有終完美
――柔道の本当の怖さって何だろう?
大林は考えていた。
――挑発されたから、つい言っちゃったけど。
あやなの猛攻をいなしつつ、大林は思考を巡らせた。
「君は素人だ。組んでみて改めて分かった」
――素人だって分かったのは、彼女の動きがあまりに基本的なものだったから。まるで生簀で育てられた海を知らない魚みたいな動き方。
「言葉通り、真似。見学のたった数十分間。君は驚異的な集中力をもって、いくつかの技の仕組みや重心の移動法を頭に叩き込んだ。そしてそのイメージを実戦、しかもぶっつけ本番で恐ろしいほど正確に再現した。素人が何も知らない競技に挑戦するときに一番初めにやること、つまり経験者の模倣。それを君はやっただけだ。常識じゃ考えられないほど高いレベルで」
――部員の誰かが、「そんなことできれば……」って言うのが聞こえた。たぶん、そのあとは「苦労はしない」って続くんだろう。ぶっちゃけ、俺もそう思う。それができること自体が化け物じみている。運動能力もセンスも、本当にあり得ないレベルだよ。この子が伸ばしてくる手をはたき落とせているのも、半分まぐれだしね。
「その二つの技だけじゃ、俺はやれないよ?」
大林は挑発するように言う。そして考えていた。
――柔道の怖さってなんなんだろう。
大林は自分で言ったはずの言葉に、勢いに任せて口から出た言葉に酷く困惑する。
――分からない。
――というより、柔道って怖いんだっけ?
――分からない。
――でも、どうせなら柔道の怖さよりも楽しさを教えてあげたいなぁ。俺が勝ったら、この子は柔道部に入ってもらうんだし。
――でも。
――でも。
――柔道って何が楽しいんだっけ?
――分からない。
そして、その困惑は自分の動機まであやふやにして。
「これが」
あやなの両足が畳から離れる。
「柔道の怖さだ」
それを刈り取るように大林の右足が添えられた。
『『パァン!』』
そして響く破裂音。
――たぶん、柔道の怖い部分っていうのはこれだと思う。その気になれば、人を殺せるってこと。一つ間違えば、人の死が絡む技術だってこと。でも。
――でも、分からない。自分でも。柔道の楽しさが何なのか。
――というか、本当にそうなんだろうか。
――柔道って怖いものなんだろうか。
「さぁ、続きだ」
大林は一年生を振り返り、そう言った。
そして一歩足を踏み出そうとする。
しかし。
『ズンッ』
左足が鉛ように動かない。
――え?
大林は驚いて左足に目を向けた。そこには別段変わった所はない。
だが、意識し始めると同時に、骨まで届くかのような痛みが脚の内部でうごめき始める。
――あちゃあ、これは一本取られた。
大林はすぐにあやなを投げたときのことを思い出した。
彼女の体を畳に叩きつけたその瞬間、一つでいいはずの破裂音がどういう訳か二重に重なって聞こえていたときのことを。
――本当に凄まじいね。俺以外、何が起こったか誰も気付いていない。いや、それどころか、俺自身が今の今まで何をされたか気付いていなかった。打たれた本人にすら気取られない打撃って、いったいどんな打撃だよ……もう、どんびきだね。
大林は心の中で大きくため息をついた。その様は、どこか楽しげだった。
「そう。手加減はしないよ?」
そのときの大林の言葉は本心だった。
それほど自分が追い詰められているということを自覚していた。
目の前には自分より大柄な彼女の姿。いつも気弱で、攻められる場面で攻めきれない彼女の姿。
しかし、今日は怒涛のように攻めてくる。力任せに振りまわされる。
――うわぁ。足が全然動かない。折れてはいないんだろうけど、まるでダメだ。
「一本!」
審判の声が聞こえる。
――何とか倒せたけど。あと、3人……足が持つかな?
次に現れたのは細身の彼女。
どういう訳か、彼女は捨て身技しかかけてこない。そして、大林はそれをいなせない。
――う~ん、柔道ってこんなに難しかったっけ。片足がやられただけで、自分の体じゃないみたいだ。
バランスを崩され続ける大林。
――あぁ。足が重い。すごく、重い。
下半身の動きを補おうと、上半身をめまぐるしく動かす。
――体が思うように動かない。
それでも彼女の攻めは止まらない。
――ていうか、こいつらめちゃくちゃ攻めてくるな。いつも、腰が引けてるのに。
「一本!」
審判の声が聞こえる。
――あぁ、足が重い。
次に向かってきた彼女も、驚くほど手ごわくて。
――すごく重い。
いつもなら苦戦すらしないのに、大林は投げられなくて。
――こいつら、こんなに粘り強かったっけ?
それが悔しくて。
――ていうか、すごく重い。
「一本!」
審判の声が聞こえる。
最後の相手は直美だった。
――すごく。すごく。すごく。
一年生の中で、一番弱い直美。
――すごく。
彼女が本当に強くて。
――楽しい。
――え?
――何だ? 私、なんて思った? 楽しい?
――え、楽しい? おかしくないか? こんなに体が重いのに?
大林は混乱した。痛みに耐えて、追い詰められて。それなのに頭に浮かんできたのは、泣きごとでも嫌ごとでもなく「楽しい」という言葉で。
でも、大林はすぐにその疑問の答えに辿り着く。なぜなら彼女は既に知っていたから。答えを忘れていただけだから。
――あ、そうか。
――簡単だ。
――私、一生懸命だから楽しいんだ。
――今、俺は柔道に一生懸命なんだ。
――私にもあったんだ。柔道のことが好きで、好きでたまらなくて。でも、練習しても練習しても強い奴に勝てなかった時期が。
大林はふと憧れに向かって一直線に走っていた頃を思い出す。
――あのときは本当に楽しくて。毎日、柔道で強くなっていくことが嬉しくて。
――でも、あの日から。俺は柔道にのめり込めなくなった。怖くなった。
――怖い? 何が?
――目標がなくなることが。目指すものがなくなることが。
彼女の頭に、あの日描いた夢が浮かぶ。そして、それを失った瞬間が。
――ああ、そうか。そうだったんだ。俺は。ずっと、ずっと。求めていたんだ。柔道に真剣に打ち込める瞬間を。誰かを本気で倒したいと、越えたいと思う瞬間を。
大林は笑う。いや、既に自分が笑っていたことに気付く。
――う~ん、これは本当に一本取られちゃったね。あの子に柔道の楽しさを教えるつもりだったのに、俺の方が教わっちゃうなんて。
「楽しいから」
大林がそう零すと、直美が一瞬笑顔になったように見えた。
――こいつらはずっと柔道を楽しんでたんだなぁ。だから、本当に悔しくって。だから、こんな風に笑えるんだ。
――ああ、なんだか。
心に熱い炎が生まれるのを大林は感じた。
――こいつらには、負けたくないなぁ。
あの頃の想いが大林の元に帰って来る。
――この勝負には勝ちたいなぁ!
そして――。
「見事な“燕返し”だったよ。直美ちゃん」
固まる直美に大林は太陽のように優しく笑いかけた。
脚の痛みで倒れそうだった大林が、更に自身を弱々しく見せることでしかけた罠。自身の肉体の限界に気付いた大林が弾き出した苦肉の策。もし、直美がそれに油断して無防備なまま大林の懐へ踏み込んでいたなら。もし、そうだったなら、大林の放った出足払いで直美の体は今頃宙を舞っていただろう。
しかし、直美は罠を見抜いた。最後の最後まで思考を止めず、懸命に頭を働かせ続けた。だからこそ直美はしかけられた罠に気付き、大林の出足払いを捉えることができたのだ。
そして、放たれた足技の究極系。相手がしかけた出足払いを交わし、そのまま相手の足を刈る。まるで空高く飛び立った鳥が、急激に方向を変えて体を翻らせるような。その技が冠する名は。“燕返し“。
「……はい!」
彼女は輝くように笑った。ライトの光に反射する涙がとても綺麗だった。
「どうやら決着はついたようだな!」
いつの間にか道場の入口にあやなと麻衣子が立っていた。いつも通りの仁王立ちだが、その影で麻衣子がそっと体を支えている。
「あやな!」
「大丈夫なの?」
一年生の四人が彼女に駆け寄る。
「ああ、無論だ」
あやなは胸を張って答えた。
それを見て安心したのか、四人は口々に勝利の報告を行った。
「わ、私達勝ったんだよ!」
「信じられないけど、そう!」
「すごいよ! 君」
「ありえないんだけどさ! うん、勝っちゃった」
「ははは、だから言ったであろう? これは勝てる勝負だとな!」
あやなは大きく頬を釣り上げた。
そこにゆっくりと大林がやって来た。彼女は何かが吹っ切れたような晴れやかな顔をしていて。
「あやなちゃん、勝負には負けちゃったけど柔道部に入るつもりない? 君ならすぐに全国に行けるよ」
「せっかくの提案だがお断りする。私には他にやることがあるのでな」
あやなはそう言って、大林の目をじっと見つめる。
どこか、この少女には色々と見透かされているような気がする。そんな風に大林は感じた。
「なんとなく、そう言うと思ってたよ」
大林が嘆息すると、あやなは彼女に向けて「うむ」と小さく答えた。
『貴様は我慢強いな!』そう言われた気がした。
「それでは失礼する。行くぞ、麻衣子」
「ちょ、ま、待ってよ!」
そうして二人はその場を立ち去った。
足音が消え、武道場から完全に外へ出たことが分かる。
そこまで待ってやっと一言。
「……うん、もう限界」
大林はその場に背中から倒れた。
「え? 大林先輩!?」
「ど、どうしたんですか!?」
「いやね、もう足がガタガタ。全然、立っていられない」
「だ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫、怪我はしてない。本当にさすがだよ」
慌てる一年生達を落ちつかせるように大林は答える。
「それにしても」
「?」
「やっぱ、柔道って楽しいなぁ!」
そして大林は子どものように大きく笑った。