邂逅相遇
このレースは毎年本校主催で行われる大会で、その参加者は全国に点在する高校の好成績者の中から選抜される。更に、採用されている距離はプロのそれにも引けを取らない100kmという超長距離で、この日は公的機関の協力の元、コースに指定された道路がレース用に封鎖される。
また、このレースは自転車競技の大会の中でも国体に次いで注目度が高く、その様子がテレビで生中継されることから国民の間では一種の風物詩と化していた。
「うむ、快晴だな!」
あやなは空を見上げる。
雲一つない晴れ晴れとした青空。爛々とした太陽の光が校舎中に降り注いでいる。
今日は大会当日。学校には色とりどりのユニフォームを着た選手達と機能美を追い求めた競技用自転車が集っていた。そして、彼女らを応援しようとやってきた観客達も。
「晴れて良かったねぇ」
あやなの歓声に隣の麻衣子も同意する。
大会の開会式が終わったあと、レース開始までの僅かな時間を二人は一緒に過ごしていた。
「それにしても良かったの?」
「む、何がだ?」
「先生が言ってたこと、だよ」
麻衣子は先日の一件を思い出す。
「どうにか大会出場までは手配できましたが。申請が遅れたこと、あやなさんが正式な自転車競技部ではないことなどが運営委員会に指摘され、あなたのレース順位を大会の結果に反映させることは認められませんでした。つまり、出場しても何の記録にも残りません。あなたに得はありません。それでも出場しますか?」
大会が始まる三日ほど前に顧問はそう報告しに来た。
――そもそも、あやなちゃんが入ってもいない部活の大会に無理矢理出場しようとしているのがいけないんだからしょうがないんだけど。
麻衣子はそう思いながらも少しだけ煮え切らない想いを感じていた。
「元より記録に興味はない。記録より記憶だ。人々の記憶を塗り替えられれば、それで良い!」
あやなは清爽と笑う。
彼女の瞳には既に大きな期待の炎が宿っていた。
「そ、そっかぁ」
麻衣子は苦笑いをした。
そして何とはなしにまた尋ねる。
「それにしても、あやなちゃん。練習とかしなくて良かったの?」
「む? 練習はずっとしていたぞ。ちょうど今日も自転車で登校してきた所だ」
あやなは組んでいた腕を解いてあちらを指さした。そこには、何の変哲もないカゴ付きの自転車が置いてある
「あ、そうなんだ。なんか、ちょっと意外…………って、アレ私の自転車!?」
麻衣子は自分の目を疑った。
「うむ」
「『うむ』、じゃないよ! 駐輪場からなくなってたから、盗まれたと思ってたのに! というか、自転車なしの登下校って本当に大変だったんだからね!」
「だから、ちゃんと返したではないか」
あやなは全く悪びれずに胸を張る。
「そんなの知らないよ! そもそも無断で借りることがいけないことなんだから! ちゃんと返すなんて当たり前だよ!」
「まぁ、落ち着け。麻衣子」
「落ち着いてなんていられないよ、もう! 本当にあやなちゃんはいつも勝手すぎるんだから! とりあえず今回は許すけど、次から借りるときはちゃんと言ってよね!」
麻衣子はげんなりしながら自転車へと近づいていく。そして、それは彼女がハンドルに触れた瞬間に起こった。
『ガシャン! ガシャガシャ!』
麻衣子の自転車がパーツ毎に分解する。
「私のママチャリが!?」
麻衣子の驚愕のあと、あやなは残念そうに呟く。
「うむ。やはり、耐えられなかったようだな」
「『やはり』、じゃなーーーーーい!!」
麻衣子は涙目で両手を振り上げながら怒った。
「これが私専用に作らせた自転車だ」
あやなは得意気にそれを紹介した。
極限まで空気抵抗を軽減させるために細く洗練されたボディ。それでいて強い負荷を受け止める頑丈な骨組みと、更に関節部分で人間の体重や衝撃を吸収・分散させる巧妙な造り。そして装具全体から放たれる金属特有の鋭い光沢は、素人目から見てもその自転車が普通でないことが見て取れた。
「す、すごい」
麻衣子は素直に感嘆する。
「で、でもこんな自転車があるなら、私のじゃなくてこっちで練習してよ!」
「これは特注品でな。今日の朝できあがったばかりなのだ」
「……そ、そうですか」
麻衣子はもうあやなの傍若無人さにはいちいちつっかからないことにした。壊れた自転車の件も、あやなが新しい自転車を用意するということで決着が付いたことだし。
「あ、それよりもあやなちゃん、そろそろ着替えないとレースに間に合わないよ?」
「着替える? 何に、だ?」
「『何に』って、ユニフォームにだよ。あやなちゃんも、まさか制服のまま走る訳じゃないでしょ?」
「む? 何か問題があるか?」
あやなは頭を少し傾ける。
「……い、いや、大丈夫だと思うよ」
麻衣子はあやなの非常識さにはいちいちつっかからなことにした。
「そうか!」
あやなは無邪気に笑った。
「そ、それにしても、本当に人が沢山いるなぁ。私もこの大会の応援とかしたかったけど、あのときはそんな場合じゃなかったもんなぁ」
麻衣子はしみじみと会場を見回した。
そのとき彼女の目にあやなとは違う小さな少女の姿が映る。思わずあやなの制服を引っ張った。
「あ、あやなちゃん! あれ!」
「む? どうした?」
「あれ、見て。あの、白い髪の女の子。あれが世界記録を持ってる自転車競技部の部長さんだよ。あやなちゃんと同じ、特待生の」
「む。奴が……?」
あやなは麻衣子の指の先に視線を向ける。
そこには確かに人がいた。しかし、それはあやなが思い描いていたものとは全く違う印象の小さな少女だった。
「何だ、ただのチビではないか」
あやなは拍子抜けしたように口にする。
そう。そこにいたのはあやなと同じ程度の身長、つまり、小学校高学年ほどの背丈をした幼い少女。
あやなはもっと大きく、力強い敵を想像していた。以前、戦った副部長の美樹よりも更に鍛え抜かれた敵を。
「ダ、ダメだよ。そんなこと言っちゃあ」
麻衣子は慌ててあやなを諭す。
しかし、あやなは目線を反らさなかった。なぜならあやなは見たからだ。その小さな少女が『スッ』とこちらを振り向くのを。
「む?」
青い瞳だった――あやなを射抜いたのは。
まるで、二人以外の人間がこの世界から消えてしまったかのように周囲の音が消える。
真冬の夜のように、凍った海のように冷たい視線。そこには、人間が持つべき感情がことごとく欠落していた。
「……」
あやなは言葉を失う。
それは彼女が生きてきた人生で、これほど冷たいものを見たことがなかったからである。大事なものを失ったときの絶望よりも冷えた感情。先ほどまで、あやなの肌をじりじりと焼いていた太陽の熱が途端に頼りなく思える。あやなの持つ熱が目に見えて奪われていく。熱く滾った血が、急速に引いていくような感覚。
そして、あやなの驚くべき視力は遠く離れた彼女の口が小さく動くのを完全に捉えた。
『オ・マ・エ・ノ・ガ・チ・ビ』
確かに口がそう動く。
「む? 聞こえたのか」
そう感心したような声を上げた頃には、部長の視線は既にあやなから離れていた。
「これは……楽しみだな」
そしてレースの開始時刻を知らせるアナウンスが場内に響き渡る。




