第6話:息の在処
夜は、明けなかった。
豪雨がコンクリートを叩く音は、いつの間にか、しとしとと泣くような小雨に変わり、やがてそれも止んだ。
静寂が戻ってきた。
それは、安らぎとは程遠い、耳障りな静寂だった。
遠くで何かが燃え尽きる音、まだ続くサイレンの残響。
そして、まるで街そのものが呻いているかのような、『デッド』たちの低い唸り声が、割れた窓の隙間から染み込んでくる。
俺は、眠れなかった。
アパートのドアにソファを押し付けたバリケードの、そのすぐ脇。
冷たい壁に背中を預け、膝の間にM10リボルバーを挟み込んだまま、ただ、暗闇を睨みつけていた。
まぶたの裏に、昨夜の光景がこびりついて離れない。
母さんの頭を撃ち抜いた、父さんの横顔。
自らを囮に、天に向かってエールを撃ち続けた、父さんの最後の笑み。
『ノアなんて、いなければ――』 『この世界なんて滅んじゃえばいいんだ――』
俺が吐いた呪いだ。
それが現実になった。
俺が、家族を殺した。
その思考が、冷たい泥のように頭蓋骨を満たし、すべてを鈍らせる。
視線が、ソファで眠る弟に落ちた。
俺のカーキ色のユーティリティジャケットにくるまり、猫のように丸まっている。
涙と埃で汚れた顔。浅く、苦しそうな呼吸を繰り返す、その存在。
父さんは、最後に俺に命令した。
『ノアを守れ』と。
……これは、罰だ。
俺が、こいつを疎ましく思っていたことへの、罰。
……だったら、あんまりだ、父さん。
あんたが押し付けたこの『重荷』は、12歳の俺には、重すぎる。
「……けほっ……ごほっ、げほっ!」
乾いた咳が、死んだ静寂を切り裂いた。
(――やめろ! デッドが来るだろが!)
俺はリボルバーを掴んで跳ね起きた。
床で丸まっていたノアが、眠りから強制的に引きずり出されたように、目を見開いて体を丸めている。
ただの咳じゃない。
空気を求めているのに、喉がそれを拒絶するような、笛にも似た苦悶の音。
「……イーサン……ヒュッ……けほっ……」
暗闇でもわかる。ノアの顔が急速に青白く変色していく。
喘息だ。
「……ちっ!」
俺は、バリケードの傍から駆け寄った。
苛立ちが、心配よりも先に立った。
こいつは、いつもこうだ。
肝心な時に、俺の足を引っ張る。
「息が……できない……」
「わかってる! 吸入器だ! インヘラーは!」
ノアは、俺の怒鳴り声にびくりと震えながら、必死にパーカーのポケットを探り、吸入器を取り出した。
それを口に当て、必死にレバーを押す。
カシュッ。
薬剤が噴射され、ノアはどうにか激しい発作をねじ伏せるように吸い込んだ。
「ハァ……ハァ……けほっ……」
呼吸はまだ荒いが、最悪の窒息は免れた。
「……貸せ」
俺はノアの手から吸入器をひったくるように取り、残量を確認した。
「……くそっ……」
俺は、その小さな機械を壁に叩きつけそうになるのを、必死でこらえた。
「……イーサン……?」
「……あと、一回だ」
俺は、吐き捨てるように言った。
「わかってんのか? 次にお前が発作を起こしたら、それで終わりだ」
ノアが、絶望に目を見開く。
そうだ、こいつは重度の喘息持ちだ。
母さんが、いつも「予備は絶対に切らさないように」と、家の薬箱や、自分のハンドバッグに必ず予備を隠していた。
母さんの、ハンドバッグ。
あれは、どこだ。
パトカーの中だ。
父さんと、母さんと、あの爆発で、すべて――
「……予備は……?」
ノアが、かろうじて声を絞り出す。
「あるわけないだろ! 全部燃えたんだよ!」
俺の言葉が、ノアの最後の希望を打ち砕いた。
弟の瞳から光が消え、ただ、生理的な涙が溢れ出す。
(落ち着け、俺が落ち着け)
薬だ。
このアパート。
俺たちが逃げ込んだ、この廃墟。
ここには、俺たち以外の住人がいたはずだ。
もし、もし、このビルのどこかの部屋に、ノアと同じ喘息持ちの人間が住んでいたら?
あるいは、大量の薬を常備している、病気の老人がいたら?
薬局や病院は、外だ。
外は、昨夜の爆発と4発の銃声で、『デッド』の巣になっている。
このビルの中を、探すしかない。
それが、唯一の可能性だ。
「……ノア。聞け」
俺は、弟の冷たい両肩を、強く掴んだ。
「……げほっ……」
「俺が、薬を、見つけてくる」
ノアが、潤んだ瞳で、かすかに首を横に振った。
「……いや……ひとりに、しないで……」
その言葉が、俺の中に溜まっていた「重荷」の感情を、一気に爆発させた。
「うるさい! 誰のせいだと思ってんだ!」
俺は、突き放すように叫んだ。
「お前がそんなだから、俺が行くしかないんだろうが! それとも何だ、ここで、お前が窒息して死ぬのを待てってのか!」
棘のある声が出た。
ノアの体が、びくりと震え、声も出せずに固まる。
まただ。
俺は、また、こいつを傷つける。
父さんの最後の命令が、頭の中で明滅する。
(……ちくしょう)
俺は、歯を食いしばった。
謝るものか。
謝ったら、こいつは、俺に甘える。
俺には、それはあまりにも重すぎる。
「……いいか。俺が行かなきゃならないんだ。お前は、ここで待ってろ」
俺は、ソファの横に転がっていた、重いスタンドライトを引きずり、バリケードをさらに強化した。
「俺が戻るまで、絶対に、ここを動くな。音を立てるな。……これ以上、デッドを呼ぶな。わかったか」
「……うん……」
「何があっても、絶対に、このドアを開けるな」
「……うん」
俺は、立ち上がった。
テーブルの上に置いていた、刃こぼれした包丁を手に取る。
「……昨日、ここで見つけた。これ、持ってろ」
「え……」
「万が一だ。俺が戻る前に『デッド』が来たら……死にたくなければ、それで戦え。わかったな」
ノアは、震える手で、その小さな包丁を受け取った。
そして俺は、ベルトに差したM10リボルバーに触れる。
残弾は1発。
これは使えない。
使うわけにはいかない。
昨夜、たった4発の銃声が、どれだけの『デッド』を呼び寄せたか。
今ここで、このビルの中で音を立てれば、中に潜んでいるデッド、いやそれだけじゃない。
外をうろついている『デッド』の大群が、この建物に殺到するかもしれない。
これは、最後の、最後。
ノアと、俺が、もうどうしようもなくなった時のための――
(――よせ。考えるな)
俺は、ノアの荒い呼吸音を背中に受けながら、バリケードのわずかな隙間をすり抜け、アパートの廊下へと、一人で足を踏み出した。
ひやり、と。
空気が、死んでいた。
昨夜、俺たちが駆け降りた階段ホール。
カビと、埃と、そして、微かな腐臭。
このフロアには、俺たちがいる部屋の他に、あと3つの部屋がある。
俺は、息を殺し、壁伝いに、一番近いドアに近づいた。
(……静かだ)
耳を、ドアに押し当てる。
何も聞こえない。
ノブに手をかける。
――鍵が、かかっている。
ちくしょう。
蹴破るか?
ダメだ。音が大きすぎる。
最後の1発で、鍵を撃つか?
論外だ。
俺は、次のドアに向かった。
さっきの部屋の、真向かい。
こちらのドアは、ほんの数センチ開いていた。
隙間から、暗い部屋の中が、口を開けて待っている。
俺は、リボルバーを構えなかった。
撃てない銃を構えても意味がない。
俺は、銃をベルトに差したまま、この部屋の住人が逃げ出すときに玄関先に落としたらしい、一本の傘を拾い上げた。
重い、先端の尖った紳士用の傘だ。
ナイフより、リーチがある。
俺はそれを、槍のように握りしめた。
足音を立てないよう、つま先でゆっくりとドアを押す。
キィ、と。
蝶番が、錆びた、小さな悲鳴を上げた。
俺は、その場で凍りついた。
心臓が喉から飛び出しそうだ。
だが、暗闇の奥からは反応はない。
暗闇に目が慣れるのを待つ。
リビング。
ひっくり返ったテーブル。
床に散乱する、家族の写真。
ここも慌てて逃げ出したようだ。
俺の目的は薬。
それも、喘息の薬。
普通、どこに置く?
キッチンか、洗面所だ。
俺は、傘を構えたまま、奥の洗面所へと向かった。
その時、聞こえた。
奥のキッチンから。
ガコン。ブーン……。バタン。 ガコン。ブーン……。バタン。
何かの機械的な、繰り返しの音。
冷蔵庫だ。
誰かが、冷蔵庫のドアを開けたり閉めたりしている。
そんな馬鹿な。
俺は、壁の角からほんの少しだけ、顔を出した。
キッチン。
恐る恐るキッチンを覗くと――
(――いた! デッドだ!)
俺は、その場で、呼吸を止めた。
そこに、花柄のエプロンをつけた、痩せた女の『デッド』が、背中を向けて立っていた。
そいつは、生前の習慣かなにかを、ただ、繰り返していた。
冷蔵庫を開け、中を覗き込み、 そして、閉める。
その顎は、半分、食いちぎられてぶら下がっており、そのせいで、歯がカチカチと、奇妙なクリック音を立てていた。
どうする。
戻るか?
ノアの元へ。
いや、だめだ。
薬を見つけるまで、戻れない。
だが、あいつがいる。
俺の目的地、洗面所は、そのキッチンの、すぐ脇にある。
あいつに気づかれずに、通り抜けることができるか。
(……いける……いや行くしかない……)
俺は、傘を握りしめ、『デッド』が、冷蔵庫を開ける、その「ガコン」という音に合わせ。
一歩、また、一歩、抜き足差し足で、その背後を、横切ろうとした。
『デッド』が、冷蔵庫を閉める。
バタン。
俺は、動きを止める。
『デッド』が、また、冷蔵庫を開ける。
ガコン。
俺は、動く。
洗面所のドアまで、あと、一歩。
その時。
俺のブーツの裏が、床に落ちていた、乾いたシリアルの、ひとかけらを踏み潰した。
――カリッ。
乾いた小さな音。
だが、それは、この音が死んだ部屋には、大きすぎた。
冷蔵庫の音が、止まった。
女の『デッド』の首が、ありえない角度で、ギギギ、と、こちらを向いた。
ぶら下がった顎。
腐った、白い眼球。
目と目が合った。
「――グルアアアアアアッ!」
獣の咆哮。
近い!
『デッド』が、両腕を突き出し、俺に飛びかかってきた。
(くそっ!)
俺は、ベルトのリボルバーに、手が伸びかけた。
ダメだ!
撃てない!
撃てば、デッドが集まってくる!
俺は、銃を握る代わりに、持っていた傘を、突撃槍のように、両手で突き出した。
「うおおおおおっ!」
俺の体重が乗った傘の先端。
それが『デッド』の、腐った右目に、ズブリと、根元まで突き刺さった。
「――ッ!」
『デッド』の突進が止まった。
その顔は、俺の目と鼻の先。
腐臭が俺の息を止める。
傘が、脳のどこかを破壊した。
だが、『デッド』は、まだ死なない。
両腕が、俺の首を掴もうと空を切っている。
(倒れろ!)
俺は、全体重をかけて傘を押した。
『デッド』が、バランスを崩し、俺を巻き込むように、キッチンカウンターに倒れ込んだ。
ガシャン!
カウンターの上の皿やコップが、床に落ちて派手な音を立てて砕け散った。
(――しまった!)
音だ!
最悪の、音を、立ててしまった!
俺は、まだ痙攣している『デッド』の残骸を突き放し、目的だった洗面所に飛び込んだ。
鏡の裏の、薬棚を、引きちぎるように開ける。
風邪薬、鎮痛剤、胃薬、絆創膏。
(ない!)
どこだ、どこだ、どこだ!
吸入器なんて、どこにもない!
(くそっ! くそっ!)
ドン! ドン!
廊下で音がした。
さっきの食器が割れる音を聞きつけた、別の『デッド』だ。
この部屋の玄関ドアを、外から叩いている。
(戻れない!)
この部屋の玄関は、もう塞がれた。
ノアの元へ戻れない。
俺は舌打ちし、血まみれになった傘をもう一度握りしめた。
ドン! ドン! ドン! ばぁん!!
玄関ドアが破られる。
二、三体の『デッド』が、なだれ込んでくるのが、洗面所から見えた。
(――こっちだ!)
俺は、洗面台の、小さな曇りガラスの窓に目をつけた。
俺は傘の柄で、窓ガラスを叩き割った。
バリイン!
さらに大きな音。
だが、もう関係ない。
俺は、割れたガラスの破片で腕が切れるのも構わず、その狭い隙間に、体をねじ込んだ。
ひやりと。
外の冷たい空気が頬を撫でた。
そこは俺たちが、昨日、駆け上がってきた、あの非常階段だった 。
俺は、鉄骨の上に転がり出る。
下を見る。
路地裏は、昨夜の音と、今、俺が立てた音で、『デッド』の黒い川になっていた 。
上を見る。
屋上。
そして、俺がノアを残してきた、隣の部屋。
ドン! ドン! ドン!
聞こえる。
俺の立てた音のせいで。
『デッド』の何体かが、ノアの隠れている部屋のドアを叩き始めている。
(――ノア!)
薬は見つからなかった。
それどころか、俺が、弟の元へ、『デッド』を引き寄せてしまった。
「くそっ!」
俺は、鉄骨を殴りつけた。
リボルバーの最後の一発が、ベルトの中で、お前の役目はそれかと、俺を嘲笑うように、重く、冷たく、ぶら下がっていた。




