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驚天動地

 霰は走っていた。

 淡々と、深々と。

 まるで作業のように。まるで手続きのように。

 決まったことを、ただ冷静にこなしていた。

 そこには一秒も誤差がなかった。一瞬もミスがなかった。これまでと寸分たがわず同じタイムで全ての道を走っていた。

 「無駄を完全に排除した走りなのだ」と、人は言う。

 「彼女には一切無駄がない。だから、あのタイムが出せるのだ」と。

 彼女はまるであらかじめ決められた筋書きを辿るように走る。

 霰の視界は氷で溢れていた。いや、氷そのものだと言えるかもしれない。

 彼女の視界の中では、全てのものが冷え切っていたから。

 何にも興味が持てない。何も欲しくない。そして、霰はそんな自身にさえ関心がなかった。だから、特待生としてこの高校に入ったときも、大会で優勝したときも、世界記録を打ち立てたときも。彼女の心は少しも揺れなかった。当然のような、当然のこと。彼女の心にある凍った感想。


 ――でも。


 そんな彼女が自転車競技部に入ったのには理由があった。それは彼女が持つ唯一の理由。


 ――あれは。


 彼女には一つだけ欲しいものがあった。

 どんなことをしてでも、何を差し出しても欲しいもの。仮に要求されるのがどんなものであれ、冷え切った彼女には特に価値のない『物』であることだし。

 しかし、彼女がそこまで執着するものを自転車競技部の人間は全員が持っていた。最初は信じられなかった。偶然かもしれないと疑った。だが、次に入ってきた新入部員もそれを持っていたことで彼女は自分の欲しいものがこの競技では得られると確信した。

 だから彼女は入部したのだ。特待生に選ばれたのは異なる種目の競技の成績が所以だが、それでも無理矢理自転車競技部に入った。それなのに。


 ――手に入らない。


 誰よりも努力し、誰よりも練習した。それにもかかわらず、彼女は未だに望むそれを手に入れられないでいる。

 たまに、他の部員達が楽しそうに笑い合っているのを見て。それが陽炎のように揺れていたのを彼女は覚えていた。

 彼女らは本当に楽しそうで、彼女にはそれを見せつけられているように感じた。


 ――欲しい。


 それが氷のような彼女の、炎のような想いだった。

 そしてレースは残り1kmを切る。ここからゴールまでは一本の直線、後ろには彼女を追う選手など一人もいなかった。

 それは当然のこと。当たり前のこと。

 霰は短く白い髪が流れる風に揺れていた。

 同じペースでペダルを漕ぐ彼女。同じタイムで走る彼女。同じ軌跡を紡ぐ彼女。

ついに霰の目にゴールテープが映る。


「……?」


 そのとき、彼女はなぜか言いようもない違和感を覚えた。

 何かがしっくりこない。何かが間違っている。

 それが何かと問われても、本当に言葉にし難い何か。

 それでも無理にその感情を言葉にするなら、今見えているゴールテープが自分のものではないと感じるような。


「……馬鹿馬鹿しい」


 彼女は表情を変えずに呟いた。

 凍った夜のように冷たい声。

 しかし。


 ――???


 彼女の心臓は違った。

 それまで意識しなければ動いていることが分からない程度、そんな程度に動いていた心臓が、そのとき初めて彼女に何かを訴え始めた。


『ドクンッ! ドクンッ! ドクンッ!』


 鼓動。鼓動。鼓動。心臓が鼓動する。鼓動を打ち始める。「早く、早く!」と急かしてくる。「逃げなければ! 今すぐに!」。彼女の心臓が無闇に鼓動を早める。


「……な……に?」


 霰は困惑していた。ゴールは目の前にあるのに、なぜかその勝利が何か他の誰かに横から奪い去られてしまうような悪寒、予感。

 そして、肩に手をかけられたかのような薄い感覚。

 初めて彼女は振り向いた。


「ぬおおおおおおおおおおおおおお!!!!」


 そこには遙か彼方から、こちらに向かってくるあやなの姿。


「……」


 『ゾッ』とした。

 あり得ないものを見た。

 この距離で、このタイミングで。霰に追いつける者などいないはず。

 これまでだってそうだった。これからもそうあるはずだ。だから。

 そんな者がいるはずがない。

 そんなことがあるはずがない。

 しかし。

 もし。

 もし、そんなことがあるとしたら?

 もし、そんな存在がいるとしたら?

 いるとしたら。

 それは。


 ――化け物。


 霰は反射的に目を背ける。そのあり得ない光景を否定する。


「うおおおおおおおおお!!!」


 しかし、霰の耳は再度あやなの声を捉えた。

 彼女の手は、足は、歯は、縫いつけられたような無表情は初めて震えあがる。


「うわあああ!」


 霰は絶叫した。


 ――怖い! 怖い! 何なんだ、あれは! 


 彼女は猛獣に追いかけられているかのようにあやなを恐れ、そして脅えた。

 もう後ろは振り向けない。震える。体が、震えが止まらない。

 いつもの霰のペースが崩れる。今まで、誰も崩せなかったスピードが、何者も壊せなかった霰のリズムが狂い始める。

 いや。

 違う。速度が上がる。霰の脚が急速に回転を速める。

 ペースが狂ったのではない。ペースが上がったのだ、急激に。それまで彼女が残していた余力が、全力が――ペダルへと注ぎこまれる。

 彼女は生まれて初めて本気を出した。

 それは誰も追いつけない力。

 どこまでも高まり続ける力。

 限りない、あらゆるものを呑みこむ力。

 全てを凍らせ、全てを圧するヴィクトリーロード。


「まさか」


 霰は言った。

 いつの間にか霰はゴールしていた。

 彼女の視界でふわりとゴールテープが舞う。

 そう、いつの間にか霰とあやなは並んでいたのだ。

 そして最後の最後。一瞬身をひるがえし、霰の胸よりも先にあやなの胸がゴールテープに触れる。

 一枚の絵画のような光景。光の中。両手を広げ、天使が飛び立つようにあやなはゴールテープを切り裂いた。

 あやなが勝った。

 霰は生れて初めて負けた。

 そのことを頭よりも体が先に理解する。

 ハンドルを握った手が離せない。

 体から力が全て抜けてしまっているのに、自転車はもう止まっているのに。霰はそこから降りられない。動けない。

 そして。


「う、うぇえええええん!」


 霰は泣いた。涙が、声が溢れてきた。

 彼女には理解できたのだ。自身の負けと、その原因が。


 ――悔しい! 悔しい! あんな、ちょっとだけだったのに!


 それまで氷のように冷え切っていた視界が、今では自分の涙で満ちている。


 ――あいつが! あいつが!


 それまで凍てついていた心の中が、悔しさで嵐のように渦を巻いた。


 ――あいつが私よりちょっと。


 冷たい世界が、感情と言う名の熱を持つ。


 ――ほんのちょっとだけ!


 それが心に積もった彼女の氷を溶かした。


 ――胸が大きかっただけなのに!


 完璧少女霰の、唯一のコンプレックス。それは胸囲的な胸の小ささだった。


「見たか! この私との“圧倒的な乳房の差”を!!!」


 あやなは大きく胸を張り、そして笑った。

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