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第五話「微睡みの追憶」

 酷く、熱い。恐ろしく、重い。

 灼熱の底なし沼に少しずつ沈んでいくように、熱く、重く、そして暗い。


 たまらなく眠い。何より気怠い。

 ほんの少し前まで、全身が痒かったような気がする。まるでなめくじが皮膚のありとあらゆる場所を這っているような、強烈な、いや、筆舌に尽くしがたい掻痒感だった。

 ……はずだが、その記憶さえも曖昧になるほどに、摩耗している。それほどまでに時が経ったのか、それとも一瞬にすぎないのか、時間の感覚さえもあやふやだった。朦朧とする。全身を覆う疲労感に、ひれ伏しながら落ちていく。


 不意に、失われつつある、と思い至る。

 暗澹とした泥濘(でいねい)にゆっくりと揺蕩(たゆた)い、じわじわと輪郭が融解するのが分かる。自身の身体に焦げ臭い熱が籠り、雪が融けるかのように身体とそれ以外との境界が解けていくのを感じる。形骸を失いつつあると理解して、静かに狼狽し、呻いた。

 ヒュウ、と声帯が震える。蠅の羽音にも満たない音に、悲鳴を上げる力さえ失っていることに気付く。覚醒も錯乱も混沌もなく、ただひたすらに、漠然と、泰然と、死ぬのだな、と思った。


 死ぬ。そうか、死ぬのか。


 何かとても大切なことがあったような気がする。忘れてはならないことがあったような気がする。何かに突き動かされ、狂ったように懸命だったような気がする。

 それは何だったろうか? 義務だったろうか、責務だったろうか、使命だったろうか、運命だったろうか、それともただ単純な気まぐれだったのだろうか。

 それさえも思い出せない。茫漠としている。ただただ死期に覆われ、散り散りになろうとしている。


「………・・・・・・」


 ふと、鼓膜が微動した。震えは(かす)かに心の琴線に触れた。

 何だろう。いや、誰だろう。こんな私に誰かが声をかけているのだ。

 私? 私とは何だったろうか?

 細い糸を手繰るように、意識を辿る。見る、という行為をはたと思い出す。筋肉を動かすための無意識に近い動作を。

 目を開こう。そう思って、力を込める。鉛のように重たいこの目蓋を広げよう。

 徐々に半円状に視界が開かれ、私は声の主に焦点を合わせる。視界に捉え、目を合わせる。


「……だいじょうぶ?」


 幼い、猫のような紫の瞳だ。ああ何という事だろう、私はこの目に覚えがある。とても大切なものの一端に、確かにあった色だ。大切なもの。守ろうとしていたもの。何だったろうか。

 記憶を探ろうとして、ほぐれていく。掻き集めようとして、壊れていく。


「泣かないで。きっと元気になるよ」

 手を差し伸べられる。私に触れる。瞬間、激しい痛みに襲われた。

「ごめんなさい!」


 自分が崩れた。幼い手にべっとりと、黒焦げの皮膚と漿液(しょうえき)とが張り付いた。幼い紫の瞳が大きく恐怖に見開き、酷く怯えている。


「そんなに恐れないで。大丈夫だから」そう言おうとして、やはり声は出なかった。笑おうにも筋肉が固まり微笑むことも出来ない。そもそも私の顔は、人の顔のそれではないかもしれない。

 あんなにも炎に撒かれた。全身が火だるまになったのだ。


 火だるま? ……違う。

 何が違う? ……何もかもが違う。


 そうだ。そもそも、私は私ではない。これは私の身体ではない。これは私の感覚ではない。これは私の記憶ではない。

 私は…………、“僕”だ。


 自分を正確に認識して、ニルヤは“それ”が夢だと気づいた。夢だと気づいた途端、頭が割れるように痛んだ。ぐらぐらと脳を揺さぶられるような激しい眩暈に吐き気を覚えたが、吐きだす力が湧かない。燃えるように体が熱く、縛り付けられたかのように力が入らなかった。


「ミシャ。大丈夫だ」

「でも、先生……」


 すぐ傍で声がする。教師とミシャの声だ。酷く不安に駆られた声だった。彼女もこんなにも弱気になることがあるのか、と、下らないことを思う。


「安心しなさい。君の咄嗟の判断は正確だった。お陰で軽い手の熱傷だけで済んだ。煙を吸い過ぎてしまってはいるが、鼻腔や気道は異常ないし、呼びかければ反応もある。次第に意識の状態も安定する。治療も早かったから、意識が改善すれば治りも早いし、後遺症もないだろうと、医師も言っていたよ」

「……私のせいです。私が魔石を交換なんかしたから」


「過ぎたことで自分を責めすぎてはいけない。元気になったら改めて話をしよう。あんまり話をしすぎて罰則の話でもしようなら、ニルヤはそれこそ起きないかもしれない。今も、耳をそばだてているかもな」


 さすが先生だなぁ、と苦笑しようとしてガンガンと殴られんばかりの頭痛に笑みを潰される。

 頭痛を緩和させるためだろうか、だんだんと眠気がやってきた。意識が遠のいていく。体が安静を強く望んでいる。心と体が日向に包まれたようにほぐれ、乖離して、どこかに引き寄せられる。


「君は」

 落ち着いた声色で、

「君は最善を尽くしたよ」

 誰かがそう、呟いた。


 眩い光。白い闇。

 覗くと、そこに父がいた。

 黄昏時の光に包まれた部屋の中で、ニルヤの父が、椅子に座り顔を覆う母の肩を抱いていた。

 母の目元が光る。母がさめざめと泣いていることに、ニルヤは驚いた。母親という生き物はニルヤにとって、いつも笑っていて、涙とは縁遠いものだったから。


「でも……、もっと何か出来たんじゃないかしら」

「薬草も、スライムも、炎症や脱水を抑えるための方法は尽くした。だが、肺まで焼けてしまったら、難しい。あの子は気道が膨れて息を吸うのもやっとだった」


「でも一度、安定していたわ。きっと何か原因があったはずよ。悪いものが体に入るような、なにか原因が……」

「自分を責めるな」


 父の声に力が籠る。迷うのを引き留めるための強い、だが穏やかな口調だった。


「君は医師として、全力を尽くした。これ以上ない医療を与え続けた。けれども人の命は人のものではない。神のものだ」

 母の頭を撫でながら、

「せめて安らかな旅立ちを祈ろう」

 そこまで聞いて、ニルヤは後退った。とても悲しいことが起こったのだと思い、不安に駆られて、その場を背にした。


 母がこんなに悲しい思いを抱く。直感的に思い当たり、ニルヤは走り出した。

 身体が軽やかに進む。廊下を渡り、裏口から庭に出た。太陽が山へと落ちようとしている。斜陽が世界を裂くように輝いている。

 自分の首元まで伸びる草木をかき分けて、向かったのは診療所、と呼ばれる建物だった。自宅から離れて建てられた診療所は母がいつもいるところだった。

 診療所の扉に手をかけて、取っ手を手前に引く。重い扉だが、体重をかけるように引くと開く。いつもならば。


 そう、その日は開かなかった。


 ニルヤは思う。開かなかったのだ。


 いつもならばすぐに開く。両親が自宅にいる時は診療所玄関は開けられている。奥に人を休ませているのだから、締め切ることはない。締め切られているということは、つまり、ニルヤの思い当ったことが起こったのだ。


 ――――――――――死。


 死んでしまったのだ、“黒ずんだもの”が。診療所で治療していた“彼女”が。

 ニルヤは掌を見た。ふくふくとした、小さな手だ。雪のように白いその手が、だが、幼いニルヤには赤く染まっているように見えた。


 診療所には入らないようにと母に言われていた。その約束を破り、黒いものに会いに行き、あまつさえ興味本位で触れてしまっていた。

 ニルヤは自身の手が赤く染まっている幻に、声をあげた。

 子ども特有の金切り声をあげながら泣いて、しかし母と父のもとに行くのも怖く、ニルヤはへたり込み泣くしかなかった。ニルヤの泣き声に母と父はすぐに自宅から出て駆けてきたが、構わずニルヤはその場で泣き続けた。


 わんわんと泣き続けるニルヤを母が抱きかかえる。泣いていたはずの母は、どうしたの、と困ったように微笑んだ。

 夕暮れの光の中で、温かく優しく子を慰める母と、母に包まれながらも泣く小さなニルヤ。

 その姿を、十二歳のニルヤが見詰めていた。ニルヤが二人いる違和感に気付いて、ああ、これも夢だと悟る。

 ――――――夢だ。長い夢を見ている―――――


 夢だと気付いた瞬間、軽やかだったはずの身体が重力を知る。手足の先まで筋肉や骨の重たさを感じて、ニルヤは目を開けた。


 眼前に、白い天井が広がっていた。

 胸元にリネンの柔らかさがある。頭痛と眩暈は残っているが、大分楽になっていた。熱も収まったのか、怠さがない。衣服が湿っているのは、汗をかいたからだろうか。


「医務室……かな」


 ゆっくりと体を起こしてみた。と、右側を重く感じて、視線を落とす。


 ミシャだった。ミシャがニルヤの横たわるベッドの傍らで、寝具に上半身をあずけ腕を枕に小さな寝息をたてていた。

 予想外の展開に目を丸めつつ、そっとミシャを起こさないように体を戻す。耳元にミシャのか細い吐息を感じて、ほんの僅かだけ左に体を寄せた。


(なんで……?)


 看病でもされていたのだろうか。しかし、看病はであり、医療従事者の仕事でありミシャの仕事ではないだろう。頭に疑問符を浮かべつつ、ニルヤは再びミシャを横目にする。どう見ても、ミシャだ。間近にある深く閉じた目蓋に、艶やかで長い睫毛、雪肌(せっき)に灯る健康的な赤味。

 ミシャって、こうして見ると、女の子だ。

 ミシャが聞いたら噛みつきそうなほど失礼なことを思いつつ、ニルヤは寝具に鼻まで潜り込んだ。


 沈黙しつつ天井を仰ぐも、どうにも身体の位置が定まらない。

 左側にある小窓から明るい光が差し込み、本来ならば麗らかな陽気に爽やかな気分が生まれるはずだが微塵も生まれない。妙なおさまりの悪さに、ニルヤは再び現実を疑う。


(……夢かもしれない)

 眠りすぎたと思うし、と、再び見やるも、やはりミシャがいる。心と体がはっきりとしているし、整合性もあるように思う。やはり、夢ではないようだ。


(助けてくれたんだよね)

 魔石を使いそれが暴発してしまった。魔石がニルヤの意識を遠ざけ、火柱をあげた。それを、ミシャが機転を利かせて抑えてくれたのだ。やや記憶に靄がかかっているが、あの時確かに、ミシャに助けられたのだとニルヤは思う。

 上着を脱いで、魔石を掌から包み取ってくれた。激しい炎だったというのに、怯むことなく。


 そう思い出して、ニルヤはハッとした。ミシャは大丈夫だろうか。ケガをしてはいなかったろうか。

 すぐさま目を走らせる。髪、耳介、頬、鼻梁(びりょう)、腕まで見て、ニルヤは息を止めた。枕代わりに組まれた腕、そこから覗く手の甲に熱傷の跡があった。丁度、親指二本くらいの大きさの紅斑にぽつぽつと水泡が出来ている。


 衝撃に胸を刺されて、「ミシャ……」無意識に声が出ていた。

 ニルヤの呟きに、ミシャがううん、と小さく唸り、ゆっくりと顔を上げる。


 寝起きの薄目で呟きの主を探し、まどろみつつニルヤを捉えると、瞬時に両手を伸ばし距離を置いた。みるみるうちに赤くなる。

 開口一番、出たのは

「バカ! 起きるなら起きる前に言ってよ!」

 怒りの咆哮。……激しく無理難題の。

「起きる前に言うなんて、無茶だよ」

「言い訳しないで! そういう事じゃなくて、でも、そういうところがダメなのよ! 全然ダメ! 駄目ニルヤ! 馬鹿ニルヤ! ニルヤがこんなにねぼすけだとは思わなかった!」


 怒涛の罵倒に、

「ええ~……」

「ええ~、じゃない!」

 ピシャリと返し、

「兎にも角にも漸く起きたわね! 起きたら先生に呼ぶように言われてるから、首を洗って待って黙って寝てなさい!」

 ミシャはそう言い捨てると、病み上がりの顔面に両の手を思いっきり押し付けた。


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