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空の皇兵  作者: 神風
1/4

壱話 少年少女

「して、神宮生徒!これからどうやって盤上をひっくり返す?!なかなかどうしてよろしくない状況だがねぃ!!」

少女は叫んだ。腹の底からの大声であった。世界中の人間に言い聞かせるつもりであるかのような怒声であった。

だがそれでも、真正面からなだれ込んでくる気流が彼女の声を後方へと押し流した。

後ろで結んだ少女の長く優美な黒髪は、気流の中を所狭しと荒れ狂う号風によって乱暴に靡いていた。

王手詰チェックメイトとは、いやはや勘弁願いたい!!」

口調からするに、少女は男臭く、ある程度の窮地に立たされても最低限のユーモアを忘れない(あるいは手放さない)類の人間であることが分かる。

そういう人間は大概にして人を惹きつける一種形容し難い魅力を持っているものだった。

ただ、そういう能力は目前に迫った実際的な危機に現実的に対処し得るものではない。

彼女には王手詰チェックメイトとなりつつある盤上をひっくり返すことはできなかった。

それが出来るのは、というか、その可能性を持っているのは、彼女の目の前で、彼女にその、決して大きくも頼りがいもない平凡な背中を向けている、一人の少年だけである。

少年は、猛る号風と唸る気流の中で、叫んだ。

「問題ない!!問題なければ王手詰チェックメイトでもない!!東雲!!僕たちは無事学校に戻る!!あの営庭に舞い戻る!!だから!あんまり急かすなぁ!!」

少女の声は、号風に邪魔されながらもどうやら少年の耳には届いていたらしい。

しかし、それは当然であった。

いかに乱気流をここぞとばかし暴れ狂う暴風と言えども、少女は少年の背中にぴったりと抱きついているのだ。

つまりは、少女は少年の耳のすぐ後ろで叫んでいたことになる。

ならば聞こえぬ筈が無い。

ならばこそ、少年の叫び声も、なんら号風に邪魔されることなく少女に届くはずであった。

少女は少年の真後ろにいる。号風は前から突っ込んでくる。

叫んだ少年の声は、冷たい号風に乗って少女の可憐な耳に器用に滑り込む。

少女は、滑り込んできたその声に応えた。

「おおそうかい!!そいつぁ頼もしいお言葉だねぃ神宮生徒!!『あれ』に狙われて『問題ない』とはねぇ!!さすがは!!そんじゃぁ頼んだよ!!営庭まで!私を生きて連れてってくれ!!ところで、神宮生徒の教練空中格闘の評価項はいくつだったかねぃ!?」

少女は雄弁であった。

男らしくはあっても女である。

こと喋る事に何かしら楽しみを感じるという点においては、他の女達の例に漏れなかった。

「やかましいな東雲!!!急かすな茶化すな口を開くなぁ!!!」

少年には、なにやら余裕というものがないらしかった。

「で?!いくつだった?!神宮生徒!!まさか『優』以外ってことはないだろう?!」

「やかましい!!」

「そうは言ってもねぃ!!自分の命を預けるんだから!!納得のいく回答を貰いたいんだがぁ?!」

「東雲ぇ!!」

「なんだぃ!?」

「僕を!!信じろ!!信じとけ!!ソンはさせないから!!」

「おおぅ・・・」

少女は、少し気楽な顔をした。

そしてどこか嬉しげでもある。

というより、元より少年ほどは何も思いつめていなかった。

それはどうであれ現状を愉しむ性格のせいでもあり、少年に対する特殊な感情が手伝っている面もあった。

「よろしい!!神宮生徒!!今のは結構納得できた!!命預けるぜぃ!!せいぜい気張っておくれよ!!幸運を(ウィッシュユァラック)!!って、あたしも当事者なんだがねぃ!!」

少女は完璧な笑顔であった。爽快な表情のようである。顔面に吹き付ける号風など意に介していない。

一方で、少女の命を預かったらしい少年の顔つきは、頼もしい言葉とは裏腹にまったくもってよろしくない。

というより、半分青ざめている。

少年は、自分の運命と、自分の背中に抱きつく少女を呪いたい気持ちでいっぱいだった。


少年の名前は神宮義嗣じんぐうよしつぐ

少女の名前は東雲霊雲しののめれいうんと言った。

少年少女は褐色の防寒着に身を包んでいた。襟元には金色の有翼星章が輝く。

それは紛れも無く、『皇州帝国陸軍龍空教導団』所属を示すものだった。

それはつまり、彼らを『軍人』たらしめている。


二人は今、空中を滑空している。

まぎれもなく、空を飛翔している。

だが、生身で、ではない。

無論、人間が空を飛べるはずが無いのだ。

では、どうやって彼らは滑空しているのか?

残念ながら、この世界は『飛行機』なるものが存在するほど科学が頼もしいものではなく、そして無粋でもない。

では何か?

彼らが、神宮と東雲と呼ばれる少年少女が空を舞うために駆るもの。

彼らがまたがっているもの。

それは、

それは紛れも無く、

そしてどこをどう見ようが、なにをどう疑おうが、揺るぎもしない。


それは―――


―――『龍』であった。


神話に登場し、神の化身とも、天界の使いとも、はたまた破壊と戦争の象徴とも言われる、あの『龍』である。

詳しく、厳密に言えば、『翼竜』である。

大きな翼を持った、空を飛ぶ生物としては世界最大種であるあの『翼竜』である


今、神宮と東雲は『翼竜』にまたがっている。

手綱を引き『翼竜』を駆るは神宮少年である。

その背中に抱きつくのが東雲。

そして、二人をその背中に乗せ大きな翼を左右いっぱいに広げ滑空するのが、翔空しょうくうと名づけられた生後6年の灰色の雄龍であった。

翔空の名づけ親は、神宮である。

この世界、決して一般的ではないが、人と龍は極めて近しい関係である。

例えるならば、人と犬の関係に等しい。

幼いころから接し、あるいは訓練すれば、龍は非常に人に対して友好的となるのだ。

それはつまりパートナーであった。

友人である。

龍は人間の友人であり、かつ人間が空を飛ぶ唯一の手段でもあった。


(くそっ!!)

神宮は心の底で悪態をついた。

つまるところ現在の状況が、反吐を出したくなるような状況であるためだった。

彼の使い龍であり『幼馴染』である翔空は、全力で飛翔していた。

申し分の無い飛びざまである。

まさに翔空は一級の早馬ならぬ早龍であると、神宮はこれまで評価してきた。

そして今日も、翔空はその評価に違わぬ疾風ぶりを存分に見せ付けている。

問題は、その後方1500メートルを付けねらってくる『あいつ』である。

(なんともしつこいカラスめ!!)

神宮は。またしても悪態をついた。今度は半分声に出ていた。

かれこれ30分後方を付けねらってくる『あいつ』とはつまり、野蛮で凶暴で翼竜の中でも調教が非常に難しいとされる野生の『黒龍ヘイロン』であった。

黒龍ヘイロンは全身を漆黒の薄毛に包まれ、通常四本ある足が前足二本しか存在せず、縄張り意識が強く優美とは程遠い乱雑な形の翼を持つことで知られている。

人間に対したびたび被害を与えることから翼竜学者や翼竜関係の仕事に携わる人間からは悪意を持って『カラス』とあだ名されていた。

その『カラス』が、今神宮達を付け狙っているのである。それは、もろもろの事情から非常にまずかった。

すべては、二時間前、東雲霊雲の言葉から始まった。


時計の針は午後三時を指していた。

この日は数少ない貴重な『外出許可』のでた休日であった。

皆が皆急ぎ勇んで町へ遊びに駆け出した頃、神宮は龍舎で翔空の腹の調子を見ていた。

前日、排便の様子からあまり調子が良くないようであったため神宮はかなり気にしていた。

神宮にとって翔空は貴重で特別な友人であり、空を飛ぶ唯一の存在であり、彼の在籍する『皇州帝国陸軍龍空教導団』は手持ちの龍を痛めたものには極めて居心地の悪い場所であった。

空を飛べぬ龍に用は無い。そういう場所だった。

何よりも鉄の袋とも呼ばれる丈夫な内臓器官を有する龍が腹を壊すなど、不治の病に冒されたと同義である。

大げさに聞こえるだろうが、腹を壊した龍が数日後に病死など珍しくないのだ。

そのため、神宮は非常に心配し、貴重な外出許可の出たその日もどこにも行かず翔空に付きっ切りだった。

もしかしたらこいつは死ぬんじゃないか?そんな大層な不安に駆られていた。

んが、蓋を開けてみると翔空はぴんぴんしていた。

飯も食う、よく動くし立派な便も出す。午後、予定していた龍医に診てもらったところ「健康そのもの」との回答を得た。

神宮はあまりのあっけなさに脱力したが、翔空は珍しく自分に付きっ切りの神宮に対し悪びれる様子も無く遊びの相手をせがんだ。

龍医が「この程度で呼ぶな」と言いたげな視線をのこして龍舎を去った後、いまさら町へ遊びに行く気も失せた神宮はお騒がせな雄龍の相手をしてやった。

貴重な外出許可をどぶに捨てちまった、と後悔しても、たまにはこんなのもいいかと自分に言い聞かせながら翔空の鼻をさすってやった。

東雲が龍舎に飛び込んできたのはその時だった。

彼女は凄まじい勢いで神宮に近づき手を握ると、突然のことに困惑する神宮をよそに言い放った。

「頼む!お前と翔空を貸してくれ!!」突拍子も無い言葉であった。

なぜ?どうして?どういう意味だ?

言葉に出す前に表情に出ていたらしい。

神宮が声を発する前に、東雲はまくし立てた。


ここから東にある南北へ連なる「龍連山脈」には薄蓮花はくれんかというその地にしか咲かない希少な花があるらしい。

それはとても美しい様で、花は透き通るような白、その身は綿のように柔らかく、風に揺らぐ様は現世無比の可憐さと言う。その上冬にも花を咲かせるとかいうじゃないか。

古くはそのごく少数が「龍蓮花」として皇族にのみ献上されていた宝物であったとか。

それが、どうしても欲しい。

手に入れたい。

いや、個人的な趣味というわけではない。

美しいものに自分自身の価値を見出すような、私はそういう類の人間ではないさ。

だが、どうしても欲しいのだ。

ある事情があってねぃ。

しかし、この花、厄介なことに龍蓮山脈の奥地にある龍峰山の山頂付近でしか確認されていないんだなぁこれが。

つまり、人間が歩いていける場所じゃない。んまぁそれ以前に登山する暇なんて無いしねぃ。

そこでだ。翼竜様のお力が必要なのさ!

翼竜ならひとっ飛びだろぃ?

ん?私の龍?

駄目駄目。あの子着地に失敗してさ。ほら、寸前に突風が吹いて足くじいて。

あと一日は安静にだとさ。まぁ翼竜は大事な体だしねぃ。

そこで!ね?神宮くん。あんたとあんたの翔空を貸して欲しい。

これ!この通りだ!頼むよ!

私がこんなにお願いするなんて一生に一度あるかないかだよ?

ほらほらさぁさぁ!

うんといいな!


無論、断った。冗談ではない。

自分が世話をしていると言っても翼竜は軍の所有物である。翔空も例外ではない。

許可も無いまま翼竜に乗って大空へ、など、判明したら即刻懲罰ものである。

そんな危険は冒したくは無い。今までそれとなく成績を稼いできたのだ。

もしかしたら全ての努力が水泡に帰すではないか?

そんな分けの分からない花の為に教導団での経歴に傷をつけたくは無いのだ。

誰だって保守的な軍の中でやんちゃぶりを発揮しようとは思わない。

それは確実に自分の出世に影響を及ぼす。


悪いが、無理だ。教官に見つかったらどうする気だ?


なぁに心配ない!総員点呼が行われる六時までに戻ればいいのさ!花を取るだけ!すぐ終わるって!


東雲は快活な性格そのままに、明るい印象そのままの表情と口調で神宮に協力をせがんだ。


こんなこと頼めるのはあんただけだよ!

―そうは言ってもな…これはいくらなんでも。

それに、私に恩を売っておいたほうがいいと思うがね。後々得にはなっても損にはならないはずだぜぃ?

―何を言って…ああ、そうか。そういや東雲の親父は…

そうとも!天下の帝国陸軍参謀本部作戦部長、東雲零弦しののめれいげん少将閣下さ!

教導団卒業の暁には、それなりに口を利かせてしんぜよう。

出世に有利なことこの上ないと思うが?

少なくとも花一つと引き換えに出世道、比べるまでもないんじゃないかぃ?

―……


結局、神宮はえさに食いついてしまった。

やはり彼も野心とは無縁ではないのだ。

軍人になるもののほとんどが絶対的ヒエラルキー社会である軍において、少しでも多くの権力を得たいと夢想するのが常であった。


流石は神宮生徒!!話の分かるお方だねぃ!


(なぁにが…)

神宮は翔空にまたがり、冷たい号風にもまれながら、後ろをつけねらう『カラス』に注意を配りつつ、表情をゆがめた。

(花を取るだけ、だ!)

状況は、非常によろしくない。


花は取れた。んが、龍峰山の峰に着地して東雲が花を取ってくるのを待っている最中、『奴』に見つかった。

不運なことに、というか無学であったのか、龍峰山近辺は長らく人の手が入っていない原生地帯であったため、野生動物・原生生態系の支配する人ならざるものどもの領域であったのだ。

そして、あの野生の『黒龍』に見つかった。

『カラス』は神宮達を目視すると低空で山を掻き分けるように飛びながら接近してきた。

それにいち早く気づいたのは同じ翼竜である翔空だった。

翔空の唸り声に異変を感じ、次に神宮が『カラス』の存在に気づいた。

まずい、狙われている。

神宮は翔空にまたがり手綱を握り滑空姿勢をとった。山の峰から飛び降り一気に加速し一目散に逃げるつもりであった。

俊足が売りの翔空ならばそんなことは朝飯前である。

だが、東雲がまだ戻っていなかった。

神宮は焦った。

一旦飛び立って『カラス』を追い払ってから東雲を回収しに戻ってくるか?

いや、不可能だ。幾度も体験した教練空中格闘講義がその可能性を否定した。

人を背中に乗せた翼竜は、空中格闘を好まない。

なぜなら激しい格闘飛行アクロバット・フライトは背中に乗る龍使いを振り落としてしまう危険が非常に高い。

空中で振り落とされることは、すなわち死である。

龍は人間がか弱い生物であることを知っている。

彼らはむざむざパートナーを危険にさらそうとはしない。

――万が一野生の龍どもに目をつけられたら、ひたすら逃げろ。それがもっとも現実的だ。

教官からはそう教わった。

だが東雲を置いて逃げればどうなる?回収に戻ってくるのは困難だ。見捨てるなど言語道断。

無断飛翔の上、同僚を見捨てればどうなるか?ただの処罰ではすまないだろう。

その上東雲の親父は陸軍のお偉いさんなのだ。

くそっ!!

そうこうしているうちに『カラス』は大きく距離を詰めてきた。

翔空はまだかまだかと神宮の滑空命令を待っている。

早くしないと、追いつかれる。

その時だった。東雲が現れた。

どうやら彼女も『カラス』に気づいているらしく、全力疾走である。

片手にはあの薄蓮花。背中には通常の小銃の銃身を短く切り詰めた『騎銃カービン』を提げていた。一応、野生の熊に出会ったときに備えて持ってきたらしい。

「神宮!!『カラス』だ!!狙われてる!!」

「分かってる!!お前が遅いせいだ!!」

そんな短い怒号のやりとりの後、東雲は翔空に飛び乗り神宮の背中にぴたりと抱きついた。

神宮は背中にあたる少し小さな盛り上がりにうつつを抜かす余裕も無いまま、翔空を駆り山の峰から飛び降りた。

すさまじい号風が身を包む。空を生活の場とするものにはおなじみのものだった。

風は冷たい。

気温は摂氏10度。真冬である。号風によって体感温度はさらに低い。防寒着に守られていない顔は寒気に対して無防備である。

鼻水が垂れて固まった。

翔空は低空を飛ぶ。山と山の間、谷の中、森のすぐ真上を高速低空飛行する。

それは、山間部における追跡する敵を追い払うもっともポピュラーな飛行方法であった。

山々が入り組む山脈地帯を低空で縫うように飛べば、いずれ敵は障害物の陰に隠れ自分達を見失う。

基本的な、だが高度な飛行技術と度胸を試される戦術だった。

山の斜面や生い茂る木々に少しでも接触すれば高速で飛翔する龍は大怪我を負う。

そうなれば、墜落確実であった。

しかし、『カラス』は臆することなくぴったりとついてくる。

(ああ!くそっ!)

神宮はいまさらながらに気づいた。

人から餌を貰う軍の翼竜と違い、野生の連中は自分で獲物をしとめ腹を満たす。

ならば、あの『カラス』は幾度と無く低空を舞い山や木々を潜り抜け、川の水を飲む鹿達を狩ってきたはずだ。

つまり、この山脈地帯の低空は、『カラス』にとって庭のようなものだ。飛び方を知っている。

神宮達は進んで相手の得意とする土俵に舞い込んでしまっていたのだ。

(まずいな。どうする?このままじゃ埒が明かない。いや、埒が明かないどころじゃない。このままじゃ、やられる)

『カラス』は確実に距離を詰めていた。俊足であるはずの翔空は敵を振りほどけないでいる。

仕方なかった。背中に二人も人間を乗せているのだ。

実際のところ、翔空にとって神宮と東雲は敵よりもやっかいな重荷となって機能していた。

その上、彼ら二人を振り落とさないように気をつけながら飛び続けなければならない。

独り身で思う存分乱暴なアクロバット飛行のできる『カラス』の方が、低空飛行には圧倒的に有利である。

さらに悪いことに、低空飛行はやたらと体力を消耗する。

風が少ないからであった。羽ばたかねばならない。

高空であれば常に強い風が吹き荒れているため、風に乗って飛行できる。揚力が得られる。

だが、低空では、山々の間ではそうはいかない。

羽ばたけば、体力を消費する。

そして、翔空は未だ生後六年の子供であった。

対する『カラス』は齢20年はあろうか。完全な成龍である。

体力面でも、『カラス』が有利であった。

(すべてがすべてこちらに不利!逃げているつもりが敵のいい様に料理されているのか?!とにかく、このままじゃ確実にやられる。どうにかしないと)

神宮は焦った。焦っていた。心臓が早鐘に成り変っている。血圧が異常に上昇する。

尋常ならざる精神状態のなか、彼は最低限冷静さを保とうとしていたが、目はすでに血走っていた。

いったい自分達がどれほどまでに追い詰められているというのか?!

このまま『カラス』に文字通り翔空の尻尾に噛付かれ、失墜させられ、地面に落ちたところをジックリ食されるのか。『カラス』の血肉に成り果てるというのか?

それだけは嫌だ。死ぬにはまだ早すぎる?まだ18だぞ!!まだまだやりたいことだって食いたいものだってたくさんあるのに!!

だが、逃げる術がない。

確実に、追いつかれる。

『カラス』は、いつの間にか真後ろに迫っていた。

東雲が叫ぶ。

「神宮!!来るぞっ!!!」

神宮は声に呼応するように後ろを振り向いた。

『カラス』のでかく漆黒の異形な図体が、大きな翼を力強く羽ばたかせながら、翔空に覆い被さんとしていた。

『カラス』は大きく口を開き、いかにも凶暴そうな大きな牙を見せ付けた。

(まずい!!!)

上方から一気に襲い掛かり、翔空の胴体に噛付くつもりだ。


この攻撃方法は黒龍など気性の荒い龍に見られる独特のもので、専門家の間では「がぶりつき」と言われていた。

(くそくそくそくそ!!)

避けなければ!!避けなければやられる!!食われる!殺される!

興奮と恐怖と焦りが極限に高まった。

常に前方を向いて飛翔する翔空は後方の危機的状況に気づいてない。

自分が、何とかしなければ。

その時前方に深く長い直線的な谷が見えた。

(あれだ!あれしかない!)

とっさに、神宮は翔空を谷の中に突っ込ませた。

間一髪、であった。

翔空が谷の中に滑り込んだのと、『カラス』が上方から噛付きにかかったのは、ほぼ同時である。

「おおう!!?九死に一生ってやつかぃ?!!」

常に後ろを振り向いていた東雲が叫んだ。

『カラス』の攻撃はとっさにかわされた。

噛付こうとした牙は空を切り、翔空の尻尾に『カラス』の鼻がかすっただけであった。

尻尾の先に感じた違和感に、翔空は先ほどまで自分がどれほど絶体絶命的な状況であったのかを悟り、思わず雄たけびを上げた。

甲高く、野太い鳴き声である。

鳴き声は谷の中に響いた。

そして状況はまったくもって改善されていなかった。

むしろいよいよ以って王手詰チェックメイトである。

谷の中では、逃げ場が無い。

左右は岸壁、直線飛行するしかなく、敵はじっくりと狙いをつけられる。

上下に逃げるしかないが、『カラス』は再び羽ばたき上方から覆いかぶさろうとしている。

「がぶりつき」だ。今度こそ仕留めるつもりである。

眼下は、濁流。

もう逃げ場がない。

「まずいな!!来るぜぃ神宮!!やっこさん、やたらと気が立ってるらしいな!!」

闘争本能に酔っているのだ。もはや狩猟目的ではない。

狩りたい。

ただその一心だろう。

ここで翔空を仕留めても、獲物は谷の下に墜落し濁流に呑まれ肉は流れていく。

腹は満たせない。

なのに襲い掛かってくるのだから。

そういう面で、龍は人間に近いのかもしれない。

殺害、という行為に、生命活動の範疇外の価値観を持っている。

「どうすんだぃ!!」

東雲が叫んだ瞬間、神宮は力いっぱい手綱を引いた。

それに応じて翔空が首を上げ、全力で翼を羽ばたかせ急上昇する。

ほぼ垂直に近い角度であった。

覆いかぶさろうとしていた『カラス』はとっさに減速し、衝突を避ける。

翔空は突き抜け、谷の中から飛び出した。

脱出成功である。

東雲は驚愕したようであった。振り落とされないように力強く神宮に抱きついている。

背中越しに神宮の息遣いが聞こえてきた。

かなり興奮している息遣いである。

「やるねぃ神宮生徒!!危機からの脱出だね!でも、あきらめる気は毛頭無いらしいよ、奴さん!!」

『カラス』はすぐさま体勢を立て直し追撃してきていた。

急上昇は翔空から大きく体力を削り取っている。

すぐに、追いつかれる。

その時、神宮が叫んだ。

「東雲!!お前、確か騎銃カービン持ってたな?!」

さっきまでとは調子の違う声だった。

なにやら、確信めいた響きがある。

東雲は、同じように応えた

「ああ!!持ってるよ!!弾薬だってある!!いざって時のために持ってきたんだけどねぃ!!軍人の職業病さ!!銃が無けりゃ安心できない!!」

「今がいざって時だ!!」

「なにぃ?!!」

東雲は眉をひそめ、神宮は続けた。

「『逆落とし』だ!!一気に蹴りをつける!!あいつを仕留めろ!!」

「なぁ?!!」

東雲は流石に驚愕した。お茶らける余裕も無い。

逆落とし、だぁ?逆落とし、だと?本気で言ってるのか?


『逆落とし』とは、翼竜兵が用いる一つの戦法である。

下方から上昇してくる敵に対し、真正面から体当たりするように上方より下降しつつすれ違う直前に攻撃を加えるという、一昔前の騎兵同士の一騎打ちに似た戦法である。

攻撃した直後、お互いが逆方向にすれ違うことを利用しそのまま逃走する「一撃離脱戦法」としても知られていた。

攻撃をかける方は上方から下降するため加速する、そのまま逃げることが非常に簡単なのだ。

攻撃であると同時に逃走手段でもあるという異色の戦法だった。

しかし、翼竜兵の本分が偵察任務であること、格闘戦を最終手段として捉えていること、翼竜兵同士の戦いなど非常に稀であることから実際に行われた例は極めて少なく、そのうえ真正面から突撃する形になるので正面衝突の危険性もあり、その有効性が甚だ疑われていた。

その中でも東雲は、教導団で逆落としの講義を受けたとき、この戦法の有効性にもっとも大きな疑問符をつけた人物である。

その人物が、逆落としをすると告げられたら、どんな顔をするだろう?

「馬鹿言うな!!」

東雲が叫んだ直後、翔空は無理やりに右旋回し、180度逆を向いた。

首を下に下ろし、一気に下降する。

前方からは、正面から上昇してくる『カラス』の姿が見える。

完全に、『逆落とし』の体勢だった。

もう、引けない。

「やれ!!東雲!!銃であいつを撃て!!」

『カラス』は大きく口を開け雄叫びを張り上げる。翔空はそれに呼応して大きく雄叫びを上げた。

もはや、両雄は決戦を覚悟している。いまさら進路は変えられない。

「ああもう!!」

東雲は、覚悟した。

「まったくもって生きた心地がしないねぃ!!!」

背中にかけた騎銃を手に取り、両足を神宮の足に絡ませた。

それに応じて神宮が上半身を翔空の背中に貼り付けるように伏せる。

東雲の前方が開けた。

両手で銃を構える。いまや東雲の体を支えているのは神宮の足に絡めている二本の足だけであった。

風圧で体が飛ばされそうになる。

焦るな。

怖がるな。

体よ震えるな。

銃床を肩にしっかりと付け、照星に『カラス』を捕らえる。

距離は、800メートル。

だが、高速で飛翔する2体の龍の相対距離は急速に縮まっていく。

600、500、400…

まだだ、まだ撃つな。

落ち着け東雲霊雲!

ただでさえ狙撃精度の悪い騎銃だ。龍の上から撃ったら狙撃精度はさらに悪くなる。

十分引きつけないとあたらない!!

真正面から突っ込んでくる『カラス』の姿が、恐怖を撒き散らし、早く引き金を引いて銃をぶっ放したくなる衝動にかられる。

だが、東雲は必死にその衝動を抑えた。


チャンスは一度きり


十に八は望み無し

まぐれであたるはずも無し

ならば一発入魂


「魂込めろぉお!!!!」


叫んだ東雲が引き金を引いたのは、距離が50メートルを切ったその瞬間だった。

銃口から飛び出した弾丸は、炸裂した弾薬の運動エネルギーを全身に受けて滑空する。

ゼロコンマ数秒の微小な飛翔時間を置いて、黒い弾丸は、今まさにかみつかんとする『カラス』の顔面にめり込んだ。

硬い皮膚を突き破り、肉を引き裂き、骨を砕いた。

小さいが、強烈な一撃。

野生動物が経験したことのない、銃弾の暴力であった。

『カラス』が異様な叫びを上げ身を捩じらせた瞬間、神宮はとっさに手綱を引いて『カラス』との正面衝突を避けた。

『カラス』とすれ違うと、そのまま飛翔し今度は逃げの体勢に入った。

見事な、一撃離脱戦法。

まさしく模範的な『逆落とし』であった。

神宮は身を起こし後ろを振り向いた。

『カラス』は急激に高度を下げ、適当な着地点を探しているようだった。

余程痛いらしい。

あれでは、まず追撃してくることはないだろう。

東雲が、叫ぶ。

「ハッハァ!!!見たか?!神宮生徒!!一発必中だ!!すごい!!狙撃兵に転身しようかな?!」

どうやら勝利に酔っているらしい。

いや、奇跡を起こした自分自身にか。

どちらにしろ、無茶をしたのは確かだった。

もちろん、神宮が、だ。

その本人は、余程安心して力が抜けたらしくため息をついただけだった。

「とにかく、たすかった…」

「やったねぇ!!神宮生徒!!生きた心地がしなかったねぇ?!」

東雲は極限状態の開放から変な精神状態であった。

やはりまぁ彼女もそれなりに緊張していたらしい。

さすがにあの状況は楽しめなかった。

「いやはや、男だよ神宮生徒!!あんなむちゃする私達ぁおとこだ!!あんたも漢!私も漢!翔空も漢!みんな漢だよ!!」

「お前は女だろ…」

そうつぶやいたが、東雲には聞こえなかったらしい。

まぁ、別にいい。気持ちが弾むのもわかる。

ある意味で貴重な体験だった。

野生の黒龍に襲われ絶体絶命の状況をまったく前例の無い危険な戦法で打開する。

のちのち言い話のネタになるだろう。

神宮はすっかり手綱を緩めている。

今は翔空の好きに飛ばしてやろう。

なんにしろ、つかれた。少し休みたい。

まぁ翔空も学校の場所くらい知っている。こと空のことに関しては僕以上に詳しいはずだ。

勝手に学校まで僕らを連れてってくれるさ…ん…?


その時、神宮は何かを思い出しそうだった。

が、

「いやぁ!!天晴れ!人間最後まで全力を尽くすもんだね!!」

今だ勝利に舞う東雲の明るい声に綺麗さっぱり押し流された。

案外、この声は聞いていて心地よいのだ。

「ごらんよ!神宮生徒!夕日さ!もうこんな時間なんだね!なぁんか、今見ると格別だねぇ!一日の終わりって気がしないやぃ!」

「ああ、まったくだ」

東雲の言うとおり、西に沈む夕日はやたらと綺麗であった。

ああ、夕色にそまる龍連山脈を眺めながら帰るってのも、なかなか一興かもしれない。

酒があれば、なおさらだな。

年甲斐もなく、そんなことを考えた自分に少し微笑んだ。

背中に張り付く少女の体温が心地よい。



んが、既に時刻は6時30分を過ぎていた。

学校では町に遊びに行っていた連中が戻り、総員点呼がかけられすぐさま神宮と東雲が『行方不明』であることが班長より教官に報告された。

ほどなくして龍舎から翼竜が一匹『脱走』していることが発覚し、急遽生徒教官総出でで『捜索隊』が組織され、大騒ぎとなる。


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