断崖絶壁
「ふぅ」
整備を終えたあと、美樹は小さくため息をついた。
目の前にある彼女愛用の自転車は、どこのパーツを見ても丁寧に磨き上げられていて錆一つなく輝いている。
ふと風が吹き、関節部分にさされたメンテナンス用の油から特有の芳香が発せられた。それは鼻の奥が『ツンッ』とするような芳醇な香り。彼女はこの香りが好きだった。
「……」
その沈黙は、美樹が覚悟を決めるための時間を作る。
彼女は自転車を整備している間も、自分が珍しくやるべきことを後回しにしていることに気が付いていた。気が付いていたが、やらなかった。
「……はぁ」
今度のため息は酷く気だるげで、美樹は観念したかのように立ちあがる。
そして扉の前までやってきた。
『コンコン』
美樹は部室の扉をノックした。
冷たく凍った音が響く。いや、実際はそんな音などしていない。だが、美樹には温度が一度も二度も下がったように感じられる。
美樹は意を決して扉を開けた。
「部長」
そうして彼女は呼びかける。静まり返った部室の中へ。
その声が向けられた先。そこには一つの氷があった。
周囲の空気を凍らせ、周囲と混じることのない冷たい氷。その凍てつく青い瞳は、呼びかけられても美樹の方へと移らない。そして、それはいつものこと。
「……次の大会、部外の者を一人出したいと思います」
美樹は告げた。
「そう」
氷は背中越しに一言だけ答える。
「……それだけですか?」
「他に何かある?」
「……いえ」
そうして二人のやり取りが終わった。




