ボツ。
直美が顧問を呼びに行き、勝負の結果を報告すると少し驚いた様子で。
「大林が負けたのか」
と呟いた。
そのあと、道場にいる大林の様子を見ながら。
「あいつがあんな顔をするのは久しぶりだ」
とも口にした。
それから顧問が直美達に話したことは、俄かには信じられないことだった。
それは、まだ中学生の頃の大林の話。
そのときの大林はまさに天才で、出場した大会全てで優勝を収め、更には行った全ての公式試合までも余す所なく白星を飾っていた。
無敗、無敵。
そんな言葉が当時、誰よりも似合う柔道家だった。
そのことは直美達も知る所で、周囲には大林に憧れて柔道を始めた者も少なくない。
「だがな、そんなあいつにも目標としてる人間がいたんだ」
顧問は懐かしむようにそう言った。
それは大林が中学に上がる前に、世界大会で二回連続金メダルを取った選手のことだった。彼女もまたこの高校出身で、顧問は当時から柔道部顧問だったという。
「あいつは本当に強かった」
顧問は大林の憧れていた選手の試合がどんなものであったかを語った。
正に覇者。全試合オ―ル一本勝ち。世界中の強豪相手に自身の強さを知らしめ、確かに柔道界の頂きに立っていた、と。
「あれは、あいつが三度目の世界大会優勝を成し遂げたときだった。当時、一年坊主の大林が私に頼みごとをしてきたのは」
顧問も最初は、大林の図々しい願いに聞く耳を持たなかったのだという。しかし、あまりに食い下がるので駄目元で彼女に連絡を取ってみた、と。
「それで、それでどうなったんですか?」
直美は急かすように口にする。
顧問は「焦るなよ」と言って嘆息しながら話を再開させた。
「普通に引き受けやがったんだよ、あいつ。たかが高校一年生との練習試合を。『恩師の頼みは断れませんからね!』って」
そして、顧問はその試合に審判として立ち会った。
大林は全身全霊を賭ける意気込みで試合に臨んでいたという。
その練習試合が決まってからというもの、大林は四六時中を柔道に費やした。
はたから見ても異常だった。大林は寝る時間も惜しんで柔道の練習に明け暮れた。
「たぶん、嬉しかったんだろうな。いや、楽しかったんだろう。柔道をやっているときが一番。あのときの大林は」
顧問は過去を慈しむように回顧していた。
そして、その日がやってきた。
そして、二人は出会った。
そして、二人は戦った。
そして、大林は。
大林はその憧れの選手を倒してしまった。
そのとき、顧問は自分が何を見ているのか分からなかったという。
あの柔道の世界王者が。最強の名を欲しいままにした彼女が。高校に上がったばかりの人間に手も足も出ない状況を、頭が理解しようとしなかった。分かりたくなどなかった。
「ごめんなさい……もう、終わりにしましょう」
世界王者がそう口にしたのは、ちょうど十回目の「一本」が聞こえた頃だった。
「そのとき……そのときの大林先輩はどんな顔をしていたんですか?」
直美は重く沈むような声で訊ねる。
「悲しんでいるような。泣いているような。そんな顔だった。まるで、迷子の子どものような。実際、どんなだったんだろうな。強くなる途中で、まだまだ上にいける地点にいて。自分が目指す目標を失ってしまった人間の感情ってのは」
顧問は淡々と話した。だが、少しだけ声に後悔の感情が混じっていた。
自分のせいで。そう思いつめるような。
「それからだった。あいつがまともに練習をしなくなったのは」
顧問はまた一つため息をつく。
顧問が部員の中でも、特に大林に厳しくしていることの理由が分かった気がして直美は少し納得する。
「今日まで、一度もあいつがちゃんと笑っている顔を見たことがなかった。いつも、へらへらした顔で自分に嘘をついているようだった。だが――」
そして、最後に顧問はこう言った。
「もう大丈夫そうだな」
彼女は肩の荷が下りたような、そんな顔をしていた。




