7話
ほんの僅かだけ、アデーレ様の表情が動いた。
それは周囲から恥じ入るような表情に見えたけれど、実際は腹の中が煮えくりかえっているに違いない。
でも彼女はその怒りを隠して、ラシェット様に向かって優雅にお辞儀する。
「……殿下の仰る通りです。私のせいで、折角の夜会の場をお騒がせしてしまい、大変申し訳ございません。皆の事も、どうぞお許し下さい……私の事を思うあまり、思い詰めてしまった結果なのです」
そしてアデーレ様は私の方へも目を向ける。
「マリアン様も、申し訳ございませんでした。何か誤解があったようです。皆には私の方からもきちんとお話させて頂きますので、どうぞご容赦下さい」
形勢不利とみるや、この変わり身の早さは素晴らしいと思う。
本心を隠したまま、本当に申し訳なさそうに眉を下げ、瞳を潤ませる様は舞台女優も顔負けではないだろうか。
私もまた、彼女に向かってにっこりと微笑み返すと頷いた。
「いいえ、気にしておりませんわ。どうぞ皆様方もお気になさらず」
その時、すっかり白けてしまった場の雰囲気を補うように、楽団達の奏でる音楽が会場内に広がり始める。
流れる音楽は、アップテンポのワルツ曲。どこかぴょんぴょん跳ねる仔犬を連想させるような可愛らしくも明るい音楽は、明らかにこの場を意識したもののように思う。
「どうぞ、お相手を」
ラシェット様が差し出した手を、アデーレ様も笑顔で受けた。
同じ年頃の二人のダンスは、アストロード様達のような熟練した雰囲気はないけれど、その分初々しい雰囲気がして、強張った空気を和らげ始める。
そのアデーレ様とのダンスを終えた後、ラシェット様が手を差し出したのは私。
こうやって問題の渦中となった二人の令嬢を相手にすることで、この場を取りなし、なおかつアデーレ様とのダンスを先に優先させたことで、彼女の面目を保ったと言える。
可哀想なのは取り巻きのご令嬢達の方だけれど、そちらの方も王子の行動を目にして気を利かせた貴族青年達がダンスに誘い、その相手をしてくれたことでどうやら、ぎくしゃくとした雰囲気を打ち消すことには成功したようだった。
「お相手頂けますか、レディ・マリアン」
「ええ、もちろん喜んで。お誘いありがとうございます」
差し出された手を拒絶する理由はない。
大体そんなことをすれば、折角取りなしてくれたラシェット様の顔に泥を塗る事になる。
笑顔で彼の手を取ると、その手に誘われるように音楽に合わせ、ゆっくりとステップを踏み始めた。
こんな風に彼に近づくのは、あの誘拐事件依頼だし……ラシェット様とダンスを踊るのは、これが初めて。きっとこんな事でもない限り、彼にダンスを誘われるなんてないだろうと思うと、なんだか感慨深い気分になる。
さすが王子様、ダンスがお上手ですね。
アストロード様と違い、身長差もあまりないので、相手の顔が良く見えて良い。
微笑む私だけど、ダンスの間、ラシェット様は一言も口を開かなかった。
周囲に不審がられない程度には彼も微笑みを浮かべたまま、でもその身体に僅かな力が入っているのが判る。
まるで話し掛けるな、と言わんばかりの雰囲気に私も口を噤む。
こんな有様だけれど、一応、私は彼に助けられた、ということになるのかしら。
きっとそうなのだろう。
解決方法は幾つか存在していても、多分、この場で一番穏便な解決の仕方をしただろうと思う。
だけど何故、彼は私を助けるの?
私の事など、やはり放っておいても何の問題もないはずなのに……辺境伯主催の夜会を騒がせたくなかったのか、あるいは他に理由があるのか、理由を探るように彼の顔を見つめ続けるのだった。
夜会も盛りを過ぎた頃、ぽつりぽつりと帰宅する招待客の姿が見え始めた。
殆どの人達はまだまだ残って夜会を楽しむつもりのようだけれど、何処でもこういった、良く言えば華やか、悪く言えば騒がしい場を不得手とする人はいる。
それはラシェット様も同じようで、未だ人々の輪の中で笑顔を振りまいている第三王子とは違い、主催のグリゼリダ辺境伯に挨拶をした後に退出する姿を見かけた。
兄王子よりも一足先に王宮へ戻るつもりなのだろう。その彼の後にさり気なく続く。
特に気配を殺すような真似もせずに後を追ったので、彼もすぐに気付いたようだ。
外へ向かう廊下の途中で、他に人の姿がない事を確認してから、こちらを振り返ってくる。
「何の用だ」
会場ではあんなに、にこやかに、そして穏やかに振る舞っていたくせに、二人きりとなったとたんにこのぶっきらぼうな物言い。
でもそれが彼の、私に対する盾のように感じられて、何やら自分でも良く判っていないだろう抵抗をする王子の様子につい、私は口元を綻ばせてしまう。
そんな風に抵抗されればされるほど、その盾を壊してやりたくなる私は、意地が悪いだろうか?
まあ、多分と言うか、間違いなく悪いのでしょうね。
改めるつもりは全くないけれど。
「先ほどのお礼を、と思いまして。ありがとうございます、助かりました」
「……俺の助けなど、お前には必要なかっただろうけどな」
「そんなことはありません。メルボーラ公爵家は今のところ、表立って敵に回したい相手ではありませんから。可能な限り穏やかに納めて下さって、感謝しています」
「どうだか」
「本当ですよ。でもどうして、助けて下さったんですか? 私は逆に、お前ならやりかねないと言われても当然だと思っていました」
尋ねると、途端にうっとラシェット様が言葉に詰まった。
急にばつが悪そうな様子で視線を彷徨わせる理由が判らず、私は首を傾げる。
そんなに言いにくい事を聞いたかしら。
そう思っていると……もごもごと、どこか歯切れの悪い答えが返ってきた。
「……別に、そんなことは言わない。お前の言動は確かにろくでもないが、ああいった陰険な真似はしないだろうと思っただけだ」
ろくでもないって。正直すぎるでしょう、ラシェット様。
褒められているのか貶されているのか、迷うところだ。
でも。
「信じて下さったと言う事でしょうか? そんなに簡単に私を信じて大丈夫ですか? 必要がないからしないだけで、必要であれば陰険な真似も躊躇わずしますよ」
「じゃあ、レディ・アデーレ達の訴えは事実だということか?」
「まさか。アストロード様が相手にもなさっていないのに、どうして私があの方に嫉妬して嫌がらせなんてしなくてはならないのですか」
ここぞとばかりに口元だけを笑みの形に吊り上げた私の顔を、ラシェット様が軽く瞠目するように見つめる。
直後、はあ、と深い深い溜息をつかれた。
軽く額を押さえる彼の仕草の意味はなんだろう。
まるで私のせいで頭が痛い、と言わんばかりじゃないの。
そのことを少し不満に思った時、ラシェット様が口を開く。
「……この間の、借りを返しただけだ」
「この間?」
「……あの夜……お前、偶然なんかじゃなくて、わざと知っていて巻き込まれただろう」
あの夜。忘れもしない、ラシェット様誘拐事件のあの時。
同じ夜会に参加し、その帰りに具合が悪くなってしまったのに馬車が壊れて帰れない、私と居合わせてしまった……そんな偶然で巻き込まれた事件のはずだった。
でも。
「……あら、気付いてしまいました?」
「少し考えれば気付くだろう。暴走馬車に乗ってもケロリとして、首尾良く脱出し、挙げ句に騎士を二人瞬時に叩き伏せる病人が何処の世界にいる」
まあ、確かにそうですね。本当に気分が悪ければ、まずあの暴走馬車の振動で昇天できるだろう。
びっくりしすぎて逆に具合が治ってしまった、という可能性もなくはないけれど。
「お前は最初から俺が誘拐される事を知っていて、わざと居合わせるように仕組んだんだろう。……だけど、もしあの時俺が自分の馬車に乗せなかったらどうするつもりだったんだ」
「どうもしません。殿下はきっと、馬車で送ろうとして下さると思いましたから」
「そんな保証はないだろう」
「保証はなくても、確信はありました。事実、嫌いな女でも放っておけずに、送って下さろうとなさったでしょう?」
にっこり、得意げに微笑んで見せる私の笑顔に、ラシェット様はまた視線を彷徨わせる。
彼にしてみればひどく不本意に違いない。
でも幼い頃からアストロード様と付き合いがある私は、当然ラシェット様とも幼い頃から顔を合わせる機会はある。
この年齢に至るまで、まともな会話をしたのは先日が初めてと言う、知っていると言うにはあまりにもお粗末すぎるものの、それでも目にしていれば察するものもあるのだ。
先日も思ったけれど、この王子は良くも悪くもお人好しだ。
その人の良さを利用した私が、ほんの少し申し訳なく思うくらいに。
「本当に、お優しいですね」
私としては、素直な気持ちを口にしただけだ。だけど、ラシェット様の耳には違うように聞こえてしまったらしい。
「お前、やっぱり俺を馬鹿にしているのか」
どうしてそんな受け取り方になるのか……私の言葉は、嫌味に聞こえてしまったのだろうか。誤解されてはたまらないと、小さく肩を竦めながら続けて言った。
「まさか。馬鹿になんてしていませんよ、むしろ感心しているんです。真っ直ぐ育たれて、喜ばしい限りじゃないですか」
私には到底真似できない。羨ましいくらいだ。
そんな気持ちでしみじみと告げたつもりなのに、ラシェット様の眉間に、ぎゅうと深い皺が寄る。なんだかひどくしょっぱいものでも口にしたかのような顔をしたと思った直後、
「お前、年寄りか」
そんな容赦ない言葉をぶつけられて、ぐっと返答に詰まった。
ひどい、これでもまだ二十歳前なのに。
婚前の令嬢を捕まえて、年寄り呼ばわりとか、ひどすぎる。
だけど、確かにラシェット様より年寄りなのは事実だ、年齢はいくら努力しても覆す事など出来ない。
先ほどのアデーレ様達の行いよりも、よほど地味に心にダメージを受ける私の様子など、ラシェット様は気付きもしない。覚えておいて下さいよ、今の言葉忘れませんからね。