速戦即決
その日の放課後。
「頼もう!」
あやなは自転車競技部の部室のドアを力任せに開けた。そして、そのままズカズカと我がもの顔で部室内に入っていく。
授業が終わったこのタイミング。一番メインの活動帯であるこの時間。
しかし、当の部室はシンと静まりかえっている。
「む? これはどういうことだ?」
首を傾げるあやな。
「……誰だ?」
そのとき背後から声がした。
その声に反応したのはあやなのよりも麻衣子の方が速い。
「こ、こんにちは。美樹さん」
「ん? お前、麻衣子か?」
振り返るとそこには、体にぴったりと吸いつく自転車競技特有のユニフォームを身に着けた美樹が立っていた。
彼女の筋肉は健康的に引き締まり、高い運動能力を予感させた。日に焼けた健康的な褐色の肌をユニフォームから覗かせている。
「お前、誰かとつるんで妙なことやってるらしいな。『部活動荒らしタッグ』とかって」
「ち、違うよ! 私、そんなつもりなんて」
「お前にそんなつもりがなくても、噂が立ってるのは事実だ。変なことしてないで、勉学に集中しろ。ただでさえ体弱くて休みがちなんだから。というか、進級は大丈夫そうなのか?」
「そ、それは……ちょっと危ないかも」
そんなやり取りをしている内に、麻衣子はあやなの存在を完全に蚊帳の外にしていたことに気付く。慌てて向き直った。
「あ、あやなちゃん。この人は――」
そう言いながら麻衣子の脳裏に嫌な予感が走った。それは頬を大きく引き上げたあの顔が目に映ったからだ。
「言葉は無用!」
「へ?」
「貴様が部長だな。私は九頭竜あやな、貴様と勝負しにやって来た!」
「なっ!」
驚きの声を上げる美樹。
彼女の頭の中で、学校で広まる噂の内容と目の前の状況が組み合わされる。
「ってことは、このチビが部活動荒らしか!?」
「え、そ、そういうことになるのかな……」
戸惑いながら麻衣子は答える。
「なるほど、良い肉体だ」
「うひゃあ!」
美樹が悲鳴を上げた。
なぜかあやなの手が自分の胸をがっしりと掴んでいる。
「な、何をする!」
「別に減るものではないだろう?」
あやなは腕を胸の前で組み直しながら言う。
「な、何なんだ、こいつは!? いきなり人の体を勝手に触るし、チビのくせにめちゃくちゃ偉そうだし!」
「え、えっと……はははっ」
美樹の当然すぎる問いに、麻衣子はもはや何と返して良いか分からず苦笑いを浮かべた。
「そんなことはどうでも良い! 勝負だ」
そして、あやなは状況を気にせず。というか、空気を全く読まずに勝負を挑む。
――あははー。もう、しっちゃかめっちゃかだ。
麻衣子はあまりに収集が付かないこの事態に気が遠くなる。
「勝負って何だよ! お前、いきなりやって来て頭わいてんのか!?」
「勝負は勝負だ。貴様は自転車競技部なのだろう? ならば、やることは決まっている」
そしてあやなは前に出ることしか知らない猪のようにぐいぐいと踏み込んでいく。
そんな不躾な彼女を見て、ため息をつきながら美樹は言った。
「今日、部活は休みだ」
「む?」
「人がいないのは見て分かるだろう? 大会が近いから、部員の疲れを取るために今日は部活を休みにしているんだよ」
その言葉であやなは先ほどの困惑の解答に行き着く。
しかし、それだけだと解決できない問題も存在した。
「すると、貴様はこんな所で何をしているのだ?」
それは休みの日なのに、部室にやって来ている美樹についてのことだった。しかもご丁寧に競技用のユニフォームまで着こんでいる。彼女の言い分が確かなら、万が一部室に来る用事があっても、ユニフォームにまで着替える必要はない。
「自主連で、ちょっと体を動かしにきたんだよ。部活が休みだからって、丸一日何もしないと落ち着かないからな」
「おお、それならちょうどいいではないか。私と勝負してくれ! なあに、自主連の一環だと思ってくれればいい」
餌に食らいついた獣のようなあやな。
人の都合も考えずに自分の意見を押しつけてくる彼女の態度に、美樹はいよいよ腹に据えかねる。
「お前、自転車競技をやったことあるのか?」
美樹は不満そうに尋ねた。
「無論だ」
それは意外なほどはっきりとした返事。いや、スポーツの名門校が誇る部活動、その中でも「最も卓越した団体」と称されるこの自転車競技部に勝負を挑んでくるのだから、経験があるのは当たり前。むしろなくては話にならないだろう。
だが、美樹にはどういう訳か目の前の少女が、自分に経験がない競技でも構わず挑戦して行くような、そんな勇敢を越えた無謀な人間のように見えていた。だからこそ彼女は、あやなのその返事に不思議と驚かされてしまう。
あやなは言った。
「先日、自転車での走行を成功させた」
「は?」
美樹はあやなの放った言葉が理解できずに固まってしまう。
「母上に手伝ってもらってな」
そして、続けられる補足説明。
状況が状況なら、九歳というまだ幼い少女ならではのごく自然なこの台詞。
しかし、今の状況で発せられるその言葉は、自転車競技を誇りとする美樹にとってあまりに挑発的すぎた。
「…………ド素人が」
美樹の声が一気に低くなる。
彼女の持つ競技へのプライドが、冷たい嫌悪感を焚きつけた。
「あの」
そのとき麻衣子の後方から声がした。
「わぁっ!」
予想外の声かけ。それも、いつの間にか麻衣子の首筋に息が触れそうなほど接近されていたことも相まって心臓が止まりそうになる。驚いて振り返ると、そこには白衣を着た女性が立っていた。
「すみません、驚かせましたか。ああ。お久しぶりです、麻衣子さん。もう、体は大丈夫なんですか? それはそうと一体、何の騒ぎでしょうか? 先生、喧嘩などのトラブルは困ってしまうんですよね」
落ちついて辺りを見回すと、部室の奥の教官室の扉が開いていた。どうやら最初からそこに人がいたらしい。
「あ、コーチ。実は……」
その長く茶色い髪を持つ妙齢の女性は自転車競技部の顧問であるようだった。
美樹はそれまでのあやなとのやり取りを簡単に説明する。
「それなら、外周コースで勝負するのはどうですか?」
顧問は全ての説明を聞き終わると三人に淡々と告げた。
それを聞いた美樹は『スッ』と目を細めた。
「……コーチ、本気ですか?」
「本気ですが、何か?」
「…………いえ」
長い沈黙のあと美樹は小さく了承する。
そこからの段取りは早く、美樹はあやなに学校の外周コースの距離と自転車競技のルールを簡単に説明した。そして、部室の横に止められている競技用の自転車の一つを持ってくる。それは、あやなの体格にあった一番小さな型の自転車だった。
「それを使え」
「うむ」
二人はそうして、外周コースの開始線に出揃った。
ホイッスルを片手にスタートのタイミングを計る顧問。
その合図が、音が鳴るか鳴らないかの直前に美樹はもう一度確認した。
「勝負は一度だけだ。条件は一つ、負ければ何も言わず帰ること。いいな?」
「無論だ」
あやなは大きく頷く。
それを見てから、美樹は無表情で進行方向に視線を向けた。
だが、あやなはまた口を開く。
「貴様にも教えてやる。〝圧倒的な差″というものを!」
それは怒りを通り越して、滑稽にすら感じられる言葉だった。
「何だ? もしかしてお前、私に勝つ気なのか?」
「その通りだ」
虚勢もここまでくれば立派なものだ。美樹はそう思いながら、宣言する。
「もしも、お前が私に勝ったら次の大会の出場権を譲ってやるよ」
「うむ、そうか!」
あやなは頬を大きく釣り上げた。
「それでは私のホイッスルの音がスタートの合図です」
顧問が合図の最終確認を行った。
頷く二人。次の瞬間。
『ピー!』
ホイッスルの放つ甲高い音。
その音が鳴ったとき、コンマ一秒の遅れもなく美樹の自転車の後輪は大地を蹴った。
ロケットスタート。科学の境地ともいえる推進技術を冠するその名に全く恥じないスタートを、美樹は切る。この瞬間のために、幾重にも幾重にも練習を積み重ねた十数年間。 彼女の出帆にフライングや出遅れというミスはあり得なかった。
その後も彼女の操る自転車は、速度を急激に上げて行く。その姿には、「風を切る」などという表現では生ぬるい。風そのもの。空間上の気圧の不均一を解消せんと荒れ狂う自然現象。その力は、目に見えない突風となって今、外周コースを駆け抜ける。
――一切、手なんか抜かない。“圧倒的に”叩きつぶして、自転車競技が甘くないってことを教えてやる。
美樹は猛然と自転車を漕ぎ続けた。その間、彼女は全く顔を上げずに進む。彼女にとってこの外周は慣れ親しんだ家の庭と変わらない。短距離ならば目をつぶっていたって走ることができる。
そしてものの数分で1km地点を通過した。
そのとき美樹はふと自らの後方を見てみたくなった。バランスを崩すため、スピードが落ちるため。様々な観点から自転車競技ではタブー視されているその行為。 しかし、美樹はその欲求に逆らうことができなかった。それは、復讐心のような感情。どうしても許せない屈辱を受けたときに心が生みだす狂おしい感情。
美樹は鼻を明かしてやりたかったのだ。あれほど無礼な大言を吐いたあやなが、必死で自分に追いつこうと奮闘する姿を見ることで。
そうして美樹はほんの少し。ほんの少しだけ顔を後ろに向けた。バランスを維持しつつ、速度を決して緩めないように少しだけ。
だが、そこにはあやなの姿はなかった。
――スピードを出し過ぎたか。
美樹は心の中で呟く。
ちょっとだけ残念だった。それは自身の小さな復讐が成し遂げられなかったからではない。何かを、心に宿った何かを裏切られたような。そこまで考えて美樹は気付く。
――いや、違う。
――どこかおかしい。
そして耳に届く自分以外の誰かの声。
美樹はバッと顔を上げた。その視線の先には。
「はーはっはっはっは!」
美樹を大きく離して前方。とてつもないスピードで走る自転車と、自身が世界の覇者でるかのように笑うあやな。
「……ッ馬鹿か!? 外周の距離を聞いてなかったのか!?」
思わず美樹は叫ぶ。
その声が鼓膜に届くよりも先にあやなはその場を走り去った。
「あ、ありえない……」
麻衣子はそう呟いた。
彼女は自分の見ている光景に愕然としていた。
――いくらあやなちゃんでも、美樹さんよりも速いなんて……。
「はーっはっはっは!」
そして数十分後、あやなは大きく笑いながら開始線に戻って来る。
「ゴール」
顧問は淡々と結果だけを告げた。
「これで私の勝利か?」
「はい」
顧問のその声を聞いて満足げに笑うと、あやなは自転車から降りた。
「おっと」
そのときあやなはバランスを崩す。
よろめいたあやなを顧問が受け止めた。
「おお、すまんな」
「……なるほど」
「ん?」
「いえ、気を付けて」
そのあと数分遅れて美樹は麻衣子達の元に戻って来る。
「……」
そして、その場で自転車を降りると。
「私の……負けだ」
そう、一言だけ呟いた。彼女はその場にいる誰とも目を合わせようとはしなかった。
「うむ。では、次の大会の日程を教えてもらおうか」
「……?」
あやなの言葉にいち早く顧問が反応を見せる。眉をひそめてあやなの顔を見つめた。
「一週間後だ。約束通り私の出場権はお前に譲る」
「ど、ど、ど、どういうこと!? あやなちゃん!」
次いで麻衣子が気を動転させながらあやなに詰め寄った。
「奴の言葉の通りだ。事前に私達は話をしていた。この勝負で私が勝利した暁には、次回の大会の出場権を譲ってもらう、と」
「えぇ!」
当然のように話すあやな。
しかし、麻衣子には俄かに受け入れられない。まさか勝手に勝負をしかけて迷惑をかけただけでなく、美樹の代わりに大会に出ようとしているなんて。
「あやなさん、でしたか?」
そのとき囁くような声がした。
顧問があやなに近付く。
「む? 何だ?」
そして小さい声でボソボソと何かを耳打ちした。
するとあやなは顎に手を当てて少し考える仕草をしたのち、『にやり』と笑う。
「……面白い。受けて立とう」
「了承、ということでいいですね?」
「うむ」
あやなに確認を取ると、顧問は美樹に向き直る。
彼女はいつだって冷静だった。
「美樹さん」
「……はい」
「あなたは予定通り、次の大会に出場してもらいます」
「……! ですが!」
顧問の言葉に初めて美樹は顔を上げた。
「約束の件は分かりました。あやなさんには特別枠を設けて出場してもらいます。そうすれば、あなた達二人共が大会に参加できます。幸い、我が校主催の大会ですから多少の無理は通るでしょう」
「で、でも!」
反発の声を上げる美樹。
「控えなさい。あなたは自らの責任ある立場を考えず、身勝手な行動をしました。よって、抗議する資格はありません」
「っ……」
美樹は顧問に返す言葉が見つからず、静かに唇を噛んだ。
「それではあやなさん。また、一週間後に」
あやなに優しく声をかける顧問。しかし、その目は全く笑っていなかった。
「うむ。楽しみにしておるぞ!」
一方、それを受けるあやなの目には爛漫な笑みが宿っていた。
「し、失礼します」
麻衣子はそう言いながら、あやなを引っ張ってその場を立ち去る。
二人を最後まで見送ったあと、顧問はゆっくりと美樹に振り返った。
「美樹さん」
それはとても淡白な声だった。
「……」
「美樹さん、悔しいですか?」
「……っ」
「勝負に負けたからですか? それとも――」
顧問は美樹の心を探るように言葉を溜める。
「勝負に負けたにもかかわらず、約束を反故にさせられたからですか?」
「……」
美樹は何も話すことができなかった。
沈黙は肯定と取られるだろう。しかし、例えそうであったとしても美樹は固く食いしばった口を開けようとはしない。
心の中で美樹は顧問の下した裁定に納得していなかった。自分は勝負に負けたのだ。それも次の大会の出場権をかけた勝負で。その約束を、顧問の口添えで反故にしてもらうなんて。そんなのあやなに対する裏切りで、自転車競技に対する裏切りで、なにより自分を裏切っている。そんな想いを内に抱えながら、美樹は抗議の言葉を噛み殺していた。
それはなぜか。彼女には分かっていたからだ。今の状況の原因が全て自分にあることを。美樹が気にしているのは、先ほど顧問が言った「責任ある立場を考えなかった」ということではない。何より、自分があやなよりも弱く、勝負に負けてしまったことが彼女を深く追い詰めた。
誰にも負けないつもりで練習に励んだ。しかし、それを自転車に乗りたての素人に踏み潰されてしまった。その事実が何より重く彼女にのしかかる。
「……」
「…………」
二人の間で長い沈黙が流れた。
とても重い沈黙だった。時間が止まってしまったように進まない。ここではないどこかで空気の音がした。木々の間をすり抜けて、どこまでも遠くに旅立っていく風の声。何者にも縛られない自由なその声は、今の二人にはどこまでも羨ましく、そして憎たらしく感じられた。
「……」
その言葉が美樹の中で生まれたのはどうしてだっただろうか。人生において何度も使ってきたその言葉が彼女の頭の中で膨れ上がる。だが、理由は分からない。悔恨の念だろうか。悔しさだろうか。悲しさだろうか。申し訳なさだろうか。美樹は自分の中の誇りが溶けだしていくような感覚に胸を痛めた。
一度だけ強がるように笑う。しかしそれはすぐにどこかへ消えてしまう。
「……すみ――」
「すみませんでした」、そう美樹が口にしようとしたとき、それよりも先に顧問が口を開く。
美樹は予想もしない顧問の言葉に耳を疑った。
「私は悔しいです」
美樹は、一瞬顧問が何を言っているのか分からなかった。
――悔しい? 何が? 負けたのは私なのに?
美樹は驚いて顧問の顔を見た。
「どうしてか、ですか?」
顧問は美樹のそんな目線を受け止め、優しく尋ねる。
頷く美樹。
それを認めると顧問は淡々と言った。先ほどと変わらない、感情がないような声で。だが、力強い口調で。
「あなたの実力に関して誤った評価を下させてしまったからです。あの子にも。そして、あなた自身にも」
彼女はそう言った。
しかし、美樹にはその言葉の意味が理解できなかった。
――私は、実力をちゃんと出した。
美樹は思う。自分は確かに手を抜かず、実力であやなに負けた。弱い心に負けて後ろを向いてしまうこともあったが、あれはあやなに追い抜かされたあとの話だ。実際にはそれをせずとも勝負の結果は変わらなかっただろう。それなのに。
――誤った?
そんな美樹の思考に気に留めず、顧問は続ける。
「私はあなた達に決して負けるなとは言いませんでした。その代わり、あなた達にはこう伝えてきました」
一つ息を吸い込む。
「全ての試合に全力を尽くせ、と」
美樹はその言葉を知っていた。何度も顧問から聞かされた言葉だったから。いつも冷静な顧問が、この言葉を言うときだけは声に熱を籠らせていた。そして、自分にたくさんの力をくれた言葉だった。
「あなたはこの勝負に全力を尽くしましたか?」
顧問は再度、美樹に質問した。
強く真っ直ぐとした目線だった。
「……」
――尽くした、そして負けた。
美樹は確かにそう感じていた。自分はあのとき全力だった、と。間違いなく実力で負けた、と。それを美樹は顧問に告げようとする。
「……」
だが、どういう訳か口が動かない。何かが邪魔をして、言葉が喉の奥から出てこない。
――なぜ? どうして? 私は確かに負けたのに。
「どうして?」
顧問は美樹が考えていることと同じ言葉を口にした。
「なに……が、ですか?」
喉がかろうじて言葉を紡ぐ。
「どうして黙っているんですか?」
美樹はその言葉に答えることができない。 “意志”よりも深い心の部分で、何かが美樹の邪魔をする。そしてぐるぐると回り出す。
――言わなきゃ。「私は負けた」って。「全力を出して負けました」って。認めなきゃ、自分の実力を。認めなきゃ、自分の練習不足を、才能のなさを。認めなくちゃ。
美樹の意志が心の奥底から這い上がる何かを押しとどめようとする。理性が何かを抑え込もうとする。
そして震えながらも口が開く。彼女の強固な意志によって開かれた口。ついに、そこから漏れた言葉は。
「悔しい」
だった。
――え?
美樹は耳を疑った。動かした口を疑った。それを言った自分自身を疑った。
――え? どうして、私はこんなことを!?
パニックだった。これまで全く考えていなかったことが口から飛び出した。
――悔しい? どうして? 全力を出して負けたんだから悔しいハズなんて……。だって、全力を出して敵わかなったんだぞ? もうやれることはない、だから悔しくなんて……。
「教えて欲しいですか?」
その心中を察するように顧問は言った。
美樹は顔を上げる。
「あなたがまだ、負けていないからです」
「え?」
驚く美樹。
顧問は言葉を重ねる。
「あなたの体にはまだ、闘う力が残っているからです」
「そんなこと……」
美樹は否定しようとした。
「利口な大人のフリをして、勝手に負けた気分になるのは止めなさい」
「そんなつもりじゃ……!」
「では、どうしてあなたの手は握られているんですか?」
「……?」
ふと、自分の手を見る。そこには驚くほど固く握りこまれた拳があった。
「では、どうしてあなたの脚はまだ体を支え続けているんですか?」
「……?」
ふと、自分の脚を識る。そこには笑ってしまうほど意外な、強い熱があった。
――これは……なに? 分からない。
美樹は困惑する。
「あなたの体は言っています。『まだ、やれる』と」
『ドクンッ』
心臓が一段と大きく跳ねた。しかし、それは都合の悪いことを言われて、『ドキリ』と縮こまるようなものではない。
体が熱い。いや、熱く、熱く、熱が、体温が急激に上昇していく。まるで、その言葉を待っていたかのように。
理由は美樹には分からない。だが。答えは口から這い出て来た。
「悔しいです……」
美樹の内心とは裏腹に震えるような声が告げる。彼女の奥底に潜む声が。そして彼女はようやく気付く、先ほどまで自分が押し殺していたものを。
「…………」
――そうか。私は「悔しい」んだ。
――啼いているんだ。
――私の中の“プライド”が。
そして美樹は顧問の方へ向き直る。強く、力強く顔を上げ、顧問の目を見つめた。
「先生、私は……悔しいです。でも、分かりません。何をしたらいいのか」
顧問は少しだけ顔を緩ませて安堵するように言う。
「あなたのそういう所は好きですけどね。真面目で、実直で。真剣になると視界が狭まるっていうのか」
「???」
美樹にはその意図が分からなかった。しかし、次の言葉ですぐに察しが付く。
「簡単なことです。あなたはもっと長距離の方が得意でしょう?」
「あ」
美樹は間抜けな声を上げた。
そんな彼女に顧問は告げる。
「やはり、頭にありませんでしたか。それで――どうしますか?」
「え?」
「次の、自分の最も得意とする距離が採用されている大会に出るんですか? 出ないんですか?」
「……」
しかし、まだ踏ん切りがつかない。
「あなたが出ないのでしたら、次の大会では本校の自転車競技部のメンバー全員に参加を辞退させます」
「で、出ます!」
美樹は慌てて答える。
――コーチなら本気でやりかねない。
彼女はそう思った。
「いいでしょう。それでは、次の大会では自分の中の全てをぶつけなさい。その熱い体を納得させるほど、全力で」
「…………はい!」
美樹が力強くそう言うと、安心するように顧問の肩が『スッ』と下がった。しかし、それを気付ける者はいないだろう。それほど、微妙な変化だった。
「それはそうと、美樹さん。あの子はどうでしたか?」
そうして顧問はくるりと美樹に背を向ける。その目線の先には、あやなの乗っていた自転車があった。
「すごい速さでした。全然追いつける気がしなかった……とんでもない持久力です」
問われた彼女は思ったままを口にする。飾らず、偽らず、本心から出た言葉。
そこに悲観は感じられないとはいえ、当然のことながら畏怖の感情が反映される。
「そうですか。でも、私の意見は違います」
顧問は言った。
相変わらず淡々と口調は変わらない。しかしその内容はとても思いがけないもので、美樹には聞き捨てならなかった。
「どういうことですか? 先生」
「私の考えが合っていたらの話ですが。おそらくあの子は次の大会では勝てないでしょう」
「当たり前です! 次は私が勝ちます!」
顧問の言葉につられて、美樹が決意を表明する。
しかし、顧問は話を続けた。
「いいえ、そういうことではありません。おそらく次の大会、彼女は最後まで――」
彼女がそれを言い終わる前に、どこかで『ガシャリッ』と音が鳴る。
美樹がそちらへ視線を向けると同時に、あやなの乗っていた自転車がパーツ毎に自壊した。