く可能性がないというわけでもないところが、王位継承権争いが混迷化する原因である。
このままアストロード様が王位を継ぐ前に失脚すれば。あるいは子を為す前に命を落とせば……次の王の座は、残り三人の王子のいずれかに回ってくる。
また、王位を争うライバルはできるだけ少ない方が良い。
そういったことから、幼い頃から四人の王子達の間では、本人、あるいはその関係者と思われる者達による、暗殺者や刺客を差し向けられたり、罠が張り巡らされていることは珍しくない。
そんな関係であるから、当人同士の間でも親しい付き合いなど存在しない。半分だけとはいえ血の繋がった兄弟……けれど、どんな他人より遠い他人。
それが王子達の関係でもあった。
当然、彼らの力関係には、今後王子妃とする令嬢の実家の力も大きく影響してくる。
四人の王子達はいずれも独身だけど、上の王子が二十五歳で始まり、下の王子は十六歳と、いつ縁談が出てもおかしくはない年齢だ。
実際、第二、第三王子は既に有力貴族との間で婚約が成立しているし、第四王子に関しても同じだろう。
王子達は、近い将来迎える自分の妃の実家の力も交えて、王位継承権の奪い合いと言う泥試合が激化するのは目に見えていた。
でも不思議と、一番年長であり、一番有利な立場であるはずの第一王子の婚約話はなかなか聞こえてこない。とはいえ、全く相手がいないと言う訳でも、もちろんない……と言うのが世間の評判だ。
未だ婚約には至っていないものの、アストロード様には最も有力な婚約者候補、と呼ばれる令嬢がいる。まだ二人が幼い頃からの付き合いであり、いわゆる幼馴染みと呼んでも良い、非常に親しい関係の令嬢だ。
何から何まで繊細なガラス細工で仕上げられた芸術品とすら言われる美貌を誇る、アストロード様の隣に立っても全く見劣りしない美しさと華やかさを持つその令嬢の名は、マリアン・ブリックス。
そう、私のことだ。
自分で自分を美しいとか、華やかだとか言うのもどうかと思うけれど、これは私が言い出したことではない。だけど否定もしない。
自惚れとかそういうことではなく、私自身が自分の美貌を磨くよう、そして華やかに見えるよう、たゆまぬ努力を続けている為だ。いくら原石の質が良くとも磨かなければただの石ころ。
令嬢の美しさは、それだけで社交界では有効な武器になる。私が自分を磨くのは、単純に自分の自尊心もあるけれど、それ以上に自分という存在を社交界でより印象強く主張する武器とするため。
今間違いなく、アストロード様の周囲で彼に一番近い令嬢は誰かというと、それは私になるだろう。
年齢も今年で十九歳と彼に釣合い、身分としても不足はない。
本来であればアストロード様さえ望めば、私はすぐにでも王太子の婚約者という地位を手に入れることができる。
……けれど。
王太子妃として最も近い場所にいながら、私はその座を未だ手に入れることはできていない。その理由は私自身にある……少なくとも周囲ではそう言われている。
ちまたで言う私は、悪女なのだそうだ。
黄金の髪と紫水晶の瞳の美しい姿で人心を乱して誘惑し、関わった者達を堕落させ、数多の男たちの心を奪い、その美貌で引き寄せて甘い蜜をちらつかせておきながら、決して男たちの愛を受け入れることはない。
彼女に惑わされ、身を持ち崩した男の数は数知れず。とことんまで貢がせ、利用し尽くしてから破滅に導き、あっさりと捨てる。
それがマリアン・ブリックス侯爵令嬢の正体だと。
どれほど幼馴染みとして親しくとも、そんな令嬢を王太子妃、そしてゆくゆくは王妃に据えることなどできない。それがアストロード様も判っているから、踏みとどまっているのだと。