第四話「魔石」
明るい陽射しが温かい。ニルヤは昨日の疲れの残る自身の体を、じわじわと芯から癒してくれる優しい光を味わいながら、教室の机に突っ伏していた。
「おはよう、ニルヤ」
「おはよう、ミシャ」
声を掛けられて、枕代わりに組んだ腕に顔をうずめたまま答える。
「あ~……」
深い息を吐きながら、ミシャの声がくぐもる。ミシャもまたニルヤと同じように机に突っ伏したのだろう。
「ねー、ミシャ」
「んー?」
「温かいね」
「そうね……」
「ねー、ミシャ」
「んー?」
「癒されるね」
「そうね……」
普段ならのミシャならば「しつこい!」とあしらうような会話だ。ミシャもまた、昨日の疲れがまだ完全には回復していないのだろう。筋肉痛にならなかっただけお互いマシ、というところか。
「ねー、ミシャ?」
「んー?」
「キールに、なんか僕、しちゃったかなあ?」
「んんー?」
声がワントーン下がる。ニルヤが顔を真横にすると、ミシャもまた腕を枕にしつつもこちらに顔を向けていた。
「昨日、なんとなくそう思ったんだけど……」
「…………」
ミシャが渋い顔をしながら押し黙る。
「気にしない方が良いわよ。昔からあんな感じだもの。変にしつこくて、つまらないことに固執するのよ」
周りに聞こえない小さな声だ。
「昔から?」
「そう。私よりチビすけだった前からよ」
どうやら二人は古い知り合いのようだ。そういえば、とニルヤは思いだす。ミシャは元々、初等学校までは城下町にある学校に通っていたと言っていた。この国立魔法学校魔物学部には、高等学校からの入学である。キールもまた、そうだ。
ほぼ毎日顔をあわせ、一緒に朝日を仰ぎ、同じ釜の飯を食べ、様々な勉強を苦難ともに乗り越えてきた相棒・ミシャ。もう随分と長い付き合いのように思えていたが、まだ一年も経っていないと気づいて、ニルヤは奇妙な気持ちになった。春が来て、漸く一年となる。
「そういえば、ミシャはどこの学校に通っていたの? 城下町の……」
「剥製が完成したらしいぞ!」
ニルヤは言いかけて、途中で口を噤んだ。飛び込んできた単語に、体が固まる。
「剥製って、エンシェントドラゴンの剥製か!?」
「これが来たんだよ、うちに!」
一つの席に人だかりが出来ている。わいわいと盛り上がり、群れをなす。
「ニルヤ?」
唖然とした様子で顔をあげたニルヤに、ミシャが心配そうに尋ねた。
「どうしたの?」
ニルヤは無言のまま椅子から腰をあげると、すぐにその群れに押し入った。
「なんだよ?」
群れの中心にいたのは、キールだった。
机に、ある大判の紙を広げている。それには、古くからモンストラシアの人々に語り継がれるお伽噺“お国物語”に出てくる“むかしむかしのあかいりゅう”の挿絵が大きく載っていた。
そしてその下部には、
――――――エンシェントドラゴンの剥製が完成! モンストラシア国立博物館にて公開決定!
体がぐらりとした。突然殴られたかのようによろめき、ニルヤは机に手をついた。ドクドクと心臓が早鐘のように打つ。
キールはふぅんと鼻を鳴らすと、
「これさ。特別観覧券。すごいだろ?」
ぴらぴらと、一枚の細長い券を煽るように振った。
「学芸員の親戚がいるんだ。抽選なんかしなくても、こういうのがよく送られてきてさ。余って仕方ないよ。一般公開される頃には、いつも飽きちゃうんだ」
わざとらしい嘲りの笑みを浮かべて、キールが観覧券を机の上に置く。
「行きたいか?」
表情を曇らせるニルヤに、
「お前にはやんねーけど!」
さっと目の前で観覧券を取って、キールは隣の少年に手渡した。まさか自分にお鉢が回ってくるとは思っていなかったのだろう、少年は慌てたように受け取ると、すぐさまそれを大事そうに胸ポケットに仕舞った。
「キール」
いつの間にかミシャがニルヤの背後に立っていた。そして呆れたように、
「本当にあなたは、子どもだわ」
そう呟くと、ミシャはニルヤとキールの間に割り入り、睨み付けた。キールは一瞬怯むように首を後ろへ動かす。
「なんだよ。文句でもあるのかよ」
「文句言うほど、暇じゃないし興味もないわ」
ざっくりとミシャは言い放つ。何か言いたそうな様子のキールを無視して、ミシャはニルヤの肩を押した。そのまま人だかりから出ると、ニルヤの袖を引っ張り、自席に戻す。
「下らないわ。全く、昨日からなんなの。気にしちゃだめよ、ニルヤ」
そう言って、再び机に突っ伏そうとして、
「ニルヤ……?」
ニルヤは俯いて口元を強くしばり、顔を歪めていた。涙の粒を漏らすまいと、必死に堪えているようだ。
あまりにも暗いニルヤの表情に、ミシャは困惑した。
「あんなの……。半年もすれば並ばなくても見られるようになるわよ」
ミシャの慰めの言葉に、しかしニルヤはかぶりを振った。
「違う」
――――違う。
ミシャは知らない。ニルヤとエンシェントドラゴンカラハイの仲のことを。知らないどころか、想像することすら出来ないだろう。
それにニルヤには、言葉にすることなど出来ない。不思議な巡り合わせを持つ、夢でのみ会える友のことは、誰にも語ったことはない。秘密の絆だった。どんなに親しい間柄であっても、説明などしようはずがない。
その友達が死に、体を引き裂かれ、解剖され、剥製となった。そして人の目に、その遺体が晒される。
苦しい。分かっていたことではある。でも、こんなにも苦しい。
目と頬が燃えるように熱く、唇がわななき、首が絞められているような感覚。背筋が、肩が、指先が冷たく痺れ、がらんどうになったかのよう。心臓に突き刺さった氷の刃は、激しい痛みを伴いながら、深く、また深く沈んでいく。
氷の刃はニルヤの体をも内から引き裂く。深々と刺さった刃はニルヤの内臓、肉、脂肪を引き裂き、引きちぎり、バラバラに分解する。
空虚だ。虚無だ。空っぽだ。大よそ生命らしいもの全てを奪われて、干からびかけの皮膚だけとなって、魔石で真空凍結させられ、形を整えた樹脂の塊を入れられ……。
陳列する。照明を当てられ晒されて、好奇の目に再び穿たれる―――――。
語ることなど、出来ようはずがない。
『物討伐の遠征のさ中、遠征が長引いた、食料が尽きちまった、物資は来ない。じゃあどうする? ってね。戦場で野菜やら何やら育てるってのは無茶な話だしね。そういう歴史が、かつてはあったのさ』
昨晩のことを思い出す。
魔物と戦ってきたという歴史。人と魔物のことを。人と魔物のその関係性を。人と魔物は異種であり、咬み付き合い反発し、隔てを置き、けして交わることなく異なり続けてきた。
ニルヤのこの感情は、ある種の異常だ。人と魔物との関係性における特異点。
意識の端に、ふいに記憶が浮かんだ。
思えばカラハイは、ニルヤが魔物について国立魔法学校で学ぶことを決めたと告げた時、良い顔をしなかった。喜ぶものかと思いきや、彼は寂しげに「そうか」と、頷くだけだった。この学園のどこかの大聖堂で恐らく暮らしていたはずなのに、最初に出会った時の魔法のように、夢以外で会おうとはしなかった。
はたと気づく。その距離に。その壁に。
今さらに思い至る。特異点に近づきすぎたニルヤを、彼は憂いていたのかもしれない。賢い彼は自身が死んだらどうなるか、恐らく理解していただろう。どんな思いで彼はニルヤの夢を耳にして、どんな思いで静かに見守ったのだろうか。
この感情に意味はない。
言葉など、説明など、そんなものには意味はない。心の置場さえない。静かに爛れて、雨曝しにされ、やるせなく寂寞と、誰に語られるでもなく時の中に置き去りにされるだけの、傷。
「そうじゃない」
掠れてく。壊れてく。朽ちていく。
「そ、そんなんじゃ……ないんだ」
ただそれだけ小さく告げるのがやっとだった。頭が割れるように痛んだ。心も体も、恐ろしく冷たい。
ニルヤは再び突っ伏すと、声を押し殺して友思い、泣いた。
*****
エンシェントドラゴンの剥製が完成とその展示を報じる掲示が学生掲示板や食堂などでも散見されるようになってきた。
数十年に一度、選ばれた物しか目にすることの出来なかった伝説上の魔物を、誰もが観られるようになるという事実は、魔物学部の生徒たちのみならず、国立魔法学校で勉学に勤しむ他学部の学生たちにとっても吉報のようであった。皆、目を輝かせて魅入っており、中には広告をこっそりと持ち去ってしまう者までいた。
学園の外に出れば、恐らく街でも同じようなことが起こっているだろう。かつて神と等しく語られる時代もあった竜の人気は、魔物の中では別格である。
世間の浮かれた様子と反して、ニルヤの表情はどんどん硬くこわばっていくようだった。授業に全く集中しておらず、そればかりか、大好きな魔物の世話さえもどこかおざなりで、常に悄然としていた。心だけどこかへ行ってしまったかのようだ。
授業中に教師に当てられても、いつものように緊張するでも焦るでもなく、まるで“関心”がないかのように「分かりません」と答えて坐する。
そんなニルヤを横目にしながら、ミシャは思った。
少し前も、同じようなことがあった、と。
確か、エンシェントドラゴンが亡くなった日だった。その日ニルヤは授業を休み、数日ほど同じように鬱屈としていた。
ミシャはしばらく思案すると、わざとペンをニルヤの方へ転がした。コロコロと軽い音を立てて転がり、ニルヤの小指に当たって止まる。
「……あ」
当たってから数拍置いて、ニルヤが反応する。ニルヤはペンを取ると、掠れた声で「はい」と、ミシャの下へ戻した。そしてまたぼうっとして、窓の外の景色に顔を向けた。意識を適当に窓の外に投げ出して、ただ頬付けをつく。
ニルヤが消沈するその理由が分からない。恐らく、エンシェントドラゴンが関係するのだろう。竜に関する話を耳にした時のニルヤの感情の波は激しい。
先日の魔法学の授業での様子を、ミシャは想起する。光の竜が飛び回っているのを、紫の双眸が赤くなるんじゃないかと思うくらい真剣に、感銘した様子で見入っていた。
竜が好きなのだ、特に、エンシェントドラゴンに心惹かれている―――――。
そこまでは分かる。だが、その先が分からない。どうすればニルヤが、普段通りのニルヤに戻ってくれるのか。
ミシャは静かに、溜息をついた。
*****
次の授業は、魔法学だった。教室で教科書を用いた座学が定番の魔法学の授業だが、今日は屋外が集合場所であった。
学舎のすぐ傍らに作られた庭園。その中央にある石畳の広場に、学生たちは集まっていた。
冬の終わりかけの庭先は寒く、時折風も生徒たちを縫うように過ぎる。だが、そんな寒さを生徒たちはあまり感じてはいないようだ。
厚着だからではない。皆どこか、興奮した面持ちで、期待に胸を膨らませている。そんな様子の彼らの手には、藍色の石が誇らしげに輝いていた。
石の形や性質は様々で、川辺の石のようなに光沢のない石を持っている者や、中には宝石のような透き通った石を持っている者もいる。
ニルヤの石は光沢がなく光を通さない深い群青の、ラピスラズリに似た石だ。ミシャはというと、両手に持って石が周囲に見られないようにしているようだった。
「それでは、始める」
魔法学の教師が生徒たちの中央に立った。
「魔法とは、目に見える引き合う力と反発し合う力である。魔法の力量を魔力といい、魔物は魔力を骨髄などに蓄えて使用する。しかし、人間は魔力を蓄えることができない。人間が魔法を使うためには、君たちがそれぞれ手に持っている魔石が必要だ。まさか、魔石を忘れてきたものはいないな?」
生徒たちは皆、首を横に振った。
「ふむ。君たちは皆、次の級に上がることが決まっている。上級生となったら、座学よりも実習が増えることとなるだろう。魔法学も、魔石を使ったものが多くなる。魔物を知るためには、魔法を使うことが大前提だからだ。今回の授業では、魔石の扱いの基本を学んでいく。初めての魔石の授業だからと、浮かれすぎないように。魔石は、ただの石ではない」
教師は生徒たちの背後にある学舎を指さした。
「魔石は身近に存在する。例えば、もしも学舎に何者かが侵入を試み攻撃をしかけたとする。すると防御用の魔石の力が発動し、周囲に魔法の壁による防御壁が発動し、我々と魔物を攻撃から守ってくれる」
次に、教師は自身がはめている指輪を生徒たちに翳して見せた。
「これも魔石だ。大事の時は、これで君たちを守る。……そういった使い道でなくとも、例えば暖炉に急いで火をつけたいが手元に火打石がない、そんな時なども有効だ。魔法で火を起こせばいい。魔法は知恵であり剣や盾だ。これをしっかりと、頭に入れておきなさい」
そう言ってから教師は、最も近い位置に立っていた女子生徒に歩み寄った。
「少し、魔石を借りる」
魔石を受け取ると、
「魔石には純度がある。透明であるほど、純度が高く、扱いもしやすい。この石は……」
透明に近いが、光に翳すと不純物が僅かに漂っている。
「……なかなか良い石だ。新しく買ったものか?」
「いえ、祖母から譲り受けたものです」
「花嫁道具に持って行っても良いくらいの品だよ。大切に扱いなさい」
女子生徒へ魔石を返し、
「君たちにひとつ、注意がある」
教師は生徒たちの石をそれぞれ見渡した。
「純度の高い石は高価だ。売買されている魔石には全て、鑑定書がついている。高純度のものに至っては、同じ重さの金よりも遙かに高い。また、鑑定書の発行と同時に公的な登録がなされている。万が一、授業に忘れてしまった場合は生徒間の貸し借りはせず、私にいうこと」
続けて、生徒たちに掌を広げる。
「魔石には癖がある。安易に人から魔石を借りて使用し、自身の魔石との扱いの違いに気づかず、暴発し怪我をするということは多くある。上級生で指のない者は、そういう失敗をした者たちだ」
生徒たちの表情が青ざめて固まる。その様子に苦笑しつつ、
「なあに。正しい使い方をすれば、魔石ほど人類にとって有効なものはない。百五十年前に魔王討伐が成功したのも、魔法の力のお陰だ。……決まりを守ること」
教師は語尾を強めて説き終わると、「さて」と、手を叩いた。
「それぞれ両手を広げ、手が重ならない位置まで距離をとりなさい!」
教師の指示に従い、生徒たちが散らばっていく。
「次にゆっくりと、魔石を両手に包み、魔石に集中しなさい」
「そして、魔石のことを考えるのではなく、魔石があるということ、掌に感じるということを意識しなさい」
「最後に、魔石を冷たい石ではなく、温かいものだと意識をしなさい。ゆっくりと、ゆっくりとだ」
生徒たちが言われた通りに倣う。両手に魔石を包み、じっと凝視する。魔石の存在を感じる。冷たさ、硬さ、重量、形状……。そしてそれを否定し、温かいものだと意識する。
「温かいものはどんなものだ? 震えるもの、脈打つもの……温かいものは総じて、動き回っている。目を瞑り、思い出せ。考えるのではなく、思い出しなさい」
作り立てのシチュー。ひなたぼっこをする猫。暖炉のわきで暖まった布団。母親や父親の温もり。
それらの“温かいもの”を生徒たちが心に浮かべ始めて、どれほどの時間が経ったか。
やがて、沈黙を割るように、わぁっと生徒たちの一部から感嘆の声が湧いた。冷たいただの石のようであった魔石が、次第に熱を帯びてきたのだ。
ミシャもまた、掌に熱を感じ始めていた。徐々にその温かさは、掌から腕へ、そして体幹へ、全身へと広がっていく。屋外で冷えてしまった体が、芯からじわじわと温まっていく。
ミシャは驚きと感動にたまらなくなり、「ニルヤ!」と隣にいるニルヤへ声をかけた。
「……ニルヤ?」
ニルヤは一人、唇を噛み険しい顔をしていた。冷たく冷めた、魔石を握りながら。
魔石に全く変化がない。焦燥に駆られ始めたニルヤの、そのこめかみから一筋の汗が落ちる。
「ニルヤ、大丈夫?」
呼び掛けられ、ハッとしてニルヤはミシャを見た。
「……全然だ」
眉根が気弱に下がる。汗を片手で拭ってから、再び魔石に集中するも、どんどん表情がこわばっていく。
「なんでだろう。わからない」
両肩をがっくりと下げて、呟く。
せっかく故郷の村の者たちが、ニルヤの為にと送ってくれたものだ。使い倒しても良いようにと、学生に人気のある魔石を選んでくれた。
「ニルヤ。石が温かいんだって、思い込まなきゃ」
「うん……、そうだね。……うん」
カラハイのことを思い、授業をずっとなおざりにしている。どうしても心の整理がつかず、身が入らなかったことが、沁みついてしまったのだろうか。
ニルヤは臍を噛んだ。数日ずっと、迷いがある。頭は回らない。
それでも、少しでも、期待に応えたい。
ニルヤはそう思い、仕切りなおすように深呼吸をした。
再び、魔石に集中する。石のことを思う、掌にある重みを感じる、石そのものの感触をしっかりと刻む。そしてそれから、更に集中する。抽象的な感覚から、より具体的な、温かいものを思い浮かべる。
風呂の温もりや、春の日差し――――。
これは、温かいものなのだと――――。
……しかし。
「ダメだ。わかんない。温かいって、思うんだけど……」
集中力を掌に繋げようとして、続かない。パチンと、切れてしまう。気持ちが透き通らず、濁って、千切れていく。カラハイのことが影響しているのか、分からない。変わらないが、何故だかまるで何かに心を弾かれてしまうかのように、全く、集中できない。
落ち込み口を閉ざすニルヤ。ミシャはそんなニルヤに顔を向け、じっと見据えた。
そうして唇を噤んでいたかと思うと、突然、ニルヤの足元に自身が持っていた魔石を放った。それを拾うかのように、全く自然な動作で手を伸ばすと、立ち上がりながらサッと、ニルヤの手から魔石を奪った。そして自身の魔石をニルヤに握らせ、手を離した。
「ミシャ?」
魔石をすり替える、というミシャの思いもよらない行動に、ニルヤは目を丸めた。
「静かに」
要領のよい、優等生のミシャらしからぬ行動だ。普段ならばけして、こんなことはしない。あまりのことにニルヤは、諌めるように小声で疑問を投げかけた。
「何で? ミシャらしくないよ。先生があんなにダメだって……」
「――――黙って。誰も見てない。良いから」
ミシャは重たい声色でニルヤを制すると、何事もなかったかのようにニルヤの魔石で、それを使う“ふり”を始めた。
ニルヤは困惑しながら、無理やり握らされた魔石を、指の間から見た。
青よりも水色に近い、やや緑がかった、透き通った石だった。ニルヤの掌の皺が、美しい水を掬い取ったかのようにくっきりと見える。魔法専門店でも、見たことがないほどに際立った高純度の魔石。
ゾクッと怖気が走った。石というには、あまりにも綺麗すぎる。吸い込まれるほどに、美しい。
――――魔石には純度がある。透明であるほど、純度が高く、扱いもしやすい――――
それは無意識に近いものだった。渡された魔石の美しさに魔が差した、と表すには遠い感情。
忘我。無我。心が、魂が、引き込まれるままに、引きずり出された潜在意識。
ニルヤの心臓の奥深く、記憶の先に染みついたもの。
美しいもの。温かいもの。
“ニルヤ”
囁くもの。遠くへ逝ってしまったもの。
時の流れと共に残酷にも、忘却へと向かってしまったもの。
(おかあさん……?)
母が腕を開き、ニルヤに微笑む。
美しいもの。温かいもの。
ニルヤの魔石が、幽かに光を抱き、徐々に熱を帯びていく。その様子に、ミシャが声を弾ませる。
「ニルヤ。その調子ね。……ニルヤ?」
ミシャはすぐに、違和感に気づいた。何かがおかしい、と。
沈黙し、紫の目を見開き、両の手の魔石を見下ろす相棒。何かがおかしい、何かが。
「ニルヤ? ニルヤ!」
片手を伸ばしてニルヤの肩を掴み、その身を揺らす。反応がない。おかしい。視線を走らせ違和感を探る。
ミシャは声を掛けながら不気味な感覚の正体を探し、――――ようやく気づいた。
息をのみ理解し、背筋が凍りつく。戦慄に貫かれながら、瞬時に悔いる。そうだ。なんてことを。
――――瞳孔が、開いている。
「ニルヤ! 先生! ニルヤが!」
ミシャの絶叫を遙か彼方に、遠のくニルヤの意識の中で何かが激しく駆け巡る。
美しいもの。温かいもの。母親の記憶。柔らかいの腕。心音。微笑み。蠢くもの。黒ずんだもの。甘い匂い。生臭い臭気。閉ざされたガラス窓。滴る血。燻る。怒号が襲う。
記憶の奔流の中、大人たちの力で地に押し伏せられ仰ぎ見たのは――――、
地獄の業火。
「ニルヤ―――――ッ!!」
爆発音と共に、炎が巻き上がる。まるで人形のように呆然と立ち尽くすニルヤの両の手から、炎が狂ったように噴出する。魔石が赤く火柱を上げる。
ミシャは絶叫した。そして頭よりも先に、体が動いた。
着ていた上着を脱ぎ、広げながらニルヤに飛びつく。無我夢中で、炎上する魔石を布越しに奪い取ると、石畳の上に転がった。ごろごろと炎を巻き込みながら、倒れる。
上着に抑え込まれた炎は、黒煙をあげながら魔石の力を失い、ミシャに抱かれて消えた。