第7話:虚ろな肺、地の底
ドン! ドン! ドン!
非常階段の冷たい鉄骨の上で、俺は凍りついていた。
聞こえる。
俺が立てた、あの、取り返しのつかない音。
食器が割れる音。
ガラスが砕ける音。
その音が引き寄せた『デッド』たちが、今、ノアのいる部屋の、あの貧弱なバリケードを叩いている。
「……けほっ、けほっ……イーサン……」
部屋の窓から、ノアの、息が詰まったような、か細い声が漏れた。
その声が、俺の罪悪感を、容赦なく突き刺す。
俺のせいだ。
俺が、薬を探しに行ったせいで。
俺が、あの『デッド』を静かに殺せなかったせいで。
ノアの元へ、化け物を誘導してしまった。
「……けほっ……ごほっ……! ヒュッ……」
喘息の、苦しい咳。
ダメだ、発作が本格化している。
『デッド』がドアを破るのが先か。
ノアの呼吸が止まるのが先か。
(ふざけるな……! このくらいで諦めてたまるかよ!)
俺は、非常階段の手すりを乗り越え、ノアのいる部屋の窓枠に飛びついた。
数時間前、俺たちが屋上から逃げ込むために、内側から開けた窓だ。
鍵はかかっていない。
俺は、窓を力任せにスライドさせた。
ガラッ!
大きな音。
だが、もう隠れる意味はない。
俺は、部屋の中に転がり込んだ。
「ノア!」
ソファのバリケードが、ドアの内側でミシミシと悲鳴を上げている。
重いスタンドライトが、横倒しになった。
ドアの隙間から、何本もの、腐った灰色の手が、貪欲に、室内の空気をかき混ぜている。
「……はぁっ、かはっ……!」
ノアは、部屋の隅で、俺が渡した包丁を握りしめたまま、もはや咳をすることさえできなくなっていた。
その小さな胸が、空しく上下している。
唇が、青紫色に変わっていく。
「ノア! しっかりしろ! 吸入器だ!」
俺はノアのパーカーのポケットから、残り一回のインヘラーを掴み取った。
弟の顎を無理やりこじ開け、そのL字型の先端を口にねじ込もうとする。
「今、楽にしてやる! これを吸え!」
俺が、レバーに指をかけた、その瞬間。
ガアアアン!!
ついに、バリケードのソファが部屋の内側へと吹き飛ばされた。
木が裂ける轟音と共に、一体、二体。
『デッド』がなだれ込んでくる。
「――っ、くそ!」
あと一秒。
レバーを押す、その一秒の隙もない!
俺はノアに吸入器を吸わせるのを中断し、弟の体を突き飛ばすようにして、迫り来る『デッド』の爪を回避した。
インヘラーを握りしめたまま、部屋を見渡す。
逃げ道は、俺が入ってきた非常階段だけ。
だが、その下は俺の立てた音で、『デッド』の黒い川になっている。
屋上へ逃げても、行き止まりだ。
終わった。
薬は目の前にあるのに、使えない。
逃げ場もない。
「……ノア……」
俺は、ベルトのリボルバーに手をかけた。
最後の1発。
父さん。
あんたは、俺にこいつをどう使えって言うんだよ。
「……もう終わりだ……ノア……」
俺は、弟のそばに膝をついた。
「……最後の一発……これでお前を……」
「……い……さん……」
ノアが、もはや声にもならない息だけの声で俺を呼んだ。
だが、その濁った焦点の合わない瞳は、俺を見ていなかった。
ノアは、俺の背後にあるキッチンを食い入るように見つめていた。
「……ノア?」
「……か……べ……」
ノアが、青白い指先で、キッチンの壁を指差した。
「壁? 壁が、どうしたんだ!」
俺は叫んだ。
「グルアアアアッ!」
一体目の『デッド』が、もう3メートル先まで迫っていた。
「……だ……む……うぇ……た……」
「――え?」
「……だむうぇ……た……」
ダム、ウェ…… ダムウェーター(Dumbwaiter)?
食事を運ぶ、小さなエレベーター?
この、古いアパートに?
「……おぼ……えてる……ち……かに……」
ノアが、途切れ途切れに、喘いだ。
そうだ、こいつの能力。
父さんの最後の言葉。
『ノアの“目”を信じろ』
そういえば、こいつ、昔から以上に記憶力だけは良かったな。
父さんたちと旅行したときも、帰り道で道に迷ったときも、こいつは帰り道を覚えていた。
いつ見た?
昨日、屋上から階段を降りてきた、あの一瞬。
階段の踊り場に貼ってあった、色褪せた『避難経路図』。
俺が、パニックで見向きもしなかった、あの一枚の紙。 ノアは、あれを覚えていた。
「どこだ! ノア!」
「……きっちん……ぱん……とり……」
「パントリー!」
「グルアアアアッ!」
俺は、さっき『デッド』を倒した傘を掴むと、迫る『デッド』の顔面に投げつけた。
そいつがひるんだ一瞬の隙に、インヘラーを自分のポケットにねじ込む。
「抱えるぞ!」
俺は、意識が朦朧としているノアの体を小脇に抱え、キッチンに飛び込んだ。
パントリー。
小さな食料庫。
その奥の壁。
(これか!)
ベニヤ板で雑に塞がれた、小さな四角い穴。
俺は、ノアを床に下ろすと、ベルトからリボルバーを引き抜いた。
銃を逆手に持つと、その鉄の塊になった銃床で、ベニヤ板を思い切り殴りつけた。
バコン!
腐ったベニヤが砕け散る。
そこには、黒いカビ臭い闇が口を開けていた。
二本の錆びたロープが、暗い縦穴の奥へと垂れ下がっている。
「グルル……」
『デッド』が、キッチンに入ってきた。
「ノア!」
俺は、ぐったりとした弟の体を、その狭い木箱の中に押し込んだ。
「う……」
ノアがかすかな呻き声を上げた。
俺も体をねじ込む。
12歳と10歳の、子供二人。
狭い。
息が詰まる。
『デッド』の手が、俺の足首を掴もうと伸びてきた。
「――行け!」
俺はシャフトの壁を蹴った。
ゴッ!
古い木箱が、軋み俺たちの重みに耐えきれず――落下した。
「うわあああああっ!」
一瞬の浮遊感。
錆びた滑車が火花を散らしロープが引きちぎれる、音。
俺たちは、重力に引かれるまま暗いシャフトを落ちて、 落ちて、落ちて。
――ドン!!
凄まじい衝撃が俺の全身を殴りつけた。
「……ぐ……っ、ぁ……!」
何かに頭を打った。
世界がぐるぐる回る。
暗闇。
埃と、カビと、そして汚水と腐敗の匂い。
ここは……地下か。
ビルの、一番底。
管理室か、ゴミ溜めか。
「……の……あ……」
俺は、痛む体を起こした。
俺の上に覆いかぶさっていた弟は……動かなかった。
「ノア? おい、ノア!」
俺は、ノアを揺さぶった。
反応がない。
息が……止まってる。
あの、苦しそうな喘鳴が聞こえない。
(薬……! インヘラー!)
俺は、さっきねじ込んだ自分のポケットを探った。
「……ない」
落下の衝撃で、どこかに飛んだんだ。
あの、たった一回分の、最後の希望が。
「……あ……」
嘘だ。
『デッド』から逃げた。
ノアの機転で、助かった。
なのに、俺が。
俺が、へまをして失くした。
(ノアが足を引っ張る? どの口が言ったんだ、クソが! あいつが俺を助けたのに! 俺がしくじって、こいつを殺すのか!)
「……いやだ……死ぬな……ノア!」
俺は、昔テレビで見ただけの心臓マッサージの真似事を、がむしゃらに始めた。
「……起きろ! 起きろよ、ノア!」
その時。
「……ぅおぅうう……」
暗闇の奥から、俺たち以外の『音』がした。 俺たちの、落下音で目を覚ました『何か』。
「……ちくしょう……!」
俺は、心臓マッサージをやめ、ベルトのリボルバーを構えた。
暗くて何も見えない。
シャッ……シャッ……
何かを引きずる音がこっちに近づいてくる。
最後の1発。
こいつのために使うのか?
いや、ダメだ。
暗すぎて狙いがつけられない。
(……そうだ、マッチ)
俺は、カーゴショーツの別のポケットを探った。
血に濡れた叔父さんの手紙。
そして……あった。
小さいマッチの箱。
俺は、震える手で一本を取り出し、箱の側面で擦った。
シュッ
……くそっ、湿気ってやがる!
「……うぁぁぉおおおお……」
『デッド』は、もう、目の前だ。
腐臭が濃くなる。
「……つけ……!」
俺は、叫びもう一度、強く擦った。
シュボッ!
小さな、炎が灯った。
目の前に、『デッド』の、顔があった。
このアパートの名前が入った作業服。
管理人だった男のなれの果て。
「グルァアアアアッ!」
光に反応し、その腐った手が俺の喉に伸びてくる。
俺はリボルバーを投げ捨てた。
撃たない。
この最後の1発は、こいつなんかに使うためのものじゃない。
マッチの炎が、奴の背後を照らし出す。
瓦礫の、すぐ横の床。
「……あ……」
青いプラスチックの、L字型の『それ』が落ちていた。
俺たちの、インヘラーだ。
燃えさしになりかけたマッチを床に投げ捨て、足元の瓦礫からレンガの破片を掴み取る。
「うおおおおおおおおおっ!」
もはや戦いじゃない。
これは、ノアの『息』を奪い返すための、ただの足掻きだ。
最後の光が消える寸前、飛びかかってきた『デッド』の側頭部に、レンガを叩きつける。
鈍い手応え。
奴がよろめいて倒れ込むところへ、馬乗りになった。
プツン、と。
マッチの火が消えた。
完全な暗闇。
何も見えない。
だが、耳元で、奴の低い唸り声がする。
「グルル……」
漏れるその音だけを頼りに、俺はレンガを振り上げた。
何度も、何度も、それが頭蓋であるはずの場所へ、無我夢中で叩きつけた。
ゴッ。ゴッ。ゴッ。
肉が潰れ、硬い何かが砕ける生々しい感触だけが、暗闇の中で手のひらに伝わってくる。
唸り声が、止まった。
「……ハァッ……ハァ……!」
息を殺し、耳を澄ます。
……静かだ。
俺は血と体液でぬめったレンガを放り出し、暗闇の中を這いずり回った。
手探りで床を漁る。
冷たい汚水。
瓦礫の破片。
さっき殺した『デッド』の生温かい死体。
そして――
あった!
指先に、あのL字型の、冷たいプラスチックの感触!
それを鷲掴みにし、ノアの元へ転がり戻る。
震える手で、最後になるかもしれないマッチを擦った。
シュボッ。
照らし出されたノアの顔は、血の気が失せ、唇は紫色を通り越して、もう、死人の色だった。
「――間に合えッ!」
ノアの顎をこじ開け、吸入器を喉奥に突き刺すようにねじ込み、力任せにレバーを押した。
プシュッ!
最後の一回分の薬液が噴射される。
だが、ノアの体はピクリとも動かない。
「……くそっ、まだだ! 息をしろ! しろよノア!」
俺はノアの小さな胸骨が軋むのも構わず、全体重をかけて心臓マッサージを繰り返す。
息を吹き込む。
もう一度、マッサージ。
もう一度、息を――
「――かっ、ヒュウッ! ごふっ!」
マッチの炎が燃え尽き、再び暗闇が訪れた、その瞬間。
ノアの体が激しく痙攣し、咳き込んだ。
空気を貪るように、必死に、その喉が息を吸った。
「……ノア?」
暗闇の中、俺は弟の肩を掴んだ。
震える指先が、確かに上下する小さな胸の動きを捉える。
「けほっ……げほっ……い……さん……?」
聞こえた。
暗闇の底から、かすれて、途切れ途切れで、だけど確かなノアの声が。
「――ッ!」
俺は、言葉にならなかった。
全身を縛り付けていた緊張の糸が、一度に切れる。
さっきまでノアの胸を押していた手を、今度は自分の口に押し当てて、こみ上げてくる嗚咽を必死に殺した。
「大丈夫か、ノア……まだ苦しいか」
「……うん……くるし……けど、さっきより……」
「わかった、もう喋るな。息だけしろ」
俺は、まだ浅く呼吸を繰り返すノアの体を、壊れ物を扱うように抱き寄せた。
冷たい。
氷みたいに冷え切って、今にも消えそうな命の感触。
だが、温かい。
いや、俺の胸の中だけが、沸騰するように熱かった。
(……助かった。間に合ったんだ)
俺が、こいつを、殺さずに済んだ。
その、たった一つの事実だけが、カビと汚泥の匂いに満ちたこの暗闇の中で、俺のすべてだった。




