3話
もういい、とラシェット様は言ったけれど、当然納得なんてしていない。
直接兄に問い掛けても答えが得られなかった彼は、どうするつもりだろう?
まあ彼との関わりが夕べの一度きりであれば、彼自身これ以上どうすることもできないとは思うけれど……多分、それでは済まないだろう。
何故なら、それをアストロード様が望んでおられるから。
「それではご報告を。昨夜のラシェット王子誘拐事件の件についてですが」
手にしたカップをソーサーに戻し、そう言葉を切った私に、アストロード様は頷いた。
誘拐、という言葉を耳にしても驚きもしなかったのは、既に事件の大まかな内容を彼が把握しているからだ。
「うん。さっきの様子だと怪我もなく元気そうだった。私の願いを叶えてくれて、ありがとう。君ならきっと大丈夫だと信じていたよ」
「いえ、私はご命令に従っただけですから。ただ、やはりラシェット殿下の警護が薄すぎます。殿下の護衛騎士達も充分手が回っていないようでしたし、情報収集も後手に回っている様子。現実問題として近く、限界が来るのではないでしょうか?」
四人の王子の中でも、最も多くの刺客や政敵から狙われているのは目の前の王太子アストロード様本人だけど、最も警備が薄く、命を落とす危険性が高いのは、間違いなく第四王子ラシェット様だ。
王子にとって最も強い後ろ盾となる母親の実家の力が、ラシェット様は他の王子達に比べて弱い。
決して弱小貴族という訳ではないのだけど、国の上級貴族家や他国の王家などを後ろ盾に持つ他三人の王子と比べ、やはりどうしても伯爵家程度の家格では宮廷に及ぼす影響力も、娘やその子に与える支援の手も充分なものとは言いがたい。
夕べも、そもそも護衛が振り切られるなどあってはならないことだ。
その時点で護衛騎士は、王子の護衛という役目を果たせていない。騎士の実力がどうのと言う以前に、人手が足りていないのだ。
では母親の力が足りないのであれば、王である父親はどうしているのかと言うと……王は妃を慈しんでもその子まで守ろうとはしない。
自分の力で生き抜くことが出来ない息子では、一国の王子としては相応しくないと、そう言うお考えらしい。
王には王なりの考え方や価値観もあるだろうし、深い思いも隠されているのかもしれないけど、私にしてみれば不敬ながらも、何とも無責任な親だとしか思えなかった。
手をつけるだけ付け、実を結ばせておいて、後は生きるも死ぬも勝手にしろなんて、妃や王子だけでなく他の貴族や国民にまで迷惑がかかるだろうに。
だけど親という存在が子にとって、絶対的な庇護者でないことは私も知っている。
役に立つ間は守られるが、役に立たなくなれば捨てられる……そんな親子関係も珍しくない。それに王が子に無関心なのは第四王子だけに限ったことではない……他の王子、全てに対してだ。
ある意味、王の態度だけを見るならば公平と言えないこともない。
王子が生き抜くのも死ぬのも、全ては自身の人脈と才覚に委ねられている。
そう言う意味で、四人の王子の立場や命を守るための生存競争から、ラシェット様は大きく出遅れている。
もちろん母親のニーナ妃も我が子を守ろうと精一杯努力していると判るけど、どうしたって限界がある。
命の危険は幼い頃からついて回っていたけれど、王子達の成長と共にここ数年は特に激化しつつある。
むしろ今まで良く保った、と言うべきだろうか。
弱く頼りない存在から淘汰されていくのは、生きとし生けるもの全ての不文律だ。
「確かに、このまま放っておけば、いずれラシェットは脱落するだろうね」
まるで他人事のような口ぶりだ。
半分でも血の繋がった弟に向けるものとは思えない。
けれど……こんな口ぶりであっても、本音が違うところにあることを私は理解しているつもりだ。
ラシェット様の方では情報を掴み切れていなかったようだけど、リッツモンド伯爵が、ラシェット王子を誘拐し、自分の手駒とする計画を立てていることは少し前からアストロード様は知っていた。
知った上で、私に秘密裏にラシェット様を守るよう命じたのはこの人だ。
何も私でなくても、単純にラシェット様を守らせるだけなら、いくらでも適任者はいた。
でもアストロード様が命じたのは、この私。
「私が、心から信用出来るのは君だけだから」
と、そんな理由で。
確かに彼が自分の騎士達を動かそうとすれば、様々な方面にすぐにそれが知れる。
一番強い反応を示すのは、王妃様とその実家である公爵家だろう。
彼らにしてみれば、息子の王位継承を脅かす他の王子の存在などない方が良いのだから、その弟王子を救う為に騎士を動かすことを良しとはしない。
アストロード様がラシェット様を守る為には、母親の息が掛かっていない者の助けが必要だった。
それも大切な弟の身を守る役目であるなら、何があっても自分を裏切らない、そしてラシェット様を守る事の出来ると信用できる人間に限られる……彼にとって、それが私だったということだ。
これがもし、他の第二、第三王子の危機だったら、アストロード様は自分の指一本、彼らの救援のためには動かさないだろう。
いや、むしろ逆に、必要だと思えばすぐ下の二人の王子を排除することすら躊躇わないに違いない。
だけどラシェットだけは違う……一番下の弟と、その他の弟達とが彼の中でどんな違いがあるのかまでは判らないものの、まだ十六歳の弟王子の死や失脚を王太子が望んでいないことは明らかだった。
「引き続き、これからも君にお願いすることがあると思うけど、頼むよ。まだしばらくの間はね」
しばらくの間。
ラシェット様が、新たに自分の身を守れる力を手に入れられるまで。
母親の力が弱いラシェット様が次に期待出来るのは、自らの人脈で支援者を得る事。
一番効率が良いのは、やっぱり力ある貴族の娘を妃にすることだ。
でも果たしてまだ十六歳の、それも第四王子という最も立場の弱い彼にどれほどの支援者が現れるかは疑問である。
貴族達だって、考えなしに動いているわけではない。
理想や欲望、野心や向上心、人それぞれ目的や程度は違うものの、この王子ならば自分の利になると期待するから、支援を行うのだ。
夕べのリッツモンド伯爵のように王子を傀儡として操ろうとする貴族達も少なくない……と言うか、殆どの貴族がそれを狙っている。
そうした思惑に従い、あえて傀儡となって自分の安全を取ると言う方法もあるけれど、夕べのラシェット様の様子だと、彼はそれを望んではいない。
ならばそうした思惑を退けて、自分を守らねばならない。でなければ、彼はいずれ消える。アストロード様がひっそりと守り続けられるのも限界があるだろう。
その前に、ラシェット様には何とかして貰いたいところだ。
「ご命令とあらば従います。ただ、何も知らず、突然嫌いな女に付きまとわれるラシェット様にはご迷惑でしょうね」
「そうかな、今はまだ君と関わりが少なすぎるから先入観で嫌っているだけで、私は案外、君とラシェットは気が合うんじゃないかと思うけどね。だけど、あまりラシェットに構うと、王太子を捨てて第四王子に乗り換えた、なんて言われそうだ。それはやっぱり君に気の毒かな?」
「二人の王子様を翻弄するなんて、悪女冥利に尽きますね」
きっとそんな経験ができる令嬢なんて他にはなかなかいない。
くすくすと笑う私に、アストロード様も小さく笑った。
「私は君のそう言うところが好きだよ」
「ありがとうございます」
「今のところ、基本はラシェットの護衛騎士達に任せて、足りない部分だけ補う方向で頼む。だけど時々は私のことも、構ってくれないと嫌だよ」
「まあ、手の掛かる王子様ですね」
再び私は笑って、アストロード様の手を取ると、その指先に口付け、それから腰を上げた。
もう行くのか、とアストロード様は少しガッカリした声を洩らしたけど、元々の目的は報告だった。これ以上居座っても彼の執務の邪魔になるし、私も暇を持て余しているわけではない。
これでも色々と、忙しい身なのだ。
アストロード様が命じれば、私は侯爵令嬢に相応しく美しく微笑み、彼のパートナーとして夜会に出ることもするし、彼の隣の席を温めることもする。
扇程度しか持った事がないようなこの手に剣を握り、諜報活動も、護衛も、人を陥れることも、時には傷つけることさえやってのける。
どうして侯爵令嬢と言う立場にありながら、こんな真似をしているのか……その理由はブリックス侯爵家独特の事情と十数年前、初めてアストロード様と出会った頃にまで遡ることになるけど、今はあえて語る必要もないだろう。
それから再び、ラシェット様と顔を合わせれば睨まれる日々が続いた。
これまでと違うのは、明らかに彼が私の存在を意識してることだろうか。
ただ嫌な女というだけではなく、私の言動から何かを探り取ろうとしているように思う。
そんな彼の眼差しを受けて、私は微笑みで返す。
するといつも、何か見てはいけないものでも見てしまったかのように、複雑な感情の伺える表情で目を逸らされる。
きっと今頃、ラシェット様の頭の中は私の事でいっぱいだろう。本当はもっと、自分の事を考えないといけないはずなのに。
他のことで気を取られている余裕は、あなたにはないはずでしょう?
だけど、ラシェット様は決して考えの足りない、愚かな方ではない。
このままだといずれ、知られてしまうかも。
まあ、そうなればなったで、別に構いはしないのだけれど。
――彼はきっと事実を知っても、その口を噤むだろうから。