荒唐無稽
この学校では一般的な学習を行う本館を中心として、放射線状に部活動の練習施設が配置されている。真上から見ればそれは空で弾けた花火のような形をしていて、学校の造りとしては少々風変わりだ。
「ここが、そうだね」
「ふむ」
二人は入口に掲げられた看板を見上げる。そこには太く、雄々しい字で「武道場」と書かれてあった。
校内には数多くの施設が設置されているが、その中でも一際大きなこの建物。その名に恥じない分厚い壁と自身の巨体を支えるための強靭な柱。そして、「強さ」を象徴する堂々とした佇まい。
門の前に立つあやなの鼓膜には、既に空気を震わすような生徒達の熱声が届いていた。
「なるほど、中々活気に溢れた場所ではないか」
あやなは大きく頬を釣り上げる。
「そうだねぇ。この時間帯だったら、ここが一番人口多いんじゃないかなぁ」
麻衣子はそう言いながらあやなを『チラリ』と見た。
――こうして見ると普通の女の子なんだけどなぁ……。
彼女はここに至るまでの道中、あやなと交わした会話を思い出す。そこで分かったことは、あやなはまだ九歳であるということ。この高校には、特待生制度を利用して入学してきたということ。どういう事情かは分からないが、彼女はこれまで自分の家の敷地から出たことはなく、必要な教育は自分の家の中で受けてきたということ。だから、学校に通うという体験も初めてだということ。大雑把にまとめればこんな所。
また、あやなは麻衣子と出会ったときのことも話してくれた。
放課後学校を散策していると、あやなは数人の人だかりを見つけた。一見して彼女らが格闘技に携わる集団だと気付いたあやなは、その事実を確かめたのち、尋常に勝負を挑み、そして打ち勝った。正々かつ堂々とした良い勝負だった。しかし、なぜかそのあと、互いの健闘を称え合う前にどういう訳かボクシング部の集団は逃亡する。困惑したあやなは、その場に取り残された麻衣子を見つけ、事の真相を問いただしたということらしい。
「ときに麻衣子、あそこの連中は何をしているのだ?」
「え?」
武道場の中を一通り回ったあと、あやなは自身の小さな指を向ける。
その集団が身につける道着はズシリとした厚みを持ち、重ねて心と身を繋ぎとめるように締められた黒い帯からは彼女達の持つ強い意志が発せられていた。いや、実際には気のせいなのかもしれない。しかし、あやなの紅い瞳には映っていた。彼女達から立ち上る激しい業火を。
「あ、あれは柔道部……だと思うけど。あやなちゃん、もしかして柔道知らないの?」
「ふむ、知らん。だが面白そうだ。柔道とはいったいどのような格闘技なのだ?」
嬉々として尋ねるあやな。彼女の長い金髪が、歓喜の声を上げるようにゆらゆらと宙を舞い始める。
「え!? そ、そう言われると私もそこまで詳しくないけど……」
「なんだ、麻衣子も知らぬのではないか。私とさして変わらんな」
「い、いや、あやなちゃんとはちょっと違うような…………こ、根本的に」
そう否定しつつ、麻衣子は不気味な悪寒を覚える。
――も、もしかしてあやなちゃん、柔道部に興味持っちゃってるのかな? 他の部活は普通に見てただけだったから油断しちゃってたけど。
彼女は、あやながボクシング部と戦った理由を思い返していた。
あれは、いじめられていた麻衣子を助けるためでなく、あやながただ強い誰かと勝負をしたかったから。
――ま、まずいかも。柔道部でも、「勝負だ!」なんて言い出したら、ぜ、絶対トラブルになっちゃう。て、ていうか、あやなちゃんにこんなこと繰り返させてたら、一緒にいる私だって問題起こしてるって思われちゃうよ。こ、ここは何としてでもごまかさなきゃ!
麻衣子は覚悟を決めるように両手を顔の前で握った。
「そ、それじゃあ、あやなちゃん。そろそろ次の部活に――」
「頼もう!」
麻衣子が振り返ると、既にあやなは道場の入口立っていた。
「って、な、何をしているの!? あやなちゃん」
慌ててあやなに駆け寄る麻衣子。
「む? 麻衣子が分からないのなら、実際に戦っているあやつらに柔道のことを尋ねるのが手っとり早いであろう?」
「そ、そんな、安直な! というか、れ、練習中に迷惑だよ!」
彼女は手をバタバタと動かしてあやなを諌める。麻衣子も必死だった。思わずあやなの制服を引っ張り、その場所から連れ出そうとする。しかし、明らかに麻衣子の体重の方が重いはずなのにあやなはびくともしない。
そうこうしている内に、道着を着た一人が彼女らの元へやってくる。
「もしかして、入部希望者かな?」
柔らかな頬笑みの優しげな人物。
そばまで来ると明らかなのだが、彼女はあやなや麻衣子よりも数段身長が高い。加えて、その骨格はかなりしっかりしていて、全身を柔軟性の高い筋肉がバランスよく覆っている。それは無駄でもなく足りなくもない、運動を行う上で理想的な肉体。一目見ただけで、彼女の持つ能力が並みではないことを感じさせた。
「あ、あ、その……」
麻衣子は戸惑いながらも喋る。
しかし、何を話していいのか分からない。これまでの経緯を話せばいいのか、それともあやなが柔道について知りたがっているということを話せばいいのか。だけれど、いきなり「柔道について知りたい」ということを伝えてもおかしな気がする。また、道場の入り口で「頼もう!」と叫んで置きながら、ただ「別に入部希望者ではない」と切り捨てるのも嫌な感じだ。
そんなことを考えている内に、道場内で一人だけジャージを着ている人間が叫ぶ。髪を後ろに束ねた、周りよりも一回りほど年上の人間。
「何さぼってんだ! 練習に集中しろ、大林!」
それはドスの聞いた雷のような声だった。
「ひ、ひぃ!」
麻衣子は思わず体を竦める。
「先生、これも部活動の一環ッスよ。新入部員はどんどん獲得しなきゃ」
しかし、当の大林は特に脅えることもなくへらへらと笑いながら応答する。軽薄な感じはするけれど、どこかさわやかで不快感はなかった。
「そんなもんよりも練習だ、バカタレ!」
「そうやっていつも怒ってっから、部員減って困ることになるんでしょう?」
大林は全く悪びれずににやりと笑う。
相手を見下しているのではなく、気になることがあれば目上の人間でも構わず進言する。そんな大林のあっけらかんとしたキャラクターの大林は、部長ということを差し引いても柔道部内で一目置かれていた。
「う、ぐ…………ま、まぁ良い。そこの奴らのことはお前に任せる。他の者は乱取りだ! ほら、はじめ!」
「「「ウス!」」」
顧問の声に呼応して、部員達の声が道場を震わせる。
そうして何事もなかったように練習が再開された。
「待たせてごめんね」
二人に振り返った大林は先ほどと同じように優しく微笑んだ。
「あの先生、熱血なのは良いけど真面目すぎるからさ。そのせいで、毎年部員が少なくなっちゃうから困ってんの。それで、改めて聞くけど君達は入部希望者かな?」
「え、いや、その……」
麻衣子は未だに説明する内容を考えていた。そして未だに、答えを出せていなかった。
「入部希望者ではない!」
そんな麻衣子を尻目にあやなは堂々と言い放つ。
「あ、そうなの? それじゃあ、どうしてここに――」
「柔道について知りたい! そして勝負がしたい!」
大林の言葉を遮るあやな。
麻衣子はそのやり取りを見て一瞬気が遠くなりそうになった。
――ああ、やっぱりだよ! さっきあやなちゃんが嬉しそうにしてたときから嫌な予感がしてたんだよ! というかあやなちゃん、全然人の話聞いてないよ! この大林さんって人の話を遮って、自分の言いたいことばっかだよ! 何を話したら良いか、色々悩んでる私が馬鹿みたいだよ! ていうか、また「勝負」とか言ってるし……もう決定だよ! トラブル決定だよ!
麻衣子は普段おとなしい分、心の中で激しく突っ込むタイプだった。
大林は怪訝な表情を浮かべる。
「へ? 入部希望者じゃないのに柔道のこと知りたい? そんでもって勝負? それってつまり……どういうこと?」
「ふむ、そういうことだ!」
「え!? う、うーん。そういうこと?」
「そういうことだ!」
「そういうこと……かぁ?」
「……あ、あの!」
二人の噛み合わない会話を聞いていた麻衣子は我慢できずにことの経緯を説明した。およそ五分、麻衣子は自分達二人の関係や校内見学のいきさつを、身振り手振りを用いて簡潔に話す。
「そっかぁ。学校の施設を見て回っている途中なのか」
大林は両手を体の前で『ポン』と叩いた。
――い、意外と上手く説明できちゃった。
麻衣子はほっと胸をなでおろす。
なるべく柔らかく。ボクシング部と勝負をしたことなどは伏せて、ただの転入生の校内見学だということを、できる限り角の立たないように伝える。それは存外まとまりのある説明で、いざというときにはできる子なのかもしれないと麻衣子が自身を見直せるぐらいはきはきとした口上だった。
「それで武道場へとやってきた君達は、柔道部の練習をしている俺達を見つけた。そして俄かには信じられないけれど、そこのあやなちゃんは人生の中で一度も柔道を見たことなくて興味を持った――これで良いかな?」
「は、はい」
「ふむ。その通りだ」
「なるほどね。ま、入部希望者じゃなかったのは残念だけど、良かったら練習見学していきなよ。もしかしたら、柔道部に入りたくなっちゃうかもしれないし。柔道がどんなものかも何となく分かるハズだよ」
「あ、ありがとうございます」
「うむ、助かるぞ!」
お礼を言う二人。
大林は『ニコリ』と笑顔を返す。
「じゃあこれ以上、練習さぼ……もとい、抜けてたらさすがに先生怒るだろうからさ。ま、適当に楽しんで見てってよ。あ、ルールとかはまた空いた時間にでも教えるからさ」
そう言うと彼女は練習の輪に再び戻って行く。敬語も使わない失礼な態度の一年生を相手にしても最後まで優しく接してくれた。
――良い人だなぁ。
麻衣子はその人当たりの良さに、逆に申し訳なさを感じる。
それもこれもどこまでも図々しいあやなのせいだったのだが、その彼女はというと既に爛々と目を輝かせて柔道に見入っていた。
「なるほど、とにかく相手を投げれば良いのだな。そして、その投げの出来の良し悪しで勝敗が決まる、と……」
「……はぁ」
麻衣子は何やら一人で納得しているあやなを見て、ため息をつく。
――こうやって最後までおとなしくしてくれてたら助かるんだけどなぁ……。
それはいつ火が着くかも分からない、大きな爆弾の隣に座らされたような心境だった。
それから二十分ほど経った頃だろうか。
「ときに麻衣子、あやつらはどうして投げられてばかりなのだ?」
練習をずっと観察していたはずのあやなが突然、麻衣子に質問してきた。
彼女が指さす方向へ視線を移すと、そこには周りに比べて少し小柄な集団がいて。
「もう。あやなちゃん、ちゃんと練習見てなよ。あそこにいるのは一年生。団体戦の形式で上級生と練習してるみたいだよ。だから――」
麻衣子はあやなに諭すように言った。なぜならそれは今話した通り、練習を見ていれば明らかで、わざわざ人に尋ねるまでもないことだったから。取り立てることのない、常識的な事実だったから。
だから、麻衣子はその言葉でちゃんとあやなの疑問に答えられたつもりでいた。
「む? 私はちゃんと見ていたぞ。それに、私が聞いたのは『どうしてあやつらは一方的に投げられてばかりなのか』ということだ」
「だ、だから、相手が上級生だから」
「相手が上級生だということが、一方的に負ける理由になるのか?」
「え?」
麻衣子は胸が『ドキリ』とした。そして、すぐにそれに返す言葉が思い浮かばない。
「ふむ」
あやなは嘆息を一息。そして、そのまま迷いなく真っ直ぐ一年生の集団に歩いて行く。
「ちょ、ちょっと、あやなちゃん!?」
麻衣子は驚いて声をかけたが、あやなは当然のように止まらなかった。
「くっそ」
「ハァハァ。全然、歯が立たない」
「仕方ないよ、先輩なんだから」
「これでも……道場では結構強い方だったんだけどな」
そこには四人の一年生がいた。
それぞれが暗い顔をして、それぞれが目も合わせず会話をしている。その原因が練習で体力を消費して疲れているからなのか、あるいは目を合わすだけの気力が失われてしまったからなのかはハッキリとしない。ハッキリとしないが、たぶんおそらく後者なのだろう。
四人は別々に給水をし、壁にかけられたタオルで汗をふく。それらはとても淡々としていて、休憩時間はただの作業に過ぎないと言っているように見えた。
湖の底で沈殿している泥のような雰囲気。排気ガスの溜まった密室にいるような不快感。確かに分かることは、その四人は練習中に一度も笑っていないということ。
そんな濁った空気を切り裂くようにあやなはやって来た。いや、実際には彼女はただ歩いているだけだ。しかし、うつむく四人がそちらを振り向くだけの何らかの力がその場に働いた。
そこには小学生ぐらいの、幼いながらに整った顔立ちの少女。不遜なまでに頬を釣り上げ、高々に胸を張る仁王立ちの少女。
「貴様らはどうして負けてばかりなのだ?」
四人が黙っていると、少女はそう訊いた。
後ろめたさも、嫌悪も、悪意も、叱咤もない、純粋な疑問の声だった。
「……はぁ?」
それはあやなの言葉に応えるように四人の中の誰かが漏らした声だった。まるで不快感を隠さない辛辣な声色。
あやなの疑問があまりに予想を越えたものだったから。あまりに度が過ぎていたから。自身の持つプライドが、相手への反発を選ばせた。
「お前、誰だよ」
四人の中の誰かが聞いた。高圧的な声だった。
しかし、あやなは揺るがない。
「私か? 私は九頭竜あやな。しかし、今、私が誰であるかなどは関係ない。重要なのは、『貴様らがどうして勝負に負けてばかりなのか』ということだ」
「お前、喧嘩売ってんのか?」
四人の中の誰かが聞いた。嫌悪感を乗せた強い声だった。
しかし、あやなは震えない。
「貴様らは勝ちたくないのか? 勝負に、あそこにいる者達に」
「意味分からねぇんだけど」
四人の中の最後の誰かが漏らした。酷く投げやりな声だった。
しかし、あやなは曲がらない。
「貴様らは見返したくないのか? 目の前の敵を」
すると、ぽつりぽつりと言葉が続く。
「だって、相手は先輩だし」
「いや、これ、練習だからさ」
「まだまだ、私達そんなレベルじゃないし」
「…………」
「貴様らは悔しくないのか?」
しかし、あやなは戦かない。
そんな彼女に、今度はねばつく泡のような言葉が浴びせられる。
「お前、いきなり現れて、よく分からねぇけど馬鹿か?」
「ここの学校のレベル知ってるよね? 全部の運動部が国体クラスだよ? 一年生の私達なんて、まだ通用する力もってないよ」
「いいから、黙っててよ。君、素人でしょ?」
「……」
「もう一度、問う。お前達は悔しくないのか?」
しかし、あやなは退かない。
「そ、それは……」
「で、でも……」
「……ちがう、けど」
「……」
「一方的に投げられ、一方的に負け。それを、他人の強さのせいにする。そんな自分を惨めだとは思わないのか?」
そして、あやなは揺るぎない。
「て、てめぇ!」
四人の中の一人があやなの制服の襟を掴み、拳を振り上げる。
だが、それを四人の中の一人が身を乗り出して止めた。
「……く、悔しいよ」
その一人はそう口にした。
「な、直美」
四人の中の誰かがそう呟く。
すると、直美の中の“何か”が喉の奥から溢れだした。
「悪い!? アンタ達だってそうでしょ! この学校に入ったからには、地元では相当強かったハズよ! 敵なんていない。他の人達に羨望のまなざしを向けられていた強者! でも、ここではどう? 一方的に投げられて、負けて。上級生に一矢報いることすらできなくて。しかも、それを自分の弱さじゃなく他人の強さのせいにして。自分の弱さを、今更認められないからって! 自分が強いって勘違いを、今更捨てられないからって!」
直美は他の三人を振り返る。今度はしっかりと仲間に目を向けていた。
「……私はそんなの嫌、もうたくさん」
彼女は小さな声を絞り出した。握られた拳はぶるぶると震えていた。
「……私は、悔しいよ。負けて悔しい想いを、素直に悔しがれない自分が。言い訳を探している自分が」
直美の目からは押し殺していた感情が今にも溢れだしそうだった。けれど、それでも彼女は仲間達を見つめていた。まるで、何かを信じるように。
「……悔しい」
すると、一人が震えながら口にした。
「……私も」
すると、震えた声が重なった。
「私だって、道場では絶対負けなかったのに……」
小さな声が一つになった。
「勝ちたいよ……先輩に」
「ふむ」
あやなは満足そうに笑った。何かを企んでいるような、のちの勝利を確信するような含みのある笑顔。
「それで、どうするの? こうやって私達を焚きつけたからには何か話の続きがあるんでしょうね? まさか、ここまで啖呵を切っておいて何もないなんて言ったらシメるわよ、チビ助」
直美が息まいてあやなに尋ねる。ふてくされていたような最初の印象とは百八十度回転していた。
「ふむ、その通りだ」
あやなはその言葉を真っ直ぐ受けとめ、そして切り返した。
「負けない方法が一つだけある」
あやなは断言する。
だが、それは他の四人が求めていた言葉とは少々違っていて。
「負けない方法……? まさか、『それは先輩達と戦わないことだ!』、なんて言うんじゃないよね?」
四人の中の誰かが不満げに訊いた。
あやなは不敵な笑みを崩さない。
「それは――」
そして、もったいつけるように間を開けた。
「それは?」
たまらず誰かが聞き返す。
しかし、それでも言葉を続けないあやなに四人がしびれを切らしそうになったとき、あやなは言った。
「それは、『私を団体戦に出す』ことだ!」
それは突如生まれた竜巻のように、道場内に溜まった空気をかき乱して。
「…………はぁ?」
四人の呆気に取られた声が一つに合わさった。