暗雲低迷
「ふふふ」
あやなは笑った。
そこにはいつもの傲慢さも、不遜さも見受けられない。
ただ、ただ、純粋な笑い声。子どもがテストで100点を取ったときのような、そんな調子のはずむ声。
「ふふ、この競技は楽しいな!」
そこは、ちょうど50km地点を越える辺りだった。
あやなはレースの最先端をただ一人走る中で、張り合いでも、競い合いでもない不思議な興奮を感じていた。
――どんどん景色が加速する。それを私が加速させる。誰も届かない場所まで、真っ直ぐに。
あやなはそれまで見たことのない光景に、心地良い陶酔のようなものを感じ取る。まるで深い眠りに落ちる前のまどろみのような、現実感の薄れた柔らかい靄に包まれているような優しい感触。
いつしかあやなの体からは汗が引いていた。さきほどまで、滝のように流れ出ていた汗が。今では砂漠のように乾いていて。
しかし、あやなにはそんなことはもうどうでも良かった。
あやなは夢中でペダルをこぎ続ける。
いつしかあやなの体から熱が引いていた。さきほどまで、火山のように滾っていた熱が。今では枯れ木のように凪いでいて。
しかし、あやなにはそんなことはどうでも良かった。
あやなは貪るように景色を加速させる。
いつしかあやなの中から鼓動が薄れていた。さきほどまで、嵐のように動いていた心臓が、今はどこか遠くで鳴っている。
しかし、あやなにはそんなことはどうでも良かった。
あやなは縋るようにハンドルを握った。
――変だな。もっとこがなくては。もっと。もっと。
あやなは体の違和感に気付いていた。自分が自分でないような感覚に。
――おかしいな。もっと進まなければ。もっと。もっと。
あやなは視界の薄暗さに気付いていた。現実が歪むような景色に。
――速く、もっと速く。
しかし、あやなにはそんなことはどうでも良かった。
今はだた、この夢を終わらせずに走ること。あやなはそれだけに没頭していた。
――走る。もっと。まだ速く。まだ、私はまだ見たいのだ。
だが、光り輝いていた景色が少しずつ暗転していく。太陽が海の中に沈んでいくように、夜が顔をのぞかせるように。
――まだだ! まだ、先へ! もっと先へ!
あやなは懸命に体を動かす。焼却炉の中でうごめく塵が、その最後の一片まで自身を燃やし尽くす。
「が……」
そして、終わりのときがきた。
「体が動かな……」
あやなは大きくバランスを崩す。
――私にもっとこの景色を!
『ガシャンッ』
地球と自転車が衝突する音がする。
「息が……」
あやなの視界は冷たい闇に包まれた。




