決意表明
それはまだレースが始まる前に遡る。
そこには勝利を、功績を追い求める強い意志が選手達の内でタイミングを見計らうかのように身を潜めていた。ひとたび気を抜けば、一瞬で置いて行かれてしまいそうな緊迫した空気。その中で、美樹は淡々と自転車の最終チェックを行う。それは自宅で過ごしているかのような自然な動作。余暇を楽しむような安らいだ雰囲気。
周りの人間にはその姿が不信に見えたかもしれない。それは間もなくレースを控えている選手の持つムードにしては、あまりに不似合いなものだったから。
「……」
美樹は視線を上げる。自転車はこれ以上ないほど、流麗に仕上げられていた。
そこにはあやなの姿があった。長い金髪のツインテールがキラキラと風に流れている。 腕を組みながらの仁王立ち。小憎らしい笑い顔。そして、自分のことを見ていない瞳。
美樹は理解していた。あやなの興味がもう自分には向けられていないことを。
「……」
しかし、美樹は感じていた。自分が揺らいでいないことを。鉄のように、氷のように心が研ぎ澄まされているのを。それはまるで――。
「あの人のように」
美樹は視線を移した。
その直線があやなのそれと重なる。
そこには冷気の結晶体。誰も、何も、あらゆる全てを凍てつかせる氷河の凛。
「……っく」
気圧された。
――ものが違う。
あやなは彼女に底知れぬ冷たさを感じたが、美樹には更に黒い感情が落ちてくる。
――私、では……。
それは劣等感。敗北感。自己否定。途方もないほど重いもの。底がないほど暗いもの。
彼女はこれまでずっと見せつけられてきたのだ。自分には決して届かない力を。自分には決して越えられない力を。何度も彼女に挑戦し、何度も彼女に敗北した。
そして植えつけられた感情。熱を奪う無気力という名の冷気。何をしても無駄だと思わされ続けた諦め。
だが。
「私は……負けない!」
自分を慰める必要もない。自分を励ます必要もない。美樹は感情を究極的に制御する。
――私は全力を尽くす。このレースに、今ある全ての力を。
心の氷に。熱い炎が宿る。
それは互いを打ち消し合いながら彼女の体に意志を伝えた。
冷たく凍りながら、熱く燃えるその感情。
美樹は進化しようとしていた。二人の化け物を越えるために、打ち倒すために。
そして乾いた音がする。
美樹を乗せた自転車は、脚から伝わる回転力を余すことなく推進力に変換する。
絶好のスタート。これ以上ない、コンマ1秒の遅れもない最高の滑り出し。
しかし、美樹の目には映った。
風よりも速く駆けるあやなの姿。その人間離れした速度に耐えきれず空気が軋む音がする。
ぐいぐいと離される距離。つま先から這い上がって来るような焦燥感。
――焦るな。
自身を喰いつくそうとする熱を、美樹の冷気が諌めた。
焦らず、どれだけ離されても。
――勝つのは私だ。
美樹は自らのスピードをギリギリ保てるラインでキープする。
――追いつきたい。
――追い越したい。
その衝動を心深くに押し殺し、淡々と。
そして狡猾にその背後に回る。
目の前には自転車競技部部長。世界記録保持者、七ノ瀬霰。
凍てつく氷。
ふと覗く地肌には汗一つ浮かんでいない。そのことが、この常識外れの速度は彼女にとって何の負荷にもなっていないことを窺わせる。
美樹より後方にはもう、他の選手の影すら見えないというのに。
追う者、追われる者。笑う者。
ギアを変えるように心臓が跳ねる。
酸素が全身に廻ると同時に、美樹の体にはじっとりとした汗が滲み始めていた。
それは当然の人体反応。運動することにより体内に生じた熱を汗によって発散、体温を平均値に近づけるようコントロールしている。
しかし、美樹にはそれがもどかしい。
自分の中にある力のようなものが溶け出てしまっているように感じられて。
――この人のように……。
目の前を走る霰を見る。
相変わらず、彼女の体に熱はない。夜気のように冷え切っている。
あやなが遥か先を行くことも、美樹が背後を走ることも、彼女の興味の範疇にはないのだろう。
美樹には当然分かっていた。霰が今、何をしているのかを。
――本当に……手に負えない怪物だ。
それを見たのは美樹がこの高校に入学する前のことだった。
その頃の彼女はまだ中学生で、今の彼女よりもずいぶんと小柄で。だが、自転車競技の大会では常に高い成績を収めていた。彼女にとって自転車競技は生きがいで、誇りで、プライドそのものだった。この高校への推薦の話が来たときもそれは揺るがず、美樹は胸を張ってその話を受けた。
誰にも負けない選手になる。誰よりも強くなる。彼女の決意は固く、また、その夢を目指せる位置に彼女はいた。
しかし、その夢は一度砕ける。
七ノ瀬霰。美樹はそれまで聞いたこともなかった名前の選手を、伝統ある100kmレースで目撃する。
美樹にも憧れた選手がいた。それは当時、この高校で自転車競技部を支えていた先輩達。数々の栄誉ある成績を残し、自転車競技部の栄光を築いた世代。いずれは自分もその列へ。美樹はそんな想いを胸にレースを観戦した。
だが、憧れた彼女らはたった一人の少女に負けることとなる。圧倒的に。鮮烈に。
あやなに敗北したとき、一番に頭をよぎったこの記憶。
だが、美樹が霰の本当の恐ろしさを知ったのはもっとあと。彼女自身が初めて100kmレースに出場したときだった。
そのとき彼女は一年生で、七ノ瀬霰は二年生だった。
当然のことながら美樹は霰に負けることとなる。しかし、美樹の誓った夢を砕いたのはその敗北ではなかった。
もっと深い絶望。努力や練習量では決して届かない高み。全てを諦めさせるほどの実力差。
誰かが最初に気付く。霰の走行タイムが前回と全く同じだということを。
誰かがそのあと気付く。どの場面を切り取っても、霰のスピードが変わっていないことを。
そして誰かが戦慄する。霰の走った軌跡が、前回のレースと寸分違わず同じだと気付いたから。
つまり霰は再現したのだ、前回と全く同じレースを。
――そして、今回も。
霰はそれまでのレースと同じ速度をキープしていた。同じコーナーを同じ角度で曲がり、同じ回数だけチェーンホイルを回転させる。
美樹は霰の動きを注意深く観察する。それだけではない、何度も見返したレースの映像を頭の中で繰り返す。その映像で足りない部分を現在の視覚で補足する。
――これが私の出した答えだ!
美樹は霰を、霰の動きを、極限まで複写した。
それは以前の美樹では不可能だった試み。だが、今は。
――できる。
彼女の目にはこれまでにない世界が見えていた。
ハイスピードの中の安息。究極の効率的動作。
――やれる! 私は。前までは後ろ姿すら見えなかったこの人に。今ではもう付いていける!
美樹は自分の力を限界まで引き出しつつあった。
気が付けば50kmの地点を越えようとしている。
しかし、彼女はそこで信じられない物を目にした。
思わず口が開かれる。
「冗談だろ?」




