第8話:ノアの“目”
俺が、こいつを殺さずに済んだ。
その、たった一つの事実だけが、カビと汚泥の匂いに満ちたこの暗闇の中で、俺の希望だった。
だが、安堵は一瞬で、冷たい現実に上書きされる。
「……ハァ……ハァ……」
ノアの呼吸は戻った。
だが浅く熱っぽい。
この地下室の空気は、埃とカビ、そして俺がさっき叩き潰した『デッド』の血の匂いで淀みきっている。
喘息持ちのこいつには、毒も同然だ。
吸入器もさっきの一回でなくなった。
一刻も早く、マシな空気のある場所へ向かい、そして薬を手に入れないと。
「……イーサン……さむい……」
「わかってる。すぐにここを出る」
俺は立ち上がり、まず、さっき俺が叩き潰した『デッド』――ビルの管理人だった男の死体を手探りで探った。
そいつのベルトに、クリップで留められた懐中電灯を見つける。
スイッチを押すが、つかない。
(くそっ、壊れているのか!)
コンクリートの床に一度叩きつけると、カチッ、と弱々しいながらも確かな光が灯った。
暗闇が、薄ぼんやりと晴れる。
光が、地下室の隅にある、赤い鉄製の工具箱を照らし出した。
こじ開ける。
中身は……あった。
錆びたバールと、ずしりと重いパイプレンチ。
俺はレンチをベルトの背中に差し、バールを手に握った。
それから、シャツの裾で泥水を拭い、投げ捨てたリボルバーを拾う。
……残弾、1発。
父さんの形見を、慎重にベルトへ差し戻した。
ガコン……ギギギ……
不意に、真上から不吉な音が響いた。
俺たちが落ちてきた、ダムウェーターのシャフト。
「……グォオオオオ……」
低い唸り声。
上の階の『デッド』だ。
俺たちが開けたパントリーの穴に気づき、シャフトを覗き込んでいる。
パラパラと、錆びた金属片が俺の頭に降ってきた。
まずい。
ここが「下」だと気づかれれば、奴らもこの穴から飛び降りてくるかもしれない。
ドン! ドン!
今度は、別の方向からだ。
懐中電灯の光が届かない、地下室の、手前に見える扉の向こう側。
俺たちの墜落音と、さっきの戦闘音。
それが、このビルに潜んでいた、別の『何か』を呼び覚ました。
「ノア、背負うぞ。我慢しろ」
「……うん……」
俺は、ぐったりとしたノアを背負い直した。
10歳の体は、濡れた服のせいで、鉛のように重い。
懐中電灯で別の出口を探す。
だが、見えるのは湿ったコンクリートの壁だけだ。
ドン! ドン!
扉を叩く音が、近くなる。
パニックで、方向感覚が狂う。
上からも、横からもだ。
俺たちは、この暗闇の底で、完全に袋のネズミだった。
「……イーサン……」
その時、背中ですう、と息を吸う気配がした。
「……そっちじゃ、ない……」
「ノア? 喋るな、体力使うだろ」
「……ちがう……地図、見た……」
ノアが、震える指先で、俺が来たのとは全く別の方向――ただの暗闇が広がる、地下室の『奥』を指差した。
「……あっち……」
「あっちって……懐中電灯でも壁しか見えないぞ。行き止まりだ」
「……ううん……ちがう……地図に、あった……『機械』の、うしろ……」
父さんの最後の言葉が、脳内で反響する。
『ノアの“目”を信じろ』
「……わかった」
俺は、ノアが指差す、暗闇の奥へと進む。
懐中電灯の光が、巨大な円筒形のボイラーと、カビ臭い貯水槽を照らし出す。
その脇をすり抜ける。
湿ったコンクリートの壁。行き止まりだ。
(……いや、違う!)
手で触れる。
壁だと思った場所の一部が、冷たい『鉄』の感触だった。
古い配管に隠れるように設置された、錆びた鉄の扉。
その真ん中に、巨大な円形のロックハンドルがついていた。
「……これか、ノア!」
「……うん……地図に、あった……」
「地図? あの避難経路図にか?」
「……うん……『保守用通路』……って、書いてた……」
こいつの『目』だ 。
俺がパニックで見向きもしなかった、あの階段の踊り場の『避難経路図』。
ノアは、あの紙切れ一枚から、ダムウェーターだけでなく、この地下室のボイラーの配置、そのさらに奥にある扉まで、全部覚えていたんだ。
保守用通路か。
この古いアパートの地下が、どこかに繋がってる。
電力やガスを通す『共同溝』か、あるいは、もっと古い地下鉄の線路脇か。
どっちでもいい。
ここじゃない場所に行けるなら、どこだって天国だ。
俺は、錆びついたハンドルに両手をかけ、全体重を乗せた。
「……ぐ……ううううっ!」
ビクともしない。
おそらく何十年も開けられていない、錆びた鉄の塊。
ドン! ドン! バァン!!
背後で、ついに何かが破られる音がした。
上階から地下へ通じるドアだ。
シャッ……シャッ……
複数の『デッド』が、水溜りを引きずる足音が、こっちに 向かってくる。
「くそっ、時間がない!」
バールだ。
俺は、さっき手に入れたバールの先端を、扉と壁の隙間にねじ込んだ。
「開け……開けよおおおっ!」
俺は、ノアを背負ったまま、バールに全体重をかける。
――ギギギギギギッ!
耳障りな金属音を立てて、ロックが歪む。
俺は、重い鉄の扉を、ノアの体ごと押し開けた。
隙間から、ゴウ、と、生暖かい風が吹き込んでくる。
カビと汚泥の匂いじゃない。
もっと、むせ返るような……鉄錆と、埃と、そして地下鉄のトンネル特有の、遠い『死』の匂いだ。
俺は、その隙間に体をねじ込み、ノアと共に、新たな暗闇へと転がり込んだ。




