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猪突猛進

 美樹は走っていた。

 60kmを越えてなお、美樹の体は力強い。決して緩めず、けれどやりすぎず。


 ――限界まで出ている。


 美樹は自身の全力を確かに感じていた。

 その美樹のペ―スが崩れ始めたのは70km地点だった。いや、正確にはペースが崩れたのではなく、いつもの美樹のスピードに落ち着いてきたというだけ。


「……っく」


 しかし、彼女は歯噛みする。

 なぜなら、目の前を行く霰にぐいぐいと差を離され始めたからだ。

 彼女は相変わらず氷のままだった。涼しい顔のままで、同じスピードを保ち続ける。


 ――ここまで……違うのか。


 美樹は自身の速度を制限する。彼女には理解できたから。諦めでも、手控えた訳でもなく、霰と同じペースでは自身の体が持たないことを。常に自分と向き合い続けた美樹だからこそ、それがまじまじと分かった。

 彼女が努力を続けた十数年間。霰に絶望感を、あやなに敗北感を味合わされ、さらにそれを乗り越えようと、立ち向かおうと進化した美樹。

 だが、彼女の進化はまだ途中だった。付け焼刃の力でなく、更にじっくりと入念に力を高める時間があったならば、この瞬間霰を越えることができたかもしれない。しかし、美樹の力はまだその地点に届かなかった。


「……」


 涙を呑み込むような悔しさの中、美樹はふとあやなのことを思い出していた。食らいつくように霰の背中を追う間。自分の中の滾る炎を氷で溶かしながら。

 彼女はあやなの姿を見た。

 その瞬間。その一瞬だけ、美樹は。自身の燃えたぎるような熱を抑えることを忘れた。


 ――追いついたぞ! 九頭竜あやな!


 美樹の胸は歓喜に打ち震えた。

 しかし。

 しかし、その瞬間はあまりにあっけなかった。

 美樹は一瞬だけ横目であやなの姿を見る。

 死人のように青ざめた顔。

 泥のような淀んだ動き。

 そしてあやなの目から一切の光が消えていて。

 彼女の瞳に、また美樹は映っていななかった。


「……く」


 美樹は心の中で石を食む。

 そうしなければ、悔しさで今にも倒れてしまいそうだったから。霰に勝てず、あやなに自身の存在を刻めず。自分は何のためにレースに出場したのか。


「……!」


 そこまで考えて美樹は考えを振り払うように首を振る。


 ――そうじゃない! 私は誰かのためにレースに出た訳じゃない! 自分のためにレースに出たんだ! 誰に軽んじられようと、誰に認められなくとも、私は私だ!


 心に浮かんだ弱い心は消える。


「最後まで……全力で!」


 美樹は緩みそうになった脚に再び意志を込める。自分が今出せる限界のスピードをキープする。

 その時だった。


「……は?」


 ちょうど80km地点、美樹の耳に声が届いた。

 初めは自身の空耳かと思った。自分があまりに彼女に固執していたから、その想いが感じさせた幻聴かと。

 だが。


「ぬおおおおおおおおおおおお!!!」


 空耳ではなかった。

 何度も心の中で反復した彼女の声が確かに美樹の耳まで届いた。


「ふふふ」


 美樹は嬉しそうに笑う。友達と遊びに出掛けるときのように。

 後ろを振り向かずとも分かった、あやなが背後に猛然と迫ってきていることが。


「ふふ、私は来ると思ってた。なぜだか知らないが、こうなることを私は予想してたみたいだ。そう、私はお前を待ってた! 勝負だ! どちらが強いかここではっきりさせてやる!」


 美樹の心が、再び猛火のような勢いで走り始める。だが。


「退け」


 勝負は一瞬で片が付いた。

 あやなの速度はもはや人ではない。美樹のすぐ横を、日常の一風景のように通り過ぎる。まるで美樹に興味がない。美樹を相手として見ていない。美樹がそこにはいないような振る舞いで。


「な!!!」


 美樹は驚愕した。

 今の状況が理解できない。何が起こったのかを受け止められない。受け止めたくない。

 しかし、徐々に実感が戻って来る。世界が自分のものになる。彼女は右ペダルから崩れ落ちそうになった。プライドが、自尊心が、彼女を支える全てのものを破壊された気分だった。景色がぐらっと歪む、利き腕の方向に世界が円を描いて強く傾く。


 ――部長にも、あやなにも勝てないのか。私は!


 だが、彼女は倒れなかった。

 彼女の手は体を支え、まだ膝はペダルを踏みしめている。決意。このレースを全力で走り切るという決意が、最後の最後で彼女を支えた。プライドをズタズタにされながらも、最後に残った自身への楔。

 そして再び、明瞭な景色が戻って来た。その遥か遠くで、あやなの後ろ姿が見える。美樹はそのとき初めてあやなの思惑が、魂胆が分かり、彼女はもう一度は倒れこみそうになった。


「ま、まさか! 優勝するつもりか!?」


 そのまさか。


 あやなの頭にあるもの、それはゴールテープ一本だけだった。


「こんな、“圧倒的な差”埋まるわけがない! だってアイツはもうゴール直前だ!」


 美樹は叫ぶ。「アイツ」とは凍てつく氷、霰を指す代名詞。

 あやながどれほど無謀なことをしているか、美樹は信じられなかった。

 そのとき始めてあやなが振り向く。その瞳に映るのは確かに走り続ける美樹の姿。


『ドキリ』


 美樹の胸が鳴る。

 そしてその一瞬、あやなは大きく叫んだ。


「“圧倒的な差? “圧倒的な差”とは埋めるものではない! 見せつけるものだ!!!」

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