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盛者必衰

「あやなちゃんって、本当にすごいんだ」


 麻衣子は会場に設置された大パノラマを見つめていた。

 そこにはレースをただ一人独走するあやなの姿。

 ふと周囲に視線を落とす。


 ――周りの人が声も出せてない。皆、あやなちゃんに見入っている。


 麻衣子はどこかふわふわとした心地がした。少しだけ頬が緩む。


 ――い、いや、別に嬉しいって訳じゃないんだけど! あやなちゃんが皆から注目されても、私はあんまり関係ないことだし。それにあやなちゃんにはいつも迷惑かけられてばっかだし、私の言うことは聞いてくれないし、自分勝手だし。でも……。


「かっこいいなぁ」


 麻衣子は画面の向こうにいる少女に微笑みかけた。

 だが、不意にそれはやってくる。それは何か嫌な存在を呼び寄せるような不吉な声。いつもは鈍い麻衣子でも、それが何か悪いことを表す言葉だとすぐに察しが点く。それほど不安な物言い。


「そろそろですね」


 振り向くと、そこには自転車競技部の顧問がいた。

 予想通りの表情。予想通りの無表情。しかし、肌に伝わって来る。これから起きる凶事に備えるような嫌な気配が。


「麻衣子さん、一緒に来てくれませんか?」

「え、どうしたんですか? 先生」


 困惑する麻衣子の手を掴む顧問。

 そのただ事ではない雰囲気に麻衣子は飲みこまれた。誘われるがまま、麻衣子は顧問に連れられる。少しずつ喧騒を取り戻しつつある人込みを抜け、更に会場の外へ出た。

 麻衣子の心臓が『トクンッ』と鼓動する音が聞こえる。何かが、何か悪いことが起きる予感。

 そして顧問は関係者用の駐車場で足を止めた。


「これは……なんですか?」


 彼女が連れていかれた先、そこには白いワゴン車があった。

 外装こそ一般的なものと大差ないが、開かれたバックドアからは沢山の機材が顔を覗かせている。ストレッチャーや酸素マスク、点滴に心電図モニター、ちょうどドラマの中の救急車のような。


「我が校の医療設備をできるだけ詰め込んだ、ほぼ最高水準の回復施術を可能にする車です」

「こ、こんなものどうするんですか? いえ、なんのために?」


 麻衣子は一目で、この車がどれほど貴重なものかを理解した。

 いかに100kmというプロ並みの距離を走るレースとはいえ。いかに、選手の熱中症や脱水症状に備えなければならないとはいえ。明らかに度を越えた設備。

この高校が独自に生みだした回復施術という特殊医療技術、その集大成。これほどの機材を必要とするのは、麻衣子の持ちうる知識の中では、誰かの命にかかわる緊急事態が起きたときだけだ。


「あやなさんのためです」


 顧問の口から放たれた名前は、麻衣子が想像する限り最悪のものだった。

 麻衣子は非難めいた声で聞き返す。


「どういうことですか?」

「説明はあとにしましょう。今から彼女を追いかけます」


 そう言うと顧問はバックドアを閉めて、運転席に乗り込んだ。

 麻衣子は戸惑いつつも助手席の扉を開いてそこのシートに座る。

 顧問が鍵を右手に回すと、湿ったエンジンの金切り声が響いた。

 そして車は動き出す。顧問は備え付けの無線でどこかと連絡を取り、そのままコースに沿って走り始めた。

 途中、顧問がハンドルの左の機械をいじると、備えつけられたカーナビゲーションの画面に生放送中のレースの様子が映し出される。そこには先ほどと変わらず、ただ一人独走するあやなの姿。それにレースを実況するアナウンサーの興奮しきった声。どうやら先頭を走るあやなについて「信じられない」、「奇跡だ」と賛辞をまくし立てているようだった。

 麻衣子はそれを見てホッと胸を撫で下ろす。


 ――先生の様子がおかしいからちょっと身構えちゃったけど、あやなちゃんはいつも通りだなぁ。少なくともこんな車が必要なようには見えないし。うん、たぶん何か先生は勘違いしているんだよ。


 彼女は自分を勇気づけるように顔の前で両拳をぎゅっと握る。


「気付いていますか?」


 それまで黙っていた顧問が口を開いた。


「え? 何がですか?」

「彼女の加速が少しずつですが落ち着いてきているのを」


 麻衣子は画面に視線を戻す。確かに顧問の言う通り、ほんの僅かな差だが最初の出だしよりもあやなの走る速度が安定してきている気がする。だが。


「そ、そんなの当たり前じゃないですか」


 麻衣子は言った。

 その言葉に顧問も頷く。


「そう、当たり前のことです。自転車競技に限らず、走るスピードを競う競技ではスタート時から加速度が急速に跳ねあがり、そのあと減退していくのが一般的ですから」

「な、なら心配ないんじゃ」


 麻衣子は責めるように言う。


「認識が違います。ここで問題なのは、その『スタート時の加速』があやなさんの場合、常識では考えられないほど長時間行われているということです。加速時間なんて普通は数十秒続けば良い所です。それが数分、ましてや10km以上走って、今もなお続いているなんてことは普通ありえません」

「で、でも現にあやなちゃんは」

「走っていますね。いえ、走れています。不可能じみた加速を続けています。しかし、それはなぜでしょう? どうしてそんな加速を続けられるのでしょうか?」

「……」

「答えは一つ、彼女は瞬発力で走っている」


 顧問は続ける。


「彼女の体に触れたときに分かりました。彼女の筋肉は瞬発力専用だということが。陸上競技などでも短距離走と長距離走の選手が区別されているように、その選手の持つ特性や筋肉などで得意とする種目は変わってきます。どちらの距離も得意な選手はそうはいません。ですが、あやなさんは約10kmはある外周コースで美樹さんに勝ちました。瞬発力専用の筋肉を持つあやなさんが、長距離で美樹さんに勝ってしまったんです。あたかも自分は短距離も長距離も得意とする選手だと言わんばかりに。でも、そんなことはあり得ません。だって、彼女の筋肉に『持久力』なんて存在しないんですから。このことから言えることは……そうですね。あやなさんにとって外周の10kmは短距離だったということでしょうか」


 それは麻衣子にも何となく分かっていたことだった。

 回復施術を専門に勉強している麻衣子は、柔道部での一件であやなに触れたときに彼女の筋肉の質をおおまかには把握できていた。

 だが、麻衣子はその直感に確信が持てなかった。なぜなら彼女はまだ高校生で経験が浅く、自身の感覚を信じ切れてはいなかったから。そしてそんな困惑の中で、あやなは実際に10kmという長距離を余裕で走ってしまったから。それはあやなが短距離と長距離、どちらにも長けた筋肉を持つ非常に珍しい人間なのだと誤解するのに十分な出来事だった。

 しかし、実際には麻衣子の直感は正しかった。それを顧問が証明してくれた。そして、だとすれば。

 麻衣子は自身の悪い予感を振り払うように顧問に訊ねる。


「だ、だとしたら、どうなるんですか?」


 麻衣子の声は震えていた。

 それは彼女自身にもその答えが分かっていたからなのかもしれない。知識が浅く、正確でないにしろ、深刻な答えが。

 顧問は言った。


「もし、あなたが全力で走ったらどうなるでしょうか? 自身の瞬発力をフルに使って。あとのことなんか考えずに、ただひたすら全力で。そうしたら、もうそのあとは歩くことすらできないのではないですか? 小さい子どもが自分の体力を把握せずに走り回って、その場で座り込んでしまうように」


 そして正面を見つめたまま、更に車の速度を上げる。


「ですが、彼女の場合は更に不味いです。なぜなら、彼女の体は子どものそれよりも遥かに高いレベルの運動を行う能力を持っていますから。それはとても素晴らしいことですが、その運動は莫大なエネルギーを必要とします。あの子の小さい体では満足に補えないほど莫大な。これは私の単なる推測ですが、普段あやなさんは誰かと勝負したあと、しばらくは次の勝負を控えていたのではないですか? もしそうなら、それは単に彼女の気紛れで行われていたことではありません。それは、あの子が生きる上での必然。つまり、自身が消費した体力を取り戻すための休息期間の確保。彼女はそれを無意識にやっていた」


 麻衣子の顔がみるみる青ざめていく。悪い予感と、先ほど見た大仰な医療設備の映像が頭の中で交差した。


「そんな彼女が今は休息もなしに体力を消費し続けています。10kmを越えてなお、加速し続けるほどの途方もないエネルギーを。そして、もし彼女が。もしあやなさんが今までの人生で、一度も全力を出したことがないのなら。自分が全力で運動し続けるとどうなるか知らないとしたら――」


 裁判官の判決が下る。


「命の保証はできません」


 顧問は冷静に告げる。

 だが、まだ高校生の麻衣子にとって、顧問が使った「命の保証」という言葉はあまりに価値が重すぎた。


「ど、どうして……? そんなに危険なら……先に言ってあげれば」

「彼女は学ばなければいけません」


 顧問は言う。そこには迷いの念など微塵もない。


「本気を出したらどうなるか。自分で経験しなければ、彼女は止めません。そして、いつか本当に危ない場面で命を落とします。ですが、我が校の回復施術なら助けられます。そして、彼女はもっと強くなる」


 子どもを守る母親のように強い言葉だった。

 そして。

 そしてレースの様子を映すカーナビゲーションのスピーカーから。

 アナウンサーの声が。

 あやなが倒れたことを告げた。

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