1話
ガラガラガラ、と馬車の車輪がけたたましい音を立てるようになってどれほどの時間が過ぎただろうか。
馬車は明らかに通常とは違う速度で街道を駆け抜けている。
けれど私とアストロード様がお互いに座席に向かい合わせで、さして身体が揺すられる事もなく座っていられるのは、多少の振動程度では車内にそれほど大きな影響を与えないよう工夫された、特別製の王家の馬車に身を委ねているからだ。
王族に生まれたからには、暗殺や誘拐の危険に晒されるのは当たり前。それが王太子ともなればなおのこと、常に危険が付きまとう。
それが城の内であろうと外であろうとお構いなしだ。
状況は先日のラシェット様誘拐事件と似ているけれど、あの時と全く違うのは、王太子アストロード様に付けられた護衛の数と……そして、追ってくる刺客の数だろう。
こう言っては悪いけれど、ラシェット様とアストロード様ではその立場がまるで違う。先日がお遊びのようなものならば、今夜は真剣勝負、と言ったところか。
ほんの少し領地視察に出るだけで、この有様だ。出来ればもっと穏やかに旅路を楽しみたいけれど、なかなか難しいらしい。
「さっきより、随分近づいてきているみたいだね」
「そうですね。今夜はあちらも随分本気のようです」
追ってくる刺客が狙っているのはご自分の命だというのに、アストロード様の悠々とした態度は普段と全く変わらない。
彼の事を知らぬ人が目にすれば、本当に自分の命が危ういことを自覚しているのかと激しい疑問を抱きそうなものだけれど、同席している私に言わせればそうした疑問そのものが無駄だと思う。
だって、アストロード様は……ご自分の命の危険なんて、欠片も感じていないのだから。
「このままだと王都に入る前に、追いつかれそうかな?」
「かもしれません」
「こんな時間に、都の人々を騒々しい音で叩き起こしたくはないよね」
「そうですね」
交わされる会話も、まるで他人事の様だ。きっと本音は、誰が叩き起こされようと、どんな騒ぎになろうと、アストロード様自身は全く気にしないに違いない。
ただ本音はどうであれ、建前としてはやはり、王太子が暗殺者に追跡されて騒ぎになると言うのは都合が悪い。
世間でのアストロード様の評判は、一つの綻びもない完璧な王太子であり……これから先も、そうで在り続けなくてはならないのだから。
私は顔を上げると、車内の壁際に下がっている飾り紐に手を掛け、引いた。そうすることで御者席へ合図が伝わり、指示に従って徐々に馬車がその速度を緩め始める。
「少し、こちらでお待ち頂けますか。片付けて参ります」
飾り紐から手を離し、代わりに私が手にしたのは一本の剣だ。レイピアと呼ばれる細い刃幅の剣は、突き刺すことを目的とした剣であり、私の愛用の武器でもあった。
細い刀身の為、長さの割には軽く、突き刺す為に必要な力も軽く済む。その分剣を打ち合わせたり、斬り合うことには全く向いていないけれど、元々女の力で真正面から男達と刃をぶつける戦い方など自殺行為でしかない。
私の手に収まるレイピアを見つめながら、アストロード様はその口元に穏やかな笑みを浮かべてこう言った。
「いいよ。でもマリー、一つだけ命令だ」
「なんでしょう」
「君の肌に、ただ一筋の傷も付けてはならないよ」
「まあ。難しいことを仰いますね。お約束は出来ませんよ? あちらも相応に腕に覚えのある者達でしょうから。一応、出来るだけ、努力はしますが」
「そうして。君の身体に傷が残るなんて許せないからね」
アストロード様はそう言うけれど、もうとっくに私の身体の至る所には大小様々な傷跡がある。彼が嫌がるので、傷を負う度に丁寧に治療して、極力傷跡にならないよう努力している為に近づいて見つめなければ判らない程度に目立たないと言うだけで、傷跡が残る残らないなど手遅れだ。
それに傷を負う事をその度気にしていたら、私は殆ど何もすることは出来なくなる。
それはアストロード様も承知している。それでも嫌だと言うのは、まあ彼なりの社交辞令のようなものだろう。
そんな会話をしている間に、やがて馬車は止まった。
「では、行って参ります」
「うん、行ってらっしゃい」
突然追っていた馬車が停車したことで、追跡者達は何かの罠かと警戒したらしい。私がゆっくりと外へ降りれば、まるで幽霊でも見るかのような眼差しを向けて寄越した。
確かに彼らからすれば、こんな追い詰められた状況でドレス姿の侯爵令嬢が、微笑みすら浮かべて馬車から降りてくるなど異常以外の何者でもないだろう。
しかも手にはレイピアを握っているのだから。一体そんな物で何をするつもりだと言わんばかりな彼らに、私は笑みをより深く、艶やかな物に変化させると口を開いた。
「おつとめご苦労様です。でも、あなたたちの役目を遂行させるわけにはいかないの。残念だけど、許してちょうだいね」
言うなり、まず一番手前にいた男の胸へ飛び込んだ。ぎょっと彼が身を引くよりも、手にしたレイピアでその胸を貫く方が早い。
「がっ……!!」
男が我が身に何が起こったのかを理解出来ずに目を見開く。すかさず後ろへ下がり、貫かれた筋肉が締まるより先に胸からレイピアを引き抜いた。
とたん溢れ出るのは真っ赤な鮮血だ。噴水のように噴き出した液体が、私の肌を汚し、ドレスの裾に赤い染みを作る。
どんな人間でも心臓を貫かれれば生きていることは出来ない。どっと地面に倒れ込む男に見向きもせず、私は視線だけでその場にいる残りの人数を確認した。
周囲を取り囲んでいるのは、三人。どうやらアストロード様の護衛騎士は適度な数を削ってくれたらしい。この程度の人数なら、私一人でも片付けられるだろう。
改めてレイピアを構えた時、私を見る刺客達の眼差しがこれまでと違う物に変わった。外見通りの令嬢としてではなく、自分達の邪魔をする敵として認定されたのだ。
こうなると相手も私の命を取ることに躊躇うことはない。生きるためには私は目の前の男達を殺さねばならないし、男達も自分が生き抜くためには私を殺して、馬車の中のアストロード様の息の根も止めなくてはならない。
王子様を守る。状況としてはやっぱり先日のラシェット様と同じはずなのに、漂う緊迫感はその時の比ではなかった。
まあそれも当然だろう。あの時の刺客は王子を殺すことが目的ではなかったし……私も、血を流す行為は避けたから。
あの時だって、別に殺してしまっても良かった。むしろ追跡者の存在を消すと言う意味では、息の根を止めた方がより安全だっただろう。
でも私はそうはしなかった……あの年若い王子の前で人を殺すのは躊躇われた、と言うのが一番の理由だ。
どうしてだろう。そんな疑問が答えを見つけるよりも先に、今の私はまた一人の男の命を奪い取る。
「貴様、何者だ……!」
通常ではあり得ない光景にたまりかねたように、男の一人がそんなことを訊いてくるけれど、その問いに笑ってしまった。
「何者? それはこちらが訊くことではないかしら?」
先に襲ってきたのはそちらの方だ。自分達の予想外のことがあったからと、人を問い質す権利などない。何者かと問う立場にあるのは、やはりこちらの方で……でも今更誰の命令によるものか、など訊く気にもならなかった。
だってあまりにも判りきっているから。
王太子アストロード様を狙う刺客は数多くあれど、元々の依頼者は二人に絞られる。第二王子と、第三王子……全てはその王子達の一派から始まっているのだと。
そしてその第二王子と第三王子の二人が手を組んだようだ、という情報も既に握っている。
これまではバラバラに自分達の意志で動いていたようだけれど、ひとまずは目の前の邪魔者を共に排除することを選んだようだ。状況としては何も不思議なことではない。
むしろ今までそうしなかったのが不思議なくらいだ。第二王子も第三王子も、お互いに反目し合う事に熱心で、一瞬握手を交わすことすら嫌がるような関係だったから。
でも逆を言えば、二人の王子達がいよいよ本気で王座を奪いにきたと言える。
これから先争いはこれまで以上に激化、そして露骨になるだろう。そうなったのも、つい先日現国王が公の場で体調を崩し、倒れたせいだ。
もちろん今すぐにどうにかなるような状況ではなく、一応は回復されて現状を維持されているようだけれど……内々に手に入れた情報によると、その体調は決して楽観できるものではないらしい。
とうとう目の前に近づいてきた王位継承の時期が、四人の王子達を中心にこの国を混乱の中に叩き込もうとしている。
とはいえ、国が割れる様な争いなど愚か極まりない。いかに犠牲と被害を少なく抑え、速やかに世代交代に持ち込めるか……それがここ最近の私達の目的であった。