空前絶後
「と、いうことだ。貴様らは、今から私を含めた一年生5人と戦ってもらう!」
「いや、一年生と戦うのはいつものことだから良いんだけど……」
大林は疑惑の目線をあやなに向ける。
「君が……かい?」
「そうだ!」
あやなは自信満々に口にする。いつの間にか彼女は、部室から体に合った道着を探して身に着けていた。帯はもちろん白帯で。
「もしかして、さっき言ってた『柔道を見たことがない』なんてのは冗談で、実は経験者だったり?」
「いや、そんなことはないぞ!」
あやなは大胆に言い放つ。その後ろに、不安げな一年生四人の顔が映った。
「そっかぁ」
大林は腕を組み、何やら考える仕草を取る。
しかしそれも束の間、すぐにあやなの期待の視線に答えを出した。
「うん、その勝負受けた」
「大林! お前、練習はどうするんだ!」
部外者に練習を邪魔されて、青筋をぴくぴくさせていた顧問がついに声を荒げる。彼女がここまで耐えたのはやはり、大林の「自分のせいで部員が少なくなった」という旨の指摘があったから。しかし、それにも限界がある。
「まぁまぁ、先生。そろそろ職員会議の時間でしょ? 帰って来る頃には終わらせていますから」
そんな顧問に、大林はなだめるように告げた。
「ぐ、ぐぅ……そうだった。ま、まぁいい! 終わり次第、筋トレだ。さぼるなよ!」
顧問は顔を真っ赤にして道場を出て行った。それが思い通りにいかないことへの怒りから来るのか、教え子に窘められてしまったことへの照れ隠しなのかは分からない。だが、おそらくどちらもだろう。
――あ、あの先生、意外とか、可愛いかも……。
麻衣子の中で顧問に対する評価がちょっぴり変わった。
しかし、そんなことを考えている余裕など、実は麻衣子にはなかった。
「でも、条件がある。もし、君らが負けたら、あやなちゃんと麻衣子ちゃんの二人は柔道部に入部すること」
「ええぇ!」
「うむ、乗った!」
「うわあ!」
麻衣子はめまぐるしく驚いた。いきなり自分の名前が話題に上ったかと思うと、それが容易には受け入れられない条件を告げるもので、しかも勝手にあやなにそれを了承されて。こんな展開では、いくらおとなしい麻衣子といえども声を上げずにはいられなかった。
「そうこなくっちゃ。最近、部員が何人か辞めていっちゃったから助かるよ」
「まるで最初から私達には勝ち目がないとでも言いたげだな」
「おお、これは失礼。確かに、勝負は蓋を開けてみるまでは分からないしね」
「うむ。その通りだ!」
「ちょ、ちょっとあやなちゃん!」
麻衣子は、あやなの道着の端を『クイックイッ』と引っ張った。
「む? 何だ?」
「『何だ?』じゃ、ないよ! な、何でこんな条件受け入れてるの!」
「不味いか?」
「不味いよ! だって、これじゃあ私まで柔道部に入部しなくちゃいけないじゃない!」
いつものおどおどとした口調ではなく、麻衣子はとても流暢に抗議した。いや、せざるを得なかった。なぜなら今現在、彼女の危機察知能力が人生で一番の警報をならしていたから。
――ここで流されてたら大変なことになる!
麻衣子の焦りはピークに達した。
「麻衣子までそんなつまらないことを言うのか。先ほど奴も言ったであろう? 『勝負は蓋を開けてみるまでは分からない』、と」
そんな麻衣子をあやなは軽くあしらう。
「柔道部は楽しい所だよぉ」
続けて大林が爽やかに笑った。
「そ、そういうことじゃなくて。どうして私の許可なく決めるの!」
大林の甘言は無視して、麻衣子はあやなへの抗議を続ける。自然と声が大きくなった。自分だけが慌てていて、周りが落ち着いているのがすごく癪に障る。
――こっちは緊急事態なんだよ! それなのに何でこの人達は!
「はっはっは。何を言う、麻衣子。麻衣子は私の友達だ。例え、地獄に落ちるとしても隣で歩むのが友だろう?」
あやなは真っ直ぐな目でそう告げた。何の翳りもない純粋な目だった。
「そうそう、友達は大事にしなきゃね」
またもや大林は爽やかで。
「い、いつから友達に!? ま、まぁ、ちょっと嬉しいかも……て、ていうか! 私は学年が一つ上だから実は『先輩』って呼んでくれた方が、よ、良かったり――って、そうじゃなくて!」
もはや麻衣子は取り乱しっぱなしだった。そんな彼女にあやなは告げる。
「往生際が悪いぞ、麻衣子。もはや覚悟を決めるしかない」
「うん、うん」
大林も腕を組んで大きく頷いた。
「えぇ! だ、だって」
麻衣子は頭を抱えてあたふたと目を回す。
「麻衣子!」
「は、はい!」
突然大声で、自分の名前を呼ばれた彼女は条件反射でかしこまった。
「勝てば栄光、負ければ奴隷。どうだ?」
そして一呼吸置いてにやりと笑う。
「胸が躍るだろう?」
その顔には不安の翳りなど一切見えず。まるで、川のせせらぎのように澄み切っていて。
――え?
いつの間にか彼女は頷いていた。
何か神話めいた感覚。物語の中心へ、手を引かれるような。
「ふむ」
それを見てあやなは満足そうに笑う。
麻衣子はその顔を見て、何だか毒気を奪われてしまった。
「いつでも来い!」
そして彼女は既に開始線の上にいた。いつもと同様、高々と胸を張った仁王立ちで。そう。この勝負、先鋒はあやなが務めることとなったのだ。
「形式は勝ち抜き。つまり、チームの他の人間が全員負けて一人になったとしても、自分一人で相手チームを倒し切れれば勝ち。ま、それは難しいとは思うけどね。それと、あとのルールは通常通り、審判はうちのマネージャーが行う。これで大丈夫だよね?」
大林がルールに関して最後の確認を取る。
「心得ている!」
あやなは溌剌と事を返した。
そして、上学年の先鋒も開始線に歩を進める。
「大事な新入部員なんだから、怪我はさせるなよ」
「ははは、そんなへまはしないよ」
試合が始まる前にそんな掛け合いもあった。憎たらしいほど上学年は余裕に溢れている。
しかし。
「怪我はさせないけど、手加減もしないよ」
上学年の先方が開始線に立った瞬間、和やかな空気ががらりと変わる。まるで、道場内の室温が急激に下がっていくようで。彼女の顔からは先ほどまでの笑みが消え去っていた。獲物を狙う肉食獣の表情。これまで幾多の試合をこなし、幾多の勝敗を噛み締めてきた上学年メンバー達。こと柔道に限り、彼女らの心に油断などあるはずがない。
「ほう」
しかしそんな中、先ほどと変わらず。いや、より一層目を輝かせて笑うあやながいた。
それと相対した彼女の背に、少しだけ『ゾクリ』と悪寒が走る。
「はじめ!」
審判が大きく試合開始を宣言した。
同時に、張り詰めた風船が破裂したかのように空気が割れる。
「シュッ」
上学年の動きは速かった。
掛け値なしの真正面。襟と袖に最短距離で手を飛ばす。そしてそれらを掴むと同時に、あやなの重心を斜め下に崩した。
「むぅ」
人体には無意識的に最初の体勢を維持しようとする仕組みが備わっている。つまりは条件反射。斜め下に重心を崩されることで、あやなの体は反射的にその重心を適切な位置に戻そうと動く。本人の意思とは関係なしに。
そこが彼女の狙いだった。
「やぁ!」
体の反射と完全にタイミングを合わせての「払い腰」。体勢を戻そうとする仕組みと連動させた防ぎようのない、そして文句ない完璧な投げ。
芸術作品のように無駄のないそれを見て、審判は高らかに『一本!』と宣言する――はずだった。
「む、そうか。投げる際には掛け声が必要なのだったな」
あやなは大きく息を吸い込む。
そして――。
「やあ!!!」
武道場を支える雄々しい柱さえ震えさせるほどの大音声が響き渡る。
それはタイミングさえ合っていれば最高に素晴らしい掛け声だったのだが、残念ながら彼女は上学年を投げ終わったあとにその声を轟かせる。
けれど、何より周囲を驚かせたのはいつの間にかあやなが上学年を投げてしまっていたことであった。しかも、これ以上ないと言えるほど相手の体は美しい弧を描いていて。
「い、一本……」
あやなのその投げに審判が下した判定は確かに「一本」だった。だが、判定を下した本人が「信じられない」といった面持ちで、語尾の発音は疑問符が付属しているかのようにせり上がっていた。
「……は?」
その場にいた、投げられた本人も含めたほぼ全員の頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。状況が理解できない、いったいこれはどういうことなんだ。そんな疑問が渦を巻く。
「次!」
呆気に取られていた思考が、あやなの呼びかけに呼応するかのように回転を再開する。
「おいおい、これは……」
「なんだよ、これ」
「あ、ありえねぇ」
「大林、私は油断なんか……」
メンバーの元に帰って来た先鋒が大林に詰め寄る。
「ああ、分かっている。あれは――」
大林はあやなの姿を見据えながら言った。
「化け物だ」
そこから先は三度同じ展開が続いた。
それは開始数秒で上学年のメンバーがあやなに投げられるというものである。
投げられた本人達も信じられないという表情を浮かべ、何より自分の出番を待つ四人の一年生が驚愕で顔を引きつらせていた。
「ふはははははははは!」
あやなは高らかに笑っていた。両手を広げて、天を見上げ。まるで世界は自分を中心に回っていると言わんばかりに。その様はあまりに傲慢で、驕傲で。
――私達はもしかして悪魔と契約してしまったのか?
驚きを通り越して直美は恐怖を覚えた。
あやなはいつしか哄笑を止め、大林に向かい合う。
「さぁ。露払いは済んだ」
そして宣言する。
「貴様にも教えてやろう。“圧倒的な差”というものを!」
あやなの声がその場に響き、空気が弾けて波紋が生まれる、津波のように荒れ狂う。これが闘気というものなのだろうか。凄みのあるあやなの気合いが、その領域を席巻した。
「そっか」
対する大林は、目には見えない衝撃が吹き荒れる中でこともなげに立っていた。
それはあたかも波を砕き、海を割る、巨大な海食柱のような佇まい。
そして彼女は言う。
「残念だけどそれはちょっと無理だね」
「何?」
あやなは怪訝に顔を歪めた。
それを確認すると大林は続ける。
「だって、今から君には知ってもらうことになるんだから」
いつの間にか彼女の顔には最初と同じような優しげな笑顔が貼りついていた。見ている者を安心させる柔らかな微笑み。
「柔道って――」
しかし、それが本当の笑みではないことはすぐに分かる。
「『本当は怖いんだ』ってことを」
何故なら笑顔の大林の目には氷のように冷たい冷気が宿っていたから。
そして、そのまま彼女はあやなに向かって一歩踏み出す。そして数歩。大林は両手を構える。
二人は鏡合わせで開始線に並んだ。
「始め!」
合図と同時にあやなの体は弾けた。
大股数歩分はあった距離を彼女は一足跳びで詰め、そして矛を突きたてるように右腕を放つ。
しかし。
『バシッ!』
「む?」
『バシッ!』
「お?」
『バシッ!』
「むぅ」
その手は大林の襟には届かない。何度、挑んでも同じ結果が繰り返される。
「あ、あの、あやなちゃんが触れない」
麻衣子が驚いて口を開いた。
「当たり前よ。相手はあの大林先輩だから」
それに反応したのは直美で、それはなぜだかどこか穏やかな声だった。
そして続ける。
「相手が自分の道着を掴む前に叩き落とす。そして、自分に有利になるよう相手と組む。柔道の基本だけど、それを大林先輩ほど忠実にこなせる人はいないわ」
自分のことでもないのに、どこか嬉しそうに解説する直美。
しかし、麻衣子がまた口を開いた。
「あ! あやなちゃんが掴んだ」
「何!?」
「うそッ!?」
一年生全員が驚き、見入る。
その視線の先にはまさかの光景。
「やあ!!!」
あやなの力強い掛け声と共に大林の体が宙に浮かぶ。
審判の右手が『ピクリ』と震えた。
「……ぬぅ」
だが、大林の背は畳に触れていなかった。それどころか、先ほどと同じように何事もなかったかのようにあやなと正面で対峙している。
「……やっぱり、すごい」
そこに至る経緯を直美の目はしっかりと捉えていた。
あやなが大林の襟と袖を掴むと同時に行った「崩し」と「投げ」。しかし、それを上回るスピードで大林は投げられる方向に自ら飛び、決められる前にあやなの技から脱出していた。そして彼女はその際に掴まれていた手をはじき取り、勢いをそのままにあやなと十分に距離を取る。まるで、優雅に空を舞う蝶のように洗練された大林の動き。
「な、何が起きたの……?」
四人の中の誰かが呟く。
麻衣子も目の前で起きているハイレベルな攻防に全くついていけなかった。
その中で次に口を開いたのは意外にも、今戦っている最中の大林だった。
「やっぱりね」
確信めいた声色。
大林は今のあやなとのやり取りで「ある事実」に辿りついていた。
「君がやっていること、大体分かったよ」
すると、大林に重心を読ませないよう素早く動き続けていたあやなの足が止まる。彼女の大きな目が細めされた。
「あやなちゃんが……やっていること?」
「あいつ、何かやってるのか?」
外野から疑問の声が上がる。
渦中の二人は構えを維持したまま、しかし凍ったように時間が止まった。
「君は素人だ。組んでみて改めて分かった」
そんな中、大林の発する言葉だけがそれの経過を感じさせる。
彼女は続けた。
「普通、素人が経験者を投げるなんてありえない。柔道は正真正銘の格闘技だ。だから、素人のラッキーパンチなんてものは存在しない。だけど、現に二・三学年のあいつらは君に投げられている。そして、今も素人のハズの君が俺と対等に戦えている。最初は何が起こっているのか分からなかった。これは何かの間違いじゃないかって。でも、ちょっと頭を捻って、こう考えてみたんだ。柔道の素人が経験者と戦うときにやれることって何だろう? ってね。そうしたら、自ずと答えは出た」
大林は追い詰めるような視線をあやなに向ける。
「あやなちゃん、君は……柔道を真似たんだね?」
「は?」
「先輩は何を言って――」
再度、時間は進む。
「言葉通り、真似。見学のたった数十分間。君は驚異的な集中力をもって、いくつかの技の仕組みや重心の移動法を頭に叩き込んだ。そしてそのイメージを実戦、しかもぶっつけ本番で恐ろしいほど正確に再現した。素人が何も知らない競技に挑戦するときに一番初めにやること、つまり経験者の模倣。それを君はやっただけだ。常識じゃ考えられないほど高いレベルで」
「なんだよ、それ」
「それができれば――」
「君にはそれができる」
大林の言葉は他者に対する返事のようにも宣言のようにも受け取れた。
「その証拠に、君が使った技は『背負い投げ』と『払い腰』だけだ。4連戦の中で、他の技は一切使っていない。この二つは、こっちのチームの二人がさっきの練習で綺麗に一本を取っていた技だ。いきなり素人の子が完成度の高い技を使ったのは面食らったけど、よく観察すれば技に二人の癖が見えてくる。忠実に再現してしまったが故に、タネを暴かれる隙を与えてしまった。そこで質問だけど――」
大林は値踏みするような視線をあやなに向けた。
「あやなちゃん、他の技って使えるのかな?」
そして彼女は黙った。押し黙って、相手が返す反応を待った。
時間が止まる。
二人の動きも、周りの動きも。嵐の前の静けさ。何かの到来を予感させる静寂。
『ゴクリ』
固唾をのみ込む音。
「……ふふふ」
そして、その沈黙を破る者。
「ふふふ、はーっはっはっはっは!」
あやなが高らかに笑った。とても楽しそうな声だった。頬を釣り上げ、大林を満足げに見据える。
「ばれたか。さすがは大将首、見る目が違う」
「その言葉は肯定だね。俺の考えは合ってたってことだ。それで……一応言っておくんだけど。その二つの技だけじゃ、俺はやれないよ?」
大林は警告する。
「やってみなければ分からないさ!」
それがきっかけだった。
二人の間で止まった時間が、また急速に回転を始める。
あやなが大林に一気に詰め寄った。限界まで抑えつけられたバネを想わせる爆発的な動き。そして、大林の襟に向けて打ち出される右手。ここまでなら大林は難なくあやなの手をはじくだろう。しかし、ここからが先ほどの動きと異なっていた。
『ダンッ!』
真正面から真っ直ぐ突っ込んで来たあやなの体が急停止、そして畳を蹴って弾けるように別方向へと進路を転換した。
『ブンッ!』
あやなの手を撃ち落とそうとしていた大林の左手が空を切る。
この変則的な動きは、大林のタイミングを外すためにあやなが仕掛けたフェイントだ。そして、あやなは大林の左側面に回り込み、そこから再度右手を打ち出す。
「あ……」
しかし、直美には見えていた。
タイミングを外されて動揺するはずの大林の目が、しっかりとあやなの動きを追っていたことを。そして、あやなの右手が完全に襟に届くよりも先に、その右袖を掴む大林の左手を。
「君に教えてあげる」
予想外に右袖を引き落とされ、あやなの重心がぶれる。
「これが」
いつの間にか掴まれていた左襟が、跳ね返るように持ち上げられた。そして、その動きが体勢を立て直すために無意識に行われる条件反射とピタリと重なる。
「柔道の」
あやなの両足が畳から離れた。
「怖さだ」
それを刈り取るように大林の右足が添えられた。
『『パァン!』』
道場内に響く破裂音。
「がはッ!」
二人の体は抱き合うように畳に落下していた。
「い、一本」
そこで審判の判定が下る。彼女の声が震えていたのは、あやなの身に起きたことを一番間近で見ていたからかだ。
審判が挙げた右手を確認すると、大林はゆっくりと立ち上がる。彼女の体が離れた場所。そこには腹部を守るように体を縮めるあやなの姿があった。
「あやなちゃん!!」
足を踏み出すのが先か、叫ぶのが先か。麻衣子の張り詰めた声が道場に響いた。
「これで分かったかな? 柔道は遊びじゃない。使い方次第で、簡単に人を殺せる技なんだ」
大林はあやなを見下しながら告げる。恐ろしいほど冷静な声だった。
「あやなちゃん!」
麻衣子があやなの元へと駆け寄った。そして、我が子を守る母親のように抱きしめる。
「ヒュー……ヒュ……うぐぅ……」
あやなの口から乾いた呼吸と嗚咽が漏れていた。
それを見た瞬間、麻衣子の中に今まで経験したこともない強い感情が落ちてくる。跪きながら、あやなを抱きかかえながら。麻衣子は大林を睨みつけた。
「……」
そこから麻衣子が非難の言葉を続けられなかったのは、それを見てしまったからかもしれない。
頭の上から降り注ぐライトの逆光の中で、大林はとても悲しい顔をしていた。まるで、迷子の子どものような、不安で今にも泣き出してしまいそうな。
「大丈夫、怪我はさせてない。外に連れてってあげて。新鮮な空気を吸わせた方がいいから。あと、できれば回復施術も」
「……はい」
麻衣子は一度だけ目を瞑り、あやなへと視線を戻す。
そして、自分より一回りも二回りも小さいあやなの体を抱き上げて、道場の外へと出て行く。あやなの体は年相応に軽かった。
「……」
それを大林は最後まで見届けた。
審判を含め、麻衣子以外に大林のあの顔を見た人間はいなかった。
静まりかえる道場内。言葉を失った一年生の方へ、大林はゆっくりと振り返る。
「さぁ、続きだ」
先ほどの弱々しい大林は消え去っている。
これまで幾度も圧倒的実力を示し、何度も「全国制覇」を成し遂げたこの高校の柔道部。その頂点に君臨する“怪物”がそこにいた。