獅子奮迅
まだ、世界は知らなかった。
この世には理解の及ばないものがあることを。
まだ、世界は知らなかった。
いつか自分の知っている知識や、常識がいとも容易く破壊されるときが来ることを。
まだ、世界は知らなかった。
想像を、予想を、空想を遥かに跳び超える存在を。
『パーン!』
スターターピストルの乾いた音が鼓膜を揺らした。
その音に呼応して、限界まで圧縮された空気が弾ける。
開始線の上、横一列に並んだ彼女らの脚がペダルを力強く踏みしめた。そしてその信頼に応えるようにリングチェーンとクランクが駆動を始め、推進力が空間を圧する。
タイヤがアスファルトを噛む、表面を薄く削る。
スタートまでその場を満たしていた緊張が、徐々に興奮へとシフトした。
体を巡っていた熱がただ一つ用意されていた出口に集中する。つまり――。
前へ。
『ヒュンッ』
風を切る音が聞こえた。
力を溜めこみ、温存する集団を抜け出す影。
会場の大パノラマには、全国の家屋に備えられたテレビの画面には。ヘリコプターから中継される大会の様子が淡々と映し出されていた。
周囲の人間がそれに気付き始めたのは、5kmを過ぎたあたりからだった。まるで勢いが衰えない。いや、それどころかどんどん加速し続けている。
最初はただの目立ちたがり屋が無謀なスタートダッシュを試みたのだと思っていた。なぜならそれを見ている人間達は100kmという総走行距離を事前に知っていたし、更にその少女があまりにも幼く、今までの大会では見たこともない人物で、かつ競技用のユニフォームではない学校指定の制服を着て出走していたから。
「意外と頑張るな、この子」
誰かが苦笑しながら呟いた。そのときがちょうど5km地点だった。
「おい、この子がどこまで行けるか賭けようぜ?」
誰かが馬鹿にするように言った。そのときがまだ8km地点だった。
「なぁ、ちょっとおかしくないか?」
誰かが同意を求めるように言った。そのときがもう10km地点だった。
「嘘だろ……?」
そして、誰かが驚愕を漏らす。そのときが既に20km地点だった。
「はーっはっはっは!」
中継中のマイクが高らかで傲慢な笑い声を拾う。
全国最高レベルのこの大会で、ただ一人レースを独走する少女。
世界があやなの存在を認識した瞬間であった。




