第三話「縄張り争い」
日が昇るのが大分早くなってきた、とニルヤは思った。
起床の鐘が鳴る前にいつも目覚め、担当の魔物の飼育小屋へ行くことが高等学校入学以来の日課となっている彼は、普通の子どもよりも幾らか太陽の動きに敏感だ。
季節が移り変わり、日の出と日の入りの時間の変化で日照時間が変わると、植物も変化していく。融けた雪でぬかるんだ大地から、初春を告げる植物が顔を出す。彼らが芽吹くと、次々に緑が春だ、春だと目を覚ます。植物の芳香が眠りを覚まし、生命に満ち満ちると、食物連鎖も活発に動き出す。そうして、自然に息づく動物たちの活動にも変化が訪れる。魔物もまた、等しく。
魔物は多様性に溢れているが、動物と似た性質を持つものも多い。
……こんな風に。
(え、ええ――――!!!)
見慣れた魔物小屋がまるで廃墟のように壊れかけていた。石を重ねて作られたスライムたちの寝床は崩れ、石造りの簡素な寝床を支えていた柱は半分が折れ、敷板は剥がれ、餌場の箱は箱の形をなしておらず、敷き藁が周囲に飛び散っている。唯一、形を保っているのは柵だけだ。その柵も、ぎいぎいと不安な音をたてている。
スライム小屋のあまりの惨状にニルヤは大声をあげようとして、飲み込んだ。恐らく、真夜中に争いを起こしたのだろう。早朝になって僅かに収まったのか。原因は分からないが、これ以上の刺激を与えるわけにはいかない。
そう判断したニルヤの背中を、悲しいかな、飲み込んだはずの絶叫が叩いた。
「え、ええ――――!!!」
ミシャである。
彼女の悲痛な叫びを発端に、スライム達は怒りを再燃させ、再び活発に跳ね、地を狂奔し始めた。あれよあれよという間に、破壊は破壊を増して、ついに小屋が土煙の中で倒壊してしまった。
「ばか……」
ニルヤは頭に手を置いて項垂れると、
「とりあえず、先生を呼ぼう。ミシャ、行ってくれる? 脱走しないように、何とかするから……」
ピッチフォークを手に取った。
*****
「縄張り争いのようだな」
魔生物学教師の言葉に、ニルヤとミシャは「え」と思わず固まった。
「そんな。今まで彼らは争うことなどありませんでした」
ミシャが狼狽えて口を出す。
「恐らく、発情期が近いのだろうね。まだ寒い日が続いているから、もう少し先と予想していたのだが」
「発情期、ですか……」
ニルヤはスライムに関する知識を頭に浮かべた。
発情期。新たな群れを作る季節が来ようとしている。スライムの群れの一部が成長をし、各々の縄張りを主張するようになってしまったのだろう。スライムの場合、春にくることが多いという。
「春が来ましたね」
「暢気ね。ニルヤの頭の方が春よ、全く……」
呆れながらミシャは毒づくと、教師に向き直る。
「先生。どうすれば良いですか?」
「ふむ。縄張り争いが起こった際の対応に関しては、低学年では行わないのだが、この場合は仕方あるまい。どれ」
教師は木で出来た小さなケースを胸元から取り出して開くと、中から小さな瓶を取り出した。瓶の中には、浜辺の砂のようなものが入っている。
「それは何ですか?」
初めて見た道具に途端に目を輝かせるニルヤに、
「見ればわかる。お前たちはマスクとゴーグルをしなさい」
そう答えると、ゴーグルとマスクを付けて歩き出した。壊れかけた柵を手で倒し、スライム小屋に入っていく。
教師に言われた通り、ニルヤとミシャはキャスケットについたゴーグルを下げて目を覆ってから、オーバーオールの胸ポケットからマスクを取り出した。
何をするんだろう、とニルヤは疑問を抱く。
革製のマスクは鼻から頬、下顎までを密に覆うことが出来る。右に吸収缶という粉塵や毒素を吸収する濾材が詰まった小さな筒がついており、そこから吸気する。呼気は、左の逆流防止弁がついた筒から排出される。マスクをつけるということは、そういう類の刺激があるということだ。
教師は二人がゴーグルとマスクをしっかりと装着しているのを目視すると、瓶を虚空に投げた。宙に浮かぶ瓶に人差し指を向ける。指には、大きな橙色の石がついた指輪をはめていた。
教師が何か呟くと、指輪の石が炎のように光を放ち、瓶が一瞬で砕け散った。辺りに、砂が飛散する。
ニルヤは光景に、既視感を覚え――――、すぐに思い至った。
(おばけきのこの胞子だ)
進学して見習いになったばかりの頃、それぞれ担当する魔物の特性を教師が生徒たちに見学させた。特性とは時に人の命に歯牙をかけるもの、それを生徒たちに学ばせる為に、教師はおばけきのこをあえて刺激し、胞子をばら撒かせたことがあった。
教師の指導を守らず、手を抜いてゴーグルとマスクを付けていた者は、あっという間にその場で崩れ落ちて、ぐぅぐぅと寝息をたててしまった。
胞子が周囲を包み、ゆっくりと風に流されていく。黄色い霧状の胞子が完全に飛ばされていくのをしばらく待ち、教師はゆっくりと、瓦礫の山となったスライム小屋を片づけていく。
「よろしい」
教師の合図でゴーグルとマスクを外すと、ニルヤとミシャは壊れた柵を越えて、恐る恐るスライム小屋へと足を踏み入れた。
あ、と目を見開く。
おばけきのこの胞子によって、教師の足元でスライムが鎮静化していた。粘着質なその体をだらりと広げて、小さな水音を鳴らしている。
「おばけきのこの胞子で眠ったんですか?」
ニルヤがまさか言い当てるとは思っていなかったのだろう。教師はやや驚いたように眉をあげると、
「その通り。では、これからどのようなことをするか?」
教師がニルヤに問いかける。
ニルヤは初めての魔物対処法に興奮しきった様子ではっきりと応えた。
「争っていた個体を隔離します」
普段は緊張して口ごもることの多いニルヤの答えに、教師は口元を僅かに綻ばせながら頷くと、
「その通りだ」
ぱあっとニルヤの表情が明るくなる。その反応に嬉しそうにしながらも、教師は少しだけ言いづらそうに続けた。
「……だが、それは上級生に任せるとする。いつ睡眠がとけるか分からないのでな。お前たちの仕事は片づけだ。新しい柵と、小屋を作り……それから……」
教師の言葉にニルヤの顔がさざ波のようにさぁっと青ざめる。隣のミシャもまた、同様だった。
(これを、全部、片づける……)
ニルヤとミシャの心の中に激震が走る。見れば見るほど、凄惨な光景である。片づける、しかも、新しく作れという。ニルヤたちの顔色は青を通り越して土気色になった。
あまりに二人の顔色が悪いので、教師は慰めるように、取り繕った。
「……本日は特別に授業を免除し、スライム小屋の作成に集中して構わない」
それは勉強が好きなニルヤにとって、全く慰めにならない提案なのであった。
*****
フルメタルの鎧を装備したかのように全身が重たい。二の腕は痺れ、膝は歩く度にガタガタと揺れる。
「ニルヤ、酷いざまね。生まれたばかりの子羊だって、もっとまともに歩くわよ……」
「そういうミシャこそ」
青息吐息で学び舎の渡り廊下を歩く。スライム小屋の片づけと組み立てに、結局日没過ぎまでかかってしまった。疲労は限界を超えて空腹すら感じないほどであったが、食事を少しでも取らないと後々響くことを重労働の多いニルヤたちは知っている。
道のりを果てしなく長く感じながら、漸くニルヤたちは食堂へ辿り着いた。
食堂は既にその仕事の大部分を終えた後らしく、伽藍としている。並んだ長机には食器だけが残され、幾つかのランプの光に寂しく照らされていた。
長机を拭いていた恰幅の良いエプロン姿の女性が、疲れ切った二人に気づき手を止めた。
「あらっ、アンタたち珍しく随分遅いね! さては何かやらかしたね?」
「やらかしたのは、スライムの方です」
肩で息をしつつニルヤが答えると、
「縄張り争いで小屋を壊されました」
ふらふらと椅子に座ったミシャが付け加えた。
「そうかい。そういえば、もう春になるからねえ。まぁ、経験が増えれば、起こる前になんとなく予兆に気づけるようになるさ。今のうちにいっぱい、失敗しておくんだよ。その分、おばちゃんが元気になるモン作ってやるからね!」
ドンッと、食堂のおばちゃんは自身の胸を拳で叩いた。
「さて。何が食べたい? 残り物は嫌だろう。今日はもう終いだから、特別に何でも作ってやるよ」
有難い提案に二人は目を瞬いた。何でも、という言葉を耳にした途端、体は現金なもので、急に唾液が出て食欲が湧いてくる。ぐぅ、という腹の音が、二人の代わりに返答する。
「あはは! 何でも食べられそうな感じだね。どれどれ、すぐ作るからね」
食堂のおばちゃんはくるりと踵を返して厨房へ引っ込んでいった。ガチャガチャと調理器具がせわしない音を立てる。そして瞬く間に、甘い匂いが漂ってきた。鼻腔をくすぐる甘い芳香は、余り嗅いだことのない独特なものだ。牛乳のような……だが牛乳とも違う。
おばちゃんは宣言通りすぐに、ニルヤたちの座る席に料理を運んできた。サラダ、スープ、パン……見慣れた料理を手際よく並べると、最後にドンと大皿を置いた。まるで高級料理のように、釣り鐘状の銀の蓋――――クロッシュで隠されている。
おばちゃんは二人の前に立つと、クロッシュの柄に手を置いた。ゆっくりと二人を見据え、
「驚くなよ~?」
意味深長な笑みを浮かべたかと思うと、勢いよくクロッシュを持ち上げた。
薄く揺れ立つ湯気。もうっと上がる熱気。食欲を爆発させんとする馥郁たる薫り。
現れたのは、分厚いかたまり肉だった。塩と黒胡椒、それにバターが乗せられ、鉄板でじゅうじゅうと焼かれ、溢れんばかりの肉汁が蠱惑的に輝いている。
この学舎の食堂に運ばれたが最後、うすーくうすーく切られて提供されるのを待つのが本来の定めであろう牛肉の塊。それが己の運命を切り開き、今まさにステーキとなってニルヤたちの前に現れたのだった。
「ちょっと薄く切りすぎちゃってね。今日の分が予定より余っちまったんだよ。干し肉にするには脂が多すぎるし、アンタたち本当に運がいいね……。さぁさぁ! 冷える前に食べちまいな。」
「「いただきます!!」」
口をこれでもかと大きく開き、かぶりつく。瞬間、じゅわっと広がる牛肉特有の旨み。舌が喜びに悶絶する。胃が歓喜にその身を広げる。美味しい。泣けるほど美味しい。
((縄張り争いをして下さり、ありがとうございます……))
二人は思わず心の中で、目の前にいる食堂のおばちゃんではなく、スライムに感謝の意を述べた。
しかも、ただの極上のステーキではない。噛めば噛むほど、バターとも違う、甘みが増す。
「本当に美味しいわ……。でも、今まで味わったことがない気がするわね」
ミシャが舌鼓をうちながら首を傾げる。
「隠し味がなんだか、分かるかい?」
ぶんぶんと、二人は首を横に振った。
「蜜さ……。悪魔カエデのメープルシロップさ」
「「え……」」
悪魔カエデ。一見、普通の楓の樹のような姿をした、魔物である。幹や根を動かし、まるで動物のように動くことができる魔物である。
美味しい。美味しいのだが、まさか魔物だとは。旨みの正体を知って、フォークとナイフが石の如く止まる。
「おやおや。アンタたち。あたしの料理が食べられないかい?」
「あ、いや。だって、魔物の蜜を使うなんて」
「そりゃあ、偏見だよ。魔物だからって、食べられないなんて。じゃあ、マンドレイクはどうなんだい? 乱獲されちまって、今じゃ保護の為に禁止されているけれどね、昔は鎮痛薬や鎮静薬として、そりゃあ金よりも高価な宝石よりも高い値段で売買されていたんだよ。今だって、裏の世界じゃあ取引されてるって話だ。時々、マンドレイクの麻薬を使った事件が、新聞に載ってるだろう? マンドレイクが口に入れられて、悪魔カエデの蜜が食べられないってのは、おかしな話じゃないか」
おばさんの話に、ニルヤは目から鱗が落ちるようだった。魔物の一部は、確かに薬として重宝されていた。薬になるなら、食べることも出来るかもしれない。
魔物が食材になる。驚愕と共に(とんご)する。
「悪魔カエデもマンドレイクと同じ。大地とお日様からたっぷり養分をもらって、栄養が豊富で滋養だけじゃなく味も良い。だからあんなに動けるのさ」
おばさんは人差し指を立てると、
「今じゃあまあ、伝説に近いけれどね、古い書物の中には時に魔物を食料として扱ったという記録もちゃんと残っているんだよ。魔物と戦ってきた歴史の中で、人間は食糧難に悩まされることもあった。魔物討伐の遠征のさ中、遠征が長引いた、食料が尽きちまった、物資は来ない。じゃあどうする? ってね。戦場で野菜やら何やら育てるってのは無茶な話だしね。そういう歴史が、かつてはあったのさ」
「……知らなかった」
ニルヤが呟くと、おばさんは肩を竦めてみせた。
「まぁ、なんだかんだでやっぱり魔物だしね。魔物と戦ってきたっていう事実があるからね。気持ちのいいモンじゃないのは確かだ。こういうのは、大学でこっそりやるモンだからね」
「え!?」
ニルヤは耳を疑った。
「大学に入ったら、悪魔カエデは天上の御馳走だったと思い知ることがあるかもしれないよ……」
おばちゃんがニヤリと口角をあげる。その意味ありげな笑みにニルヤとミシャは目を合わせた。きょとんとする二人の肩を軽く叩くと、
「まっ。とにかく食えるってことだ! さぁさぁ、もう寝る時間だよ。風呂だって、もう締まっちまうんじゃないか? さっさと食べて、明日に備えるんだよ!」
促され、今度は躊躇うことなくステーキにナイフを入れる。再び堰を切ったように二人は、芳醇な味を次々と腹におさめていった。
*****
学生寮へと続く石畳の道。二人はお腹をさすりながら、歩を進めていた。思いがけない食事にありつけたことで、少しばかり足取りは軽い。
「ああ、お腹いっぱい。もう食べられないわ」
「うーん、貴重な体験だった……」
ニルヤは今日のことを思い返した。早朝からスライム小屋の惨事を見つけ、一日中やんややんやと動き回り、夕食に高等学校に入って初めてで恐らく最後であろうステーキ、しかも隠し味は魔物カエデのメープルシロップ。
「朝から面白かったけど、ちょっと疲れたね」
「へえ。面白かったの? ふうん、そう。……突っ込む気力もないわ」
草原や森林は、どっぷりと闇夜に浸かっている。もうとっくに、ベッドに入っているはずの時間だ。
湯で簡単に体を流して早々にベッドに入らなければ。少しでも夜更かしをしたら最後、きっと明日は起きられないに違いない。
「ん……?」
遠くから小さな光が近づいてくる。ランプだ。誰かがニルヤたちとは真逆の方向で、歩いている。四人だ。
「ミシャ」
「……こんばんは、キール」
同級の者たちであった。いつも四人で連れ立っている。ニルヤはあまり親しくしておらず……、寧ろ、どこかニルヤのような勉強を好む生徒を嘲笑している節のある者たちだ。
興味なさげにミシャが通り過ぎようとして、
「おい」
キールと呼ばれた少年に呼び止められた。
「こんな時間に何やってんだよ、外で」
ミシャは眉をひそめると、「色々よ。学生だもの」と心底面倒くさそうに返す。
「色々って」
「朝から先生に言われて課外授業。……キールこそ、これからお出かけ? 先生に見つかったら、大変よ」
「う、言うなよ」
「言わないわよ。もう良い? すっごく疲れてるの!」
琥珀色の目をぎりりと細めて、ミシャが言い捨てる。燃えるような赤い髪に目鼻の整った顔立ちを持つ彼女は、怒りを露わにすると妙に迫力がある。
キールはたじろぎ、焦ったように口を紡いだ。
「…………じゃあな」
「さようなら。おやすみなさい」
スタスタとミシャが早足になる。ニルヤは慌ててそれを追った。
「?」
不意に、舌打ちをされたような気がして、ニルヤは振り返った。
背後を見やると、キールは何故か、ニルヤのことをじっと睨み付けていた。
「お……、おやすみなさい」
後退ってから軽く頭を下げると、ニルヤは急いでその場を後にした。