一期一会
麻衣子は走っていた。腕を振り上げ、懸命に。
心臓はバクバクと音を立てて血液を送り出し、空気が通る度に喉がひゅーひゅーと鳴る。急激な運動に、彼女の脚は強い痛みで拒否反応を示し始めた。早く止まれ、すぐに休め、と。しかし、止まれはしない。休んでなどいられない。少しでも遅れれば、また酷い目に合わせられるのだから。あの耐え難い苦痛を強いられるのだから。
「ご、ごめんなさい! あの……」
麻衣子は体育館裏に到着すると、開口一番に謝罪する。涙ぐんだ、必死な声で。
ちゃんと言えば分かってくれるだろうか。全速力で走ったけれど、もう既に売店には人が並んでいて、それで遅くなってしまったことを。それとも、やっぱりダメなのだろうか。彼女の声には、そんな不安な想いがそのまま乗せられているようで。
「遅えよ」
麻衣子が事情を説明する前に裁定が下る。
胸の奥でじわりと冷水が広がった。たった一瞬で心臓が冷たく凍ってしまったよう。
「す、すみま――」
麻衣子はすぐに謝罪の言葉を重ねようと声を出す。しかし、その途中で彼女の体に強い衝撃が走った。
「あぐぅっ……」
気道を絞められるときの家畜のような声。同時にひしゃげる体。
麻衣子の腹部に深く、深く沈みこんでいるもの。それは人間の拳だった。
「次からはもっと早く買ってこい、クズ」
体格のいい生徒はそう言って拳を引き抜く。そして、麻衣子が持っていたビニール袋を乱暴に奪い取った。
「うぐっ……うぅ…………」
麻衣子はその場にへたり込む。両手で何かを守るように自らの胴を抱え、眉間に皺をよせつつ痛みに耐えた。額にはじっとりと脂汗が滲んでいる。
「ったくよ、腹ペコだよ」
「私のコロッケパンは?」
「お先にもーらい、っと」
「お! これ、ウマそうじゃん」
それはとても楽しそうな声だった。仲間とふざけ合うときの愉快な声。
目の前に倒れている人間がいるのに、もがいている人間がいるのに。けれど、それはいつものこと。麻衣子の過ごす一日の中では、ごくありふれた光景。
「うぅ……はぁ…………はぁ」
時間が立つと、少しだけ。ほんの少しだけ痛みが和らいできた。それでも身をよじるほど苦しいのだが、小刻みにでも空気を肺に入れられるようになる。辛くて、苦しい。辛くて、苦しいが少しだけ。
「……ふっ……ぐぅ」
ふと、視界に何か動くものが映る。小さな虫だった。虫は麻衣子と同じように地面に這いつくばり、懸命に体を動かしている。
――ああ、アリだ。アリが餌を運んでいる。自分の体より、あんなに大きいのに。頑張り屋さんだなぁ。
麻衣子はそのか弱い存在に愛おしさを感じていた。
あるいは、現実から逃避したかったのかもしれない。光を蝕むような暗い世界。存在を狭めるような辛い世界。彼女はこんな状況でなければ意識さえしない小さな生命を、涙をこらえながら見つめていた。
――これで、終わりだといいなぁ。
麻衣子はぼんやりと思う。強くは願わない。もう、裏切られたくはないのだ。だから、ただ想うだけ。これから起こることなど、もう決まっているのだから。
また、声がした。
「おい。いつまでそこでうずくまってんだ? コラ」
「…………はぃ」
喉を振り絞って、やっと返事だけはできた。
まだ、全く会話などできはしない。呼吸さえままならない。しかし、彼女は腹部を手で抱えながら、這いずるように移動する。そして、四つん這いになった。弱々しい麻衣子の背にそいつは当たり前のように座る。
「それでさー」
「ギャハハハハ、それウケるな」
「そういえば、昨日あいつがさ……」
「マジで!?」
楽しそうな声だった。仲間とふざけ合うときのあの愉快な声。
その間も、麻衣子はじっと薄茶色の地面を見つめていた。手も膝もとっくにしびれて感覚がなくなっている。けれど、いつものこと。だが、いつものことだとしてもそれは、麻衣子の中でとても辛い時間であった。
――本当に椅子になれたら良いのに。人間が無理して椅子のふりをするから辛いんだ。私の足が鉄なら。背中も木で、背もたれもあって、ちょうど教室にあるような椅子なら。もしそうなら、こんなに苦しくないのに。
一秒が無限に思える時間。麻衣子はそんな途方もない時間を、ただひたすらに耐え、待っていた。
「苦しい」という言葉では足りない。「辛い」という言葉では軽すぎる。麻衣子の心は張り裂けるような悲鳴を上げていた。それでもなお、この時間はゆるやかに流れるのを止めはしない。
「そういえば椅子。練習で怪我したからいつものやつ、あとで頼むわ」
そいつらの一人が麻衣子に告げる。不思議な言葉だった。
自分は彼女らにとって一体何なのだろうか。人なのだろうか、物なのだろうか、それともやっぱり椅子なのだろうか。麻衣子は分からなくなった。
「……わ、分かりました」
麻衣子は恐る恐る返事をする。その理由はすぐ直後に分かった。
『ゴンッ』
後頭部への衝撃で首ががくんと揺れる。麻衣子に座ったそいつの拳の固さが肉を伝わる。
「椅子がしゃべんなよ」
理不尽なまでの仕打ち。しかし、それももう慣れてしまっている。
――痛いなぁ。でも、返事しなくてもやっぱり殴られたんだろうなぁ。「返事ぐらいしろよ、椅子」とか言われながら。
麻衣子はガンガンに揺れる頭の中でぐるぐるとそう考えていた。
おそらく、殴られたことによる脳震盪だろう。麻衣子は自分が向いている方向が前なのか後ろなのか、それとも背中の方なのか、どちらに地面があるのかさえ分からなくなっていた。
――もう、消えちゃいたい。苦しい、苦しいよぉ。「何で私だけ」なんて贅沢なことは言いません。だから……だからお願いです、神様。どうか私をこの世界から追い出して下さい。楽にして下さい……。
麻衣子は縋りつくように心の中で何度も唱えた。
しかし、いつも通り何も言葉は返ってこなかった。
神はどこにもいない。それが全能の神の答えであるかのように。
そして麻衣子の存在を嘲るように、そいつらの笑い声が一段と大きく聞こえた。その声が彼女を内側から責め立てる。
「……うっ、く」
麻衣子の瞳からついに涙がこぼれ出てきた。
――ああ、我慢してたのになぁ……。
それは心の中で一番大事な何かが、流れ出ていくようで。麻衣子の体から力が抜け、そのまま崩れ落ちていく。投げ捨てられた人形のように、終わってしまった物語のように。
その時だった。
「おい」
声が響いた。
強く、轟くような声。それは空気を割って驚くほど鋭く耳まで届く。伝うのでなく断ち切るように。
その声を聞いた全ての人間が振り向く。振り向かせる。その音の元の方へ。
「……は?」
そこにいたのは少女だった。
まだ幼い顔立ちの小学校低学年ぐらいの少女。
腰まで届く金色の髪を両脇で縛った、可愛らしいツインテール。未発達の体躯に合わせて作られた、Sサイズよりも更に小さい特注の制服。しかし一方で、いたいけな少女が発するには不釣り合いな猛々しい紅い眼光。
腕を組み、足を広げて仁王立ち。そして、頬を大きく釣り上げて傲慢に笑うその様は、まるでお伽噺に出てくる英雄で。この世に恐れるものは何もないとでも言うようで。
――綺麗だなぁ……。
麻衣子はぼやけた頭でそう感じていた。
なぜだか分からないが、麻衣子にはその幻覚がとても心強く感じられた。
「誰だ? おめぇは?」
最初に反応したのは、少女から一番近い位置にいた生徒だった。彼女は不機嫌そうに眉をひそめると、語尾をだらしなく伸ばしながら少女に訊ねる。
すると、少女は口角を少し吊り上げながら何かを自慢するように答えた。
「私が何者か――それは今、さほど重要なことではない。それよりも『お前らは何者か』、それがこの状況では大切なのだ」
それは不思議な言葉だった。
非難するでもなく、受け入れるでもない、ただそこに在る言葉。青く広がる海のように、そびえ立つ山のように。ただそこに在るだけで、それがそれだと分かるもの。
だが、それだけに何かが彼女らの神経を大いに逆撫でする。そう、まるで自分の存在が見下されているような。
「はぁ? 何言ってんだ、おめぇ」
「ぶっ殺すぞ、こら」
「なめてんのか?」
「ああん?」
野犬達が吠え始めた。己が持つ牙を、攻撃性を、見せつけるように。
そして、遅ればせながら少女の存在を実感する者が一人。
――え?
そのとき初めて麻衣子は、自分の見ているものが夢でも幻覚でもないことに気が付く。
――この子は……誰?
少しずつだが麻衣子の溶けた思考が回復しつつあった。
明瞭になった視界に映し出された少女は、また大きく口を開いた。
「どうやら私の質問の意図が伝わっていないようだな。いいだろう。言葉を変えて再度、問う――お前らが所属している部活は何だ? 肉体の発達具合から察するに、格闘関連の部活と見受けるが」
少女は話す。目の前の威嚇も威圧も敵意も、真っ直ぐに押し返して。
「はぁ? 殺すぞ!」
「て、てめぇ、チクる気かよ?」
その意志に気圧される。立てた勢いを削られる。吠えているのではなく、吠えさせられているような。 脅しているのではなく、脅されているような。そんな違和感に支配される。
気付くと脚が震えていた。しかし、彼女らはその理由が分からない。何故なら、目の前にいるのはただの少女だから。自分達よりも遥かに幼い一人の少女。その現実が彼女らの認識を狂わせる。
つまりそこにいるのは、精神のバランスを欠いた数匹の獣。それらが行き着く先はただ、闇雲に吠えるということだけだ。
「……まぁ、待て」
そんな彼女らを諌めたのはそいつだった。
低く、落ち着いた声。見定めるような目を少女に向ける。
「おい、お前。見かけない面してるが、1年か?」
「うむ、その通りだ。本日、1年B組に転入してきた」
「なるほどな。そりゃ、1年坊主なら、ここの道理を知らなくても無理はねぇ。そのでけぇ態度も、まぁ頷ける。……それで? その1年がいったい、私達に何の用だ? もし、こいつらが言ってたように、このことを誰かにチクるってんなら――」
少女は遮った。
「お前らはもしかすると、阿呆なのか?」
「…………は?」
その物言いに空気が凍った。
場が『シンッ』と張り詰める。
「用なら先ほどから再三、申している。『お前らが所属している部活を知りたい』、とな」
少女は呆れたように鼻をならした。
――あ、ありえない……。
麻衣子は自分のことでもないのに、心臓に冷水を流し込まれたような感覚に陥る。これから起こるであろう悲劇を想像すると、いや、想像したくもない。
そしてそいつが口を開く。
「お前。さっきから、誰に向かって口聞いてんだ?」
周囲の温度が更に下がる。冷凍庫の中に閉じ込められたような恐怖感が広がった。
しかし。
「誰かと問われれば、そうだな。そこの阿呆に」
少女は言った。
何気なく、飾りなく。
当たり前のことを、「当たり前だ」と言わんばかりに。
「…………分かった、もういいや」
そいつは首を横に振った。「やれやれ」、そんな素振りで。嘆息しながら。
「入学したばっかの1年坊主だからよ。ちょっとばかし礼儀がなってなくても見逃してやろうかと思ったが、さすがに度が過ぎてやがる。こりゃ、教育が必要だな」
麻衣子の背中から尻を離すと、ソイツはぐるぐると肩を回し始める。
「待て」
「なんだ? 今更、謝っても遅いぜ?」
ソイツは馬鹿にするように笑った。
「お前らは何部だ?」
対して少女は真剣に訊ねる。
「……ボクシング部だよ」
熱の引いた、薄暗い声だった。
「ふむ、感謝する」
その言葉には確かに謝礼の気持ちが込められていた。
だが、それを素直に受け入れられるほど、もはやそいつの心に余裕はない。既に、頭の中では目の前の少女を傷めつけたいという欲求が渦巻いていたから。
そして言う。
「てめぇに、この学校のルールを教えてやる」
「ほう、何だ?」
少女が言葉を返すや否やボクシング部部長は拳を構えた。
「強い者には絶対服従ってことだ!」
右のつま先で大地を蹴り、左足で踏み込む。靴と地面がこすれ合ったときに生じた『ジャリッ』という音は、既にトリガーが引かれたことを教えた。
下半身で生んだ運動エネルギーを、腰を切ることで上半身に伝える。握った左手を適度に引き込み、右手の推力をより増幅させる。真っ直ぐ突き出す拳に、食い気味に体を合わせることでエネルギーが更に倍化。それが弾丸と同じ回転を携え、驚異的な破壊力でこちらに向かってくる。
「だ、だめ!」
麻衣子は叫んだ。
どうしてかは分からない。だが麻衣子の声帯は震えていた。
『バキャッ!』
次の瞬間、そいつの拳は何の淀みもなく少女の顔を射抜いた。
何かが割れる嫌な音。
「ひっ……!」
麻衣子の喉の奥へ空気が引っ込む。
しかし、そいつは更に腕を引き戻し次弾を体に装填した。
追撃。追加害。追破壊。徹底的に傷めつけて、二度と逆らえないようにする。そいつは続けてざまに開いた体を返し、左拳を突き出した。何度も何度も。これから徹底的に。
――あれ?
だが、そこで気付く。
闘争の中の一瞬の刹那。体に伝わる感覚の中途半端さ。戻って来た手の感触の不明瞭さ。そいつは一瞬だけ自分の右手に眼を向ける。
「へ?」
そこにはひしゃげた指から白い骨が突き出ていて。
そして、すぐに神経が軋む。
「……っぐ、があああああああああああ!」
反射的に声が出る。
痛みが、痛みが口から飛び出した。
一方の少女は先ほどと同じく腕を組んだまま、嬉しそうに笑っている。
「ふむ、中々の威力だ。体重もしっかり拳に乗っている。だが――」
そして、一際大きく声を上げた。
「遅い!」
――な、何が、何が起こったの!?
麻衣子には見えなかった。いや、その場にいた誰もそれを視界に捉えることはできなかった。そいつが放った高速の拳を、更に上回る速度で完全に破壊した少女の拳を。
「うぐぅ…………い、いてぇ」
そいつはその場にうずくまる。どこかで見たことがある姿だった。
先ほどまで畏怖すべきだった存在が崩れ、今は何とも情けない姿になっている。それを周りの人間が一斉に見つめた。
動揺、動転。そして、本人達も気付かない僅かな嘲笑。それを感じ取ってか知らずか、そいつは必死で怒号を上げた。
「な、何やってんだ、てめぇら! さっさと、こいつをぶっ殺せ!」
狂乱の声。元、王者の声。元、傍若無人の声。
彼女らは互いに顔を見合わせた。
――コイツの言う通りにするべきか?
一瞬、彼女らの頭の中で「下剋上」、「裏切り」といった言葉が浮かぶ。
だが、同じく浮かぶ別の言葉。言うことを聞かなければ殴られる。裏切れば傷めつけられる。それまで幾度となく塗り固められた感情は、ちょっとやそっとでは洗い流せない。目の前にいるのは弱者、しかし弱者といえど暴君なのだ。
彼女らの中で消極的な打算が働く。
「お、おう」
「じゃ、じゃあ行くか」
「せ、せーの、な?」
「わ、分かった」
「「「せーの!」」」
互いのタイミングを重なるように声を揃え。
「うおおおおおおお!!」
「死ねええええええ」
「おらあ!!!!」
そして、散っていった。
「あぐっ……」
「うぅっ!」
「あひぃん!」
少女に危害を加える前に犬達は、遥か後方へ悲鳴と共に吹き飛んでいく。
「なるほど、確かにここでのルールを教えてもらった。それで、どうする? これからお前達は強者に絶対服従か?」
少女はごみのような彼女らに近づき、尋ねた。
「ひ、ひぃいぃいぃぃぃいぃ」
そいつも含め、彼女らに選択肢は残されていなかった。
撤退。敗走。彼女らは脇目も振らず全力をもって逃げだした。
「む? なぜ、逃げる? それもこの学校の規則なのか?」
走る彼女らの背に向けて、少女は問いかける。だが、それに答える者は誰もいなかった。
「ふむ。よく分からん」
彼女らが走り去ったあと、少女は不満げに首を傾げる。何か納得のいっていない様子だった。
そして、少女は答えを求めるかのように視線を巡らせる。すると、その視界に地面にへたり込んでいる麻衣子の姿が映った。
「おお、一人残っておるではないか!」
「ひっ!」
麻衣子の肺が『キュッ』と締まる。
得体のしれない。少なくとも自分をいじめていたボクシング部よりも強い少女が彼女の元へと走ってくる。
――わ、私、死んじゃうのかな……? あはは。
それまでの人生の記憶が走馬灯のように、麻衣子の頭の中で駆け抜ける。しかし、その間も少女はこちらに走ってきていて。
――あ、だめだ。
追い詰められた麻衣子は最後の手段に出た。
「ご、ごめんなさい~! 何でもしますから、殺さないで!」
土下座である。
つま先から膝まで真っ直ぐ地につけ、両手で地を抱えながら、頭を真摯に地に下ろす。彼女の決死の想いが込められているためか、その姿はある意味芸術的とさえ思えた。
そんな麻衣子の姿に少女は足を止め、不思議そうに質問した。
「……? なぜ、謝る? 何か悪いことでもしたのか?」
「え?」
麻衣子は呆気に取られた。そしてゆっくりと顔を上げる。そこには困ったように口をすぼめる少女の姿が。
「え、えっと、して……ないです」
「そうか!」
麻衣子がおずおずと告げると、少女は明るい笑顔を咲かせた。
「ところで、お前はさっき何をしていたのだ?」
「え? さっきって……?」
「お前はこう、両手をついて。こう、あやつらが乗って――」
少女は何もない空間にしゃかしゃかと手足を動かして、また実際に先ほどの姿を真似しながら、麻衣子に説明する。
「ああ。それは……えっと。あの、ボクシング部の人達に、その、命令されて…………『椅子になれ』って……」
「な、なんと! それは難儀だな。そうか。先ほど奴らが言っておった、『強者には絶対服従』とかいう規則だな? まさか、ただ相手が強いというだけで、ときには椅子にさえならなければならないとは……大変な学校なのだな、ここは」
「あ、いえ……それは、あの人達が勝手に言ってるだけで…………」
麻衣子は訂正する。
「な、なに!? すると、奴らは嘘をついたのか!?」
「え? い、いや」
動揺する麻衣子。
確かに突拍子もないことだが、別に嘘をついたという訳では。
「くそう、許せん! 転入したてで、右も左も分からぬ純粋無垢なこの私を謀るとは。危うく、クラスで恥をかく所であったわ!」
そんな麻衣子をよそに、少女はボクシング部が逃げた方向に鋭い視線を向けていた。
「……」
――う、うん。なんだか怖いから、何も言わないでおこう。
怒りに震えるその拳を見て、麻衣子は傍観を決め込むことにする。
途端、少女は麻衣子を振り返った。
「それはそうと。お主はなんとなくだが、嘘つきではなさそうだな」
身構える麻衣子。しかし、こちらを向いた少女の顔は意外にもけろりとしていて。
――も、もう怒ってないのかな……?
麻衣子は様子を窺いながら言葉を返す。
「え、えっと……たぶん、嘘つきじゃないです」
「そうか! 私の目に狂いはなかったな。すると、そうだな……」
少女は嬉しそうに言うと、腕を組みながら何かを考え始めた。
嫌な予感がする。
「そうだ! 私にこの学校を案内してくれ! なにぶん、私は転校したてだからな。この学校のことなど、全くもって分からないのだ。お前には少々大変なことかと思うが、この申し出を受けてはくれぬか?」
「……え? あ、はい」
ただ、少女の言葉は、その尊大な物言いを除けば案外普通のことで。だから、麻衣子はそのお願いを二つ返事で受けてしまった。
「そうか、やってくれるか! そうと決まれば、まずはこの学校の施設について私を案内するのだ。ほれ、そんな格好で何をしている。さっさと、立て」
そのとき、ようやく麻衣子は自分が地面に正座したまま会話をしていたことを思い出す。彼女は手と膝についた砂を払い、ゆっくりと立ち上がった。
「おっと、その前に聞いておかなければならないことがあった」
「え? な、なにかな?」
「お主の名前は何と言う?」
「あ。そ、そっか。自己紹介も、まだだったよね。八月一日麻衣子です」
「そうか、麻衣子か! 私はあやな、九頭竜あやな(くずりゅうあやな)だ。では、麻衣子。さっそく出発するぞ!」
あやなは麻衣子の手を握り、元気よく歩き始める。
「あ、あわわ」
急に体を引っ張られて麻衣子はバランスを崩した。
「……む? いや、それよりもまず、ボクシング部の奴らに嘘の借りを返す方が先か?」
「あ、それは……しなくても、い、いいんじゃあ……?」
「そうか? まぁ、麻衣子が言うのならそうなのであろうな!」
そして、あやなは案内される側とは思えないほどぐいぐい先へと進んでいく。
「あ、と、というか、私、先輩だから。け、敬語を使ってくれると嬉しいんだけど……」
「行くぞ、麻衣子!」
先ほど麻衣子が感じた嫌な予感が的中したことが分かるのは、これから少しあとのこと。そんなこととはつゆ知らず、麻衣子は前を歩く小さな少女に引きずられていく。
「部活荒らしタッグ」が誕生した瞬間だった。