2話
どうやらお二人の会話は、私が訪れるその時まで、随分と盛り上がっていたようだ。
談笑、と言う意味ではなく、質疑応答という意味で。
にこにこと穏やかな微笑を浮かべたままのアストロード様に対して、ラシェット様は兄王子の執務机に両手を突き、若干前のめりの姿勢になっている。
イメージとしては、夕べの事から私が尋常ではない存在だと気付いたラシェット様が、そのことをアストロード様に尋ねている。
でもアストロード様は微笑みながらかわすばかり。
何度尋ねても埒が明かなくて、とうとう頭に血を上らせたラシェット様が、いささか強引に兄王子に詰め寄った……とまあ、こんな感じかしら。
私は、お二人の会話……と言っても、主にラシェット様の一方通行だろうけど、そのお話が盛り上がっているところに来てしまったようだ。
「ご歓談中申し訳ありません。お邪魔してしまいましたかしら?」
「お前……」
じろりとラシェット様が私を睨む。その向かい側で、清廉な笑みを向けて寄越すのは、アストロード様だ。
誰もが息を飲むような神々しさと、ガラス細工のような繊細さ同時に併せ持つアストロード様の美貌は今日も健在だ。
翡翠の瞳と、亜麻色の少し癖の入った髪を短く整え、全体的に白で統一された衣装は彼の儚げな美しさをより強調している。
人が想像しうる限りの完璧な美しさを持つ彼は、見る人によっては畏怖を与える事もある。けれど同時に、いつも彼が浮かべる穏やかで優しく、そしてどこか人なつこさを感じさせる笑みが、その怖れを緩和していた。
また、その美貌から王太子に儚いイメージを抱く人もいるようだけど、だからといってアストロード様が弱々しい王子かというとそうではない。
確かに線は細い方だろうが、背は高いし、体格も悪くはない。
少なくとも目の前のラシェット様と比べれば、充分に成長した、立派な成人男性だった。
「まさか。私が君を邪魔に思うことなど、あるわけがないと知っているだろう?」
そう言ってアストロード様は、再び私に微笑む。
「ありがとうございます、そう仰って頂けると、ほっとしますわ」
私を睨むラシェット様の眼差しが、胡乱げなものに変わった。たとえ邪魔だと言われても、お前がそれを気にするようなことはないくせにと、そう言わんばかりに。
たった一晩でラシェット様の私への印象は、気に入らない女以上に、油断のならない女というものへ変化してしまったようだった。
何か怪しい行動をちらとでも見せれば、容赦しないぞと言わんばかりだ。
それと同じくらい、ラシェット様自身の私への無意識の興味が伺い知れる。
兄の安全のために私を疑い、でも自分の興味の為に私から目を離せない……黒にも見える、深い藍色の瞳は隠しきれない好奇心が秘められているように見えた。
私でもそう感じるのだから、兄上であるアストロード様も察しているだろう。
でも少なくとも今は、アストロード様はその点を指摘するつもりはないようで、執務机の席から腰を上げ、私達二人を応接ソファの方へ誘った。
それに合わせたように、メイドが三人分のお茶を運んでくる。
向かい合う一対のソファに、それぞれ二人の王子が別れて座る傍らで、さて私は右と左と、どちらへ腰を掛けるべきかと一瞬立ち止まったけれど、そんな私を誘ったのは当然ながらアストロード様だ。
「おいで、マリー」
片手を差し出す彼の手に、素直に己の手を重ねる。
そのまま引き寄せられるようにアストロード様の隣に腰を降ろす私を、正面からラシェット様が物言いたげな眼差しで見つめていた。
「それで、ラシェット。どこまで話をしていたかな?」
穏やかに、でもどこか人を食ったような口調でアストロード様がそんなことを言う。本当はきちんと覚えているくせに、あえてそんなことを聞くなんて意地悪な人だ。
でもそれもアストロード様が、弟王子との会話を楽しんでいるからこそだ。そうでなければきっと、時間の無駄だとさっさと会話を終わらせている。
案の定ラシェット様は僅かに表情を歪め、けれどすぐに、ぐっと自分の感情を落ち着かせるように、押し殺した声で答えた。
「……私が、再三お尋ねしているのは今、兄上の隣にいる、レディ・マリアンについてです。彼女は何者ですか。兄上は承知で、お側に置いておられるのですか?」
「彼女はブリックス侯爵のご令嬢だよ。何者かと言われると……私の大切な幼馴染み、と言う説明になるけれど」
「そんなことをお尋ねしているわけではありません。彼女は、普通の令嬢ではありませんよね。何か、特別な役目でも与えておられるのですか」
「普通……そうだね、確かに普通ではないかな。私にとっては、何者にも代えがたい、特別に可愛い人だ」
堂々と嘯いて、アストロード様は私の髪を撫で、肩に手を回すと、そのまま自分の方へ引き寄せた。
「……まあ、殿下ったら。……ラシェット様の前で、恥ずかしいですわ」
ぴたりと寄り添い合う私達の姿に、折角己の感情を抑えようとしているラシェット様の努力も虚しく、みるみる彼の顔が強張っていく。
怒りと羞恥と苛立ちと、他はなんだろう?
放っておくと、再び声を上げ始めるだろうかと思ったけれど、一応は兄王子の前と言う事もあり、ラシェット様はぐっと堪えたようだ。
「その、兄上が特別可愛いと言う女性が、特殊な技術を持っていることもご存じなのですか」
特殊な技術とぼやかしたけど、彼が夕べ彼の前で見せた、脱出時に関わるあれこれを指しているのは明らかである。
アストロード様は答えない。答えないまま、微笑み続ける。
その微笑みを、ラシェット様は肯定と取ったようだ。
「では、どうして……」
深い溜息が出た。でもやっぱり、ラシェット様の言葉はそれだけで終わらない。
むしろ終わるくらいだったら、わざわざここへ足を運ぶ事はない。
「どうしてそんな女性に、あのような真似をさせているのですか」
絞り出すような声に、私は目を瞬かせる。
「あのような真似?」
「悪い噂のただ中に放置したり、剣を持たせたり……あなたがご存じないはずがない。本当に大切な女性なら、そんなことをさせるまでもなくご自身で守るべきではありませんか?」
ラシェット様の言葉には、ちょっと驚いた。
私は彼が「こんな得体の知れない女はアストロード様に相応しくない、目を覚ませ」的な事を言い出すのかとばかり思っていたから。
「兄上は彼女を特別扱いなさるけど、積極的に守ろうとなさっているようには見えない、どうして……」
まさか私の事で、敬愛する兄王子を責めるようなことを口にするとは思っていなかった。
だけど、考えてみれば不思議はないのかもしれない。
私に、どうしてアストロード様の為に、身を慎もうとしないのかと言う言葉を向けてくるラシェット様だから、同時にどうして大切にしているはずの私が奔放な真似をしても悪い噂を流されても、私を窘め、噂から守ろうとしないのだという兄に対しての疑問も生まれるのだろう。
てっきり私は彼の、令嬢の定義から外されてしまった物だとばかり思っていたけれど、ラシェット様の中では私はまだ女性であり、その女性を守るのは男の役目だと言う意識が根強く残っているようだった。
きっと彼は、愛する女性をそんなふうに守ろうとする人なのだろう。
一度懐に入れ、心を傾けたら、決して他に目移りする事もなく一途に愛し続ける……女性であれば、誰でもそんな愛し方をされてみたいと願う、理想を実現するように。
思わず、知らぬうちに口元が綻んでしまった。
現実は彼の言うような簡単なものではない。
でも。
「何を笑う」
「いいえ。ラシェット様に愛される女性は、幸せ者ですね」
心からそう思って告げた。
「お前は、何を……!」
直後、カッと彼の顔が赤くなる。
からかわれた、あるいは馬鹿にされたと感じたのか、ラシェット様がとうとう声を上げた。
その時だった。
「ラシェット。言いたい事は判るけれど、その件については彼女も私も、お互いに納得してのことだ」
「兄上」
「私とマリーの事についてはそっとしておいてくれないか? まあ、お前が彼女に興味を持つことは禁じないけどね。お前とマリーが仲良くしてくれるなら、その方が私も嬉しい」
ラシェット様の口元が引きつる。
そのまま唇を噛んで、視線を落とす王子の姿に少しだけ同情した。
アストロード様の言い方だと、聞きようによっては私に余計な興味を持つな、と逆に牽制しているようにも聞こえる。
実際は、本当に思ったことを言っているだけなんだけど、ラシェット様はそうは受け取らないだろう。
案の定、彼は硬い表情のまま、出されたお茶に一度も手をつけずに席を立った。
「……もう結構です。差し出がましい発言を、大変失礼しました」
そのまま立ち去っていくラシェット様の背は、少年特有の意地と、自分の言葉を受け取っては貰えない悔しさが滲んで見えた。
その彼の姿が完全に扉の向こうに消えるのを見送ってから、私はほう、と小さな溜息を付く。
「なんだかお気の毒ですね。お兄様を心配されて、わざわざいらっしゃったのでしょうに」
「ひどいな、その言い方だと、私がわざとラシェットを虐めたみたいじゃないか」
カップを持ち上げる私に、むうとアストロード様がその顔を顰める。
まあ、確かに虐めるつもりなんてないのでしょうけど?
お兄様大好きなラシェット様からすれば、殆ど何も答えて貰えなかったことは残念でしょうね。
それでなくても彼がここに来るためには、自分の護衛騎士や侍従を始め、幾人もの人に制止されたに違いないのに。
芳醇なお茶の香りを胸一杯に吸い込みながら、味わうように口をつけた。ここのお茶はいつも楽しませて貰っている。
私がアストロード様の元へ訪れる、お楽しみの一つだ。
我が家でもお茶は当たり前に口にするけれど、王宮で出されるお茶は厳選された希少価値の高い物で、侯爵家と言えどなかなか同じ物は手に入れられない。
そのお茶を味わいながら、私の思考は先ほどのラシェット様へ向かう。