第5話:最初の引き金
雨が、世界を叩き潰すような音を立てていた。
路地裏。 行き止まり。
背後には泣き崩れる10歳の弟。
前方には、豪雨に濡れそぼりながら、壊れた人形のように迫り来る『デッド』の群れ。
腐ったオフィスワーカー。
制服を引き裂かれた配達員。焦点の合わない濁った瞳が、一斉に俺たち二人を『餌』として捉えている 。
(ちくしょう……!)
路地の向こう側から、5体、6体……いや、もっと多い。
ずぶ濡れになったオフィスワーカーの残骸。
配達員の制服を引きちぎったやつ。
どいつもこいつも、濁った眼球を俺たち二人に向け、飢えを隠さない。
挟まれた。
背後には、さっきの音で集まってきた群れ。
前方には、新たな群れ。
ノアが、アスファルトの上に膝を折ったまま、泣き崩れている。
「イーサン…もう、むり……」
左手でノアの肩を庇うように押しやり、右手を、震える両手で持ち上げる。
父さんの形見。
S&W M10リボルバー。
冷たく、重い鉄の感触。
12歳の腕には、あまりにも重すぎた。
「イーサン……いや……いやだ……!」
ノアが俺のジャケットの裾を引きすがる。
うるさい。
わかってる。
俺だって撃ちたくない。
これは、父さんが「護身用だ」と教えてくれたオモチャじゃない。
これは、父さんが、母さんを、撃った――
(――よせ。考えるな)
父さんの声が、豪雨の音に混じって蘇る。
『いいか、イーサン。狙うのは常に中心だ。胸じゃない、頭だ』
『呼吸を止めろ。慌てるな。引き金を引くんじゃない、絞るんだ』
わかってるよ、父さん。
でも、あんたが教えてくれたのは、乾いた射撃場の、動かない紙の的だ。
目の前にいるこいつらは、数日前まで『人間』だったものだ。
雨に濡れた髪。
だらりと垂れ下がったネクタイ。
その顔は、腐敗と飢餓で歪んではいるが、確かに『顔』だった。
「グ……ァ……」
一番前の、スーツ姿の『デッド』が、間合いを詰めてきた。
あと、3メートル。
2メートル。
もう、待てない。
俺は、震える指をトリガーにかけた。
息を止める。
狙うのは頭。
絞るんだ。
――パンッ!
鼓膜が破れそうな、乾いた炸裂音。
狭い路地裏で、銃声は千の雷鳴となって反響した。
腕に、経験したことのない衝撃が走る。
熱い硝煙の匂いが、雨と腐臭に混じって鼻を殴った。
「ヒィッ!」
ノアが耳を塞いで悲鳴を上げた。
だが――手応えが、ない。
スーツの『デッド』は、確かに胸をのけぞらせた。
そのワイシャツに、新しく赤い穴が開いている。
だが、止まらない。
一瞬よろめいただけのそいつは、再び、壊れたゼンマイ仕掛けのように、俺に向かって腕を伸ばしてきた。
(嘘だろ……!)
外した!
いや、当たった。
だけど、頭じゃなかった。
父さんの言葉が脳内で明滅する。
『奴らは頭を撃ち抜くまで止まらない』
パニックが、背筋から脳天までを駆け上がった。
もう、目の前だ。
腐った手が、俺の頬の傷跡に触れようと伸びてくる。
その口から、死んだ魚のような匂いと、低い唸り声が漏れた。
「――うわあああああっ!」
俺は恐怖に任せて、銃口をそいつの顔面に押し付けるようにして、もう一度、引き金を引いた。
パンッ!
今度は、耳鳴りよりも先に、生々しい感触が手に伝わった。
何かが砕ける音。
熱い血と、正体不明の体液が、俺の顔とジャケットに飛び散った。
スーツの『デッド』は、頭の半分を吹き飛ばされ、ようやくその動きを止め、俺の足元に崩れ落ちた。
……やった。 殺した。 俺が、今、人を。
「イーサン! 後ろ! 後ろも来てる!」
ノアの絶叫が、俺を現実に戻した。
最悪だ。
さっきの二発の銃声。
それは、この一帯の『デッド』すべてに、俺たちの居場所を知らせる号砲になった。
俺たちが逃げてきた路地の入り口からも、新たな群れが、ぞろぞろと集まってくる。
挟まれた。
完全に。
残弾は、3発。
(どうする、どうする、どうする!)
頭が真っ白になる。
父さん。あんたのせいだ。
俺にこんなもの(リボルバー)を押し付けて。
ノアを守れ、なんて。
無理だ。
子供の俺に、何ができるって言うんだ!
『ノアの“目”を信じろ』
父さんの最後の言葉。
ノアの目?
こいつは、ただ震えて泣いてるだけじゃないか!
「イーサン……もう、だめ……パパ……ママ……」
ノアが、その場にへたり込んで、絶望に顔を歪ませる。
(ふざけるな……! こいつ……! いつもそうだ!)
こいつが泣くから、咳をするから、母さんはいつもこいつばかりで。
こいつが病弱だから、俺はいつも我慢して。
こいつのせいで、俺は母さんに最悪の言葉を吐いたんだ。
(こいつさえ……こいつさえいなければ、俺は……!)
憎しみと恐怖が、胃の中で混ざり合う。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
見ろ。周りを見ろ。
壁。窓。ゴミ箱。
何か、何か逃げ道は――
(――あれだ!)
視界の端。
俺たちの頭上、3メートルほどの高さに、古びた鉄製の非常階段が、錆びた姿を晒していた。
一番下のハシゴが、途中で途切れている。
だが、ジャンプすれば、手が届くかもしれない。
(俺一人なら、あの非常階段に飛びつけるかもしれない。逃げられるかもしれない)
弟を、うとましいと思っていた弟を、今ここで「見捨てる」という選択肢が、脳裏をよぎった。
この重荷さえなければ。
(でも……ダメだ。父さんが……父さんが、最後に『命令』したんだ。俺は……守らなきゃ、いけないのか……嫌ってたこいつを……!)
問題は、時間だ。
前後の『デッド』が、もう10メートルもない距離まで迫っている。
ノアを抱えて、登る時間なんてない。
(時間を、稼ぐ)
俺は、迫り来る群れに向き直った。
残弾、3発。
群れの『足』を止めるんだ。
(――くそっ! 一か八かだ!)
俺は、前方の群れの、一番先頭にいた『デッド』の、その『頭』を狙った。
呼吸を止める。
絞る。
パンッ! パンッ!
立て続けに二発、撃った。
一発は、狙い通り一体の頭を吹き飛ばした。
もう一発は、別の個体の肩をえぐった。
倒れた『デッド』が、後続の『デッド』の足に絡みつく。
ほんの数秒。
ほんの数秒だけ、奴らの動きが、鈍った。
「――ノア! 今だ! あのハシゴだ!」
残弾、1発。
俺はリボルバーをジャケットのポケットにねじ込むと、ノアの脇に腕を差し込んで無理やり立たせた。
「イーサン、無理だよ! 届かない!」
「うるさい! できなくてもやるんだよ!」
ハシゴの真下。
俺は壁に背をつけ、自分の膝の上にノアを立たせた。
「飛べ!」
「で、でも!」
「いいから飛べえええっ!」
俺が怒鳴りつけると、ノアは泣きながら、錆びた鉄のハシゴに向かって、小さな手を伸ばした。
指先が、かする。
届かない。
背後で、唸り声が大きくなる。
もう、すぐそこだ。
「もう一回だ!」
俺は、自分の持てる限りの力で、ノアの体を空中に放り投げるように押し上げた。
「うわっ!」
今度は、ノアの手が、ハシゴの一番下の段を、確かに掴んだ。
「登れ! 振り向くな!」
ノアが、必死の形相で、濡れて滑る鉄骨をよじ登っていく。
その小さな背中を見届けた俺は、ハシゴの真下で、自分も跳躍した。
だが、雨で濡れたブーツが、壁を蹴る瞬間に滑った。
「――ッ!」
指先が、ハシゴにかすった。
だが、掴めない。
着地と同時に、バランスを崩してアスファルトに手をつく。
その瞬間、ガッ、と。
俺の左足のブーツを、何かが掴んだ。
さっき、俺が足元に撃ち殺した、あのスーツの『デッド』だ。
いや、違う。
そいつの影から這い出てきた、別の『デッド』の手だった。
「――っ、離せ!」
俺は、カーゴショーツのポケットからアーミーナイフを引き抜こうともがく。
だが、その手は、死人のものとは思えない力で、俺の足首を掴んで離さない。
そして、その口が、俺のふくらはぎに食いつこうと開かれた。
「イーサン!」
ハシゴの上から、ノアの悲鳴が降ってくる。
(ここまでか……! 俺のせいだ。父さんに、母さんに謝れなかった、罰だ……!)
ゴッ!
肉を叩き潰すような、鈍い衝突音。
俺の足を掴んでいた『デッド』の頭が、横殴りに跳ね上がる。
錆びた鉄パイプの先端が、そいつのこめかみに深々と突き刺さっていた。
俺の足首を掴んでいた万力の力が、ふっ、と緩む。
見上げると、そこには、ハシゴの途中に片手でぶら下がったノアがいた。
恐怖と、今自分がしたことへの混乱で顔を引きつらせ、ガタガタと手を震わせている。
ノアが。
あの泣き虫のノアが、俺を、助けた。
息が詰まる。
(ノアが……俺を……?)
さっき、俺が「見捨てよう」と思った弟が。
「……この……!」
言葉にならない。
俺は悪態をつく代わりに、今度こそ全力でジャンプし、ハシゴに掴みかかった。
濡れた鉄骨が、手のひらの皮を裂く。
だが、構うものか。
俺は、ノアの背中を追いかけるように、無我夢中で非常階段を駆け上がった。
下では、俺たちに追いつけなかった『デッド』たちが、狂ったようにハシゴに手を伸ばし、唸り声を上げている。
3階、4階……そして、屋上。
俺は、屋上へと続く重い鉄の扉を蹴破るように開けると、先に着いていたノアの腕を掴み、二人で屋上のコンクリートの上に転がり込んだ。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
荒い息が、雨音に混じる。
アドレナリンが、急速に体から引いていく。
途端に、全身の倦怠感と、凍えるような寒さが、俺たちを襲った。
俺は、屋上の端まで這っていくと、身を乗り出して下を見た。
路地裏は、俺たちが撃った4発の銃声に引き寄せられた『デッド』で、黒い川のように埋め尽くされていた。
「……う……」
胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。
俺は、屋上の縁に、胃液をぶちまけた。
殺した。
俺は、殺したんだ。
そして、弾丸を、4発も無駄にした。
父さんの形見。
残り、たったの1発。
「……イーサン……寒い……」
後ろで、ノアが、歯をガチガチと鳴らしながら震えていた。
その唇は紫色になり、びしょ濡れのパーカーが、氷の鎧のように体に張り付いている。
(……こいつ、このままじゃ……)
喘息持ちのノアにとって、この雨と冷えは、デッドと同じくらい致命的だ。
俺は、自分の着ていたカーキ色のユーティリティジャケットを脱ぐと、それでノアの体を、頭からぐるぐる巻きにした。
「……少しはマシだろ」
「……うん」
ジャケットを失った俺のTシャツに、豪雨が容赦なく叩きつける。
罪悪感じゃない。
怒りでもない。
ただ、あまりにも寒くて、情けなくて、歯がガチガチと鳴った。
このままじゃダメだ。
屋上は、一時しのぎにしかならない。
雨を防げる、安全な場所を探さないと。
俺は、屋上から建物内へ続く、もう一つの扉――屋上アクセス用の階段室の扉に目をつけた。
取っ手は、頑丈な南京錠でロックされている。
「……ちくしょう」
最後の1発で、これを撃つか?
馬鹿か。
この建物の『中』にいるかもしれない『デッド』まで呼び寄せることになる。
俺は、靴を脱いで思いっきり殴りつける。
「開け……開けよ、この野郎!」
俺は、苛立ちに任せて、何度も錠を殴りつけた。
くそっ、無駄だ。
どうする。
このまま、ノアと二人で、この屋上で凍え死ぬのか?
俺は、リボルバーを握りしめた。
撃鉄を起こす。
だが、銃口を錠前に向けた瞬間――俺は、動きを止めた。
扉の横。
換気口の点検用だろうか。
強化ワイヤーが入った、小さなガラス窓があった。
(……これだ)
俺は、銃を構えるのをやめた。
代わりに、リボルバーを逆手に持つと、その重い鉄のグリップ(銃床)で、窓ガラスの中心を、思い切り殴りつけた。
ガシャン!
雨音にかき消される、鈍い破壊音。
ガラスに、クモの巣状のヒビが入る。
もう一回。
さらにもう一回。
ワイヤーに阻まれながらも、どうにか腕一本が入るだけの穴が開いた。
俺は、割れたガラスで腕が切れるのも構わず、穴に手を突っ込み、内側のサムターン(鍵)に指をかけた。
ガチャリ、と。
重いロックが外れる音がした。
「……よし」
俺は、扉をゆっくりと開けた。
カビと埃の匂いが、暗闇の向こうから漂ってくる。
建物の中だ。
『デッド』がいるかもしれない、暗闇。
俺は、ノアの手を固く握った。
「行くぞ、ノア。静かにしろ。何があっても、声を出すな」
ノアは、俺のジャケットにくるまったまま、小さく、こくりと頷いた。
俺たちは、雨の屋上から、一歩、建物の暗闇へと、足を踏み入れた。
階段を、一段、また一段と降りていく。
ここが何階建てのビルなのかも、何のビルなのかもわからない。
ただ、今は、雨風をしのげる壁が必要だった。
踊り場に差し掛かった時、ノアが俺の袖を弱々しく引いた。
「……イーサン、あれ……」
ノアが指差す先の壁に、色褪せた『避難経路図』が貼ってあるのが、かろうじて見えた。
「今はいい」
俺はノアの小さな手を強く握り直した。
「そんなもの見てる暇はない。早く安全な場所を見つけないと」
『デッド』がいつこの階段を使ってくるかわからない。
一刻も早く、隠れられる場所が先決だ。
最上階の、次の階。
まさにその時だった。
一つのアパートのドアが、ほんの少しだけ、開いていた。
中の暗闇が、俺たちを手招きしているようだった。
「……ノア、ここで待ってろ。壁から離れるな」
俺は、ノアを廊下に残すと、リボルバーを握り直し、ゆっくりと、その隙間に足を踏み入れた。
リビング。キッチン。
食卓の上には、食べかけのシリアルと、腐りかけたミルク。
逃げ出した住人の、生々しい痕跡。
俺は息を殺し、一番奥の寝室のドアに手をかけた。
もし、ここに『デッド』がいたら?
最後の1発を、ここで使うのか?
俺は、意を決してドアを蹴り開けた。
「――ッ!」
ベッドの上に、人影。
俺は銃を構えた。
だが、それは動かない。
ただの、丸められた毛布だった。
浴室。
シャワーカーテンの向こう。
俺は、勢いよくカーテンを引きちぎった。
――誰も、いない。
「……クリアだ」
俺は、廊下に戻り、震えているノアの手を引いた。
「ノア、こっちだ」
二人でアパートの中に滑り込む。
そして俺は、重いソファを音を立てないように引きずって、入り口のドアの前に置きバリケードにした。
これで、いい。
少なくとも、今夜は。
乾いたカーペットの上に、二人で腰を下ろす。
「……イーサン……」
ノアが、俺のジャケットを握りしめたままつぶやいた。
「……僕……僕、怖かった……」
「……わかってる」
「……ごめんなさい……僕が、鉄パイプ……」
「……いいんだ。お前のおかげで、助かった」
ノアは、その言葉に安心したのか、それとも、ただ限界だったのか。
カーペットの上で、丸まったまま、すぐに浅い眠りに落ちていった。
その寝顔は、ひどく汚れて、やつれていた。
眠れるはずがなかった。
バリケードにしたソファの冷たい革に背を預け、息を殺す。
どれだけそうしていただろう。
俺は衝動的に立ち上がり、ブラインドの隙間から外を、地獄を、覗き込んだ。
雨は、まだ止まない。
アスファルトを叩きつける豪雨の音に混じって、遠くで火の手が上がり、街が燃えている。
時折、人間の最期を告げる甲高い悲鳴が響いた。
さっきから、地響きを伴う爆発音も断続的に続いている。
俺は、ポケットからリボルバーを取り出した。
指先でシリンダーを回す。
……空、空、空、空。
そして、未使用の弾丸が、ひとつ。
たった、1発。
左手のポケットには、父さんの血でぐっしょりと重い絵手紙。
西の検問所。
アラスカの叔父さん。
どうやって?
この、化け物だらけの街を。
どうやって抜けろって言うんだ?
12歳と、喘息持ちの10歳が。
二人きりで。
暗い窓ガラスに、情けないガキの顔が映っていた。
頬には、生々しい擦り傷。
顔中に飛び散った、さっき浴びた『デッド』の黒い血。
俺は、リボルバーを握りしめた。
グリップを握る指先が、さっき引き金を絞った時と同じように、みっともなく震えていた。
(ノアを守る? ……無理だろ、父さん。あんたの命令、重すぎるよ……)
弾は残り1発。
自分の身を守るのですら精一杯なのに、ノアまで守り通せる自信なんて、欠片もなかった。
父さんの最後の命令は、希望なんかじゃなかった。
それは、12歳の俺に無理やり背負わされた、あまりにも重い「呪い」で、「重荷」だった。
俺は、その重荷から逃げ出す勇気もなく、ただ、隣で眠るノアの浅い呼吸音だけが響く暗闇に、囚われ続けていた。




