第4話:瓦礫と罪
世界が、燃えている。
鼓膜の奥で、キーン、と甲高い金属音が鳴り続けている。
父さんが、母さんが、パトカーが、俺たちを追っていた『デッド』の群れが――何もかもが、目の前の巨大な火柱となって天に昇っていく。
熱風が、焼けたガソリンと、肉が焦げる甘ったるい匂いを俺の顔に叩きつけた。
「……う……うぅ……パパ……ママ……」
隣で、アスファルトに突っ伏したまま、ノアが泣きじゃくっている。
その声が、麻痺していた俺の意識を、地獄の現実へと無理やり引きずり戻した。
『ノアを守れ』
父さんの最後の言葉が、燃え盛る炎の音に混じって反響する。
(無理だ)
頭が、その言葉の受け取りを拒絶する。
(父さんだって死んだんだ。あんなに強かったのに。俺が? 12歳の、まだ子供の俺が、何をしろっていうんだよ……)
右手に握られた、父さんの形見の、熱を失くした重さ。
左手に握りしめた、血に濡れた叔父の住所《絵手紙》の、ぐっしょりとした感触。
重い。
何もかもが、重すぎる。
その時、炎の音やノアの泣き声とは違う、「音」に気づいた。
「……あ……」
低い唸り声。
濡れたアスファルトを、何かを引きずるような足音。
シャッ……シャ……。
爆発という「晩餐の鐘」を聞きつけた『デッド』たちが、新たな獲物(俺たち)に気づき、ぞろぞろと闇の中から湧いて出てくるのが見えた。
壊れたパトカーの炎が、奴らの腐った顔を不気味に照らし出す。
一体、また一体と、ゆっくりと、しかし確実に、俺たちを取り囲み始めている。
「……ひっ……」
喉が、凍りついた。
(ダメだ。食われる)
父さんの命令とか、アラスカとか、そんなものは全部吹き飛んだ。
ただ、「死ぬ」という原始的な恐怖が、背骨を駆け上がった。
「……ノア」
声が震える。
「ノア、立て! 立つんだ!」
「いや! パパが……パパがまだ……!」
「父さんはもういない!」
俺は叫んだ。
それは決意の叫びじゃない。
恐怖に裏返った、ただの悲鳴だった。
「来る! 奴らが来てる!」
俺は、ノアの細い腕を掴んで、無理やり引き起こした。
重い。
弟の体も、この恐怖も。 でも、足を動かさなければ、食われる。
「こっちだ!」
行く当てなんてない。
とにかく、あの炎から一番遠い通りへ。
俺は、氷のように冷たくなった弟の手を、リボルバーを握っていない方の手で、強く掴んだ。
ノアを引きずるようにして、雨の闇雲へと走り出した。
どれだけ走っただろうか。
その時、前方の交差点を、俺たちと同じように逃げている二人の人影が見えた。
サラリーマン風の男と、ハイヒールが折れたのか、裸足で走っている女の人だ。
「あの! 助けてください! 一緒に……!」
俺は、ありったけの声で叫んだ。
大人がいれば、少しはマシかもしれない。
しかし、男は一瞬だけ忌々しげにこちらを振り返ると、獣のように怒鳴り返した。
「うるさい! こっちに来るな! 厄介事を持ち込むな!」
女も、泣きながら首を横に振っている。
彼らも、生き残るのに必死だった。
他人のことなど、それどころではないのだ。
その、一瞬。
男が俺に気を取られた、その一瞬だった。
曲がり角から飛び出してきた数体の『デッド』が、男の肩に掴みかかった。
「うわあああっ!」
男がアスファルトに倒れる。
女が、金切り声を上げた。
「きゃぁああああ! ジャクソン!」
「助けてくれぇええ!」
男は叫んだが、無数の『デッド』が、あっという間にその二人の人影に群がった。
肉が引き裂かれ、甲高い悲鳴が雨音に混じって途切れる。
「あ……あ……」
俺は、目の前で人が食われる光景に、足がすくんだ。
ノアが、俺の後ろで「ひっ」と息を飲む。
「――見んなっ!! 行くぞ!!」
行く当てなんてない。
西とか東とか、そんなことを考える余裕もなかった。
ただ、一番近くにあった建物の影――狭く、ゴミの悪臭が漂う路地裏へと、ノアを引きずり込むようにして転がり込んだ。
壁に背中を押し付け、二人分の荒い息を殺す。
遠くから、無数の唸り声と、何かを引きずるような足音が、この場所に向かって集まってくるのがわかった。
俺は、ゴミ袋の山に立てかけられている一本の鉄パイプに気づいた。
古びた足場の残骸だろうか。
長さは1メートルもない、子供の俺でもなんとか振り回せそうな、錆びた鉄の棒。
俺はそれを掴み取り、まだ泣きじゃくっているノアの胸に押し付けた。
「ノア、これを持て」
「……やだ……なにこれ……こわい……」
ノアが、蛇でも見るような目でそれを見つめ、後ずさろうとする。
「『やだ』じゃない!」
俺は、父さんが俺に銃を押し付けた時のように、有無を言わさぬ声で怒鳴った。
「俺がやられたら、どうするんだ! これで戦え! 自分のことは自分で守れ!」
「できないよぉ……パパ……」
「うるさい!」
俺は、ノアが背負っていた小さなリュックサックのサイドポケットに、その鉄パイプを無理やりねじ込んだ。
リュックが不格好に歪み、ノアがその重みによろける。
「いいな! 絶対に手放すな! それがお前の武器だ!」
俺は父さんを失ったばかりの弟に、あまりにも酷な命令を下していた。
だが、そうでもしないと、心が張り裂けてしまいそうだった。
父さんは俺にリボルバーをくれた。
なら、俺はノアに武器を渡さなければならない。
そういうルールなんだと、無理やり自分に言い聞かせた。
どうする。
これから、どうすればいい。
父さんの最後の言葉が、頭の中で反響する。
『西の検問所だ! 軍と合流する!』
父さんの最後の言葉が、爆発の耳鳴りの中で反響する。
西の検問所、マンハッタン橋。
ここはクイーンズだ。
西へ向かうには、イースト川を渡ってマンハッタンに入らなければならない。
このまま大通りを進むか?
ダメだ。
父さんが運転するパトカーで進んだときでさえ、あれだけの『デッド』が群がってきたんだ。
徒歩でまともに進めるわけがない。
どうすればいい?
頭が働かない。
(そうだ、授業参観)
ふと、記憶が蘇った。
父さんも母さんも来てくれなかった、あの社会科の発表。
俺は、この街の地理について調べたはずだ。
父さんの分署の近所。
安全な裏道。
地下鉄の路線図。
全部、覚えているはずなのに、パニックと罪悪感で、頭の中に分厚い霧がかかったように何も思い出せない。
12歳の俺に、何がわかるっていうんだ。
父さんは、俺に射撃を教えた。
ノアを守れと命令した。
でも、こんな最悪な状況をどうやって生き残るか、その「やり方」までは教えてくれなかった。
「……ヒッ……けほっ、ごほっ……!」
隣で、ノアが息を詰まらせた。
恐怖と冷えが、最悪の時限爆弾のスイッチを押す。
喘息だ。
「ノア、静かにしろ! 吸入器は!」
俺は、怒鳴るというより、懇願していた。
(やめてくれ。頼むから、静かにしてくれ……!)
ノアが震える手でパーカーのポケットを探り、吸入器を取り出す。
それを数回吸い込み、どうにか激しい発作は抑え込まれた。
だが、その弱々しい呼吸音さえ、この静寂の中では『デッド』への合図になりかねない。
(薬……そうだ、薬……)
この吸入器がなくなれば、ノアは死ぬ。
(俺は……守れるのかよ。こんな、咳一つで死ぬかもしれない弟を)
その時、ポツリ、と。
俺の頬に、冷たいものが当たった。
見上げると、ビルの隙間から見える空は、火事の煙で赤黒く濁り、そこから冷たい雨が落ち始めていた。
最初は数滴だった雨粒が、急速に勢いを増し、アスファルトを叩きつける豪雨に変わっていく。
最悪だ。
体温が奪われる。
ノアの体力が、尽きる。
(どうするんだよ……父さん……)
俺は、ゴミ袋の山に背中を預けたまま、リボルバーを握りしめた。
アラスカの叔父? 軍の検問所?
そんな遠い希望じゃない。
俺たちには、今夜を越すための「屋根」と「薬」が必要だ。
父さんの命令は、まだ俺の心に届かない。
ただ、腕の中で震えるノアの体温と、背後で降り続く雨の冷たさだけが、俺の「今」だった。
(動かないと。でも、どこへ?)
雨音は、俺たちの息遣いや、ノアの咳き込む音をかき消してくれるかもしれない。
だが、それは『デッド』の足音もかき消すということだ。
俺は、氷のように冷たくなった弟の手を、拳銃を握っていない方の手で、強く掴んだ。
路地裏から一歩、表通りへ踏み出す。
そこは、地獄だった。
雨に濡れた『デッド』たちが、先ほどの爆発音に引き寄せられ、パトカーの残骸に群がっている。
俺たちが隠れていた路地は、幸いにも奴らの進行方向から外れていた。
息を殺し、壁伝いに移動する。
一体、また一体と、腐った肉の匂いを放つ化け物の横をすり抜けていく。
ノアは、歯の根も合わないほどガチガチと震え、俺の手に爪を立てている。
(大丈夫だ。このまま、この角を曲がれば――)
そう思った瞬間。 ノアが、濡れたアスファルトに落ちていた何かに足を取られた。
「わっ……!」
小さな悲鳴。
ガシャン! と、ノアがゴミ箱の蓋を蹴飛ばす音が響いた。
一斉に、何十もの『デッド』の頭が、こちらを向いた。
腐った眼球。
飢えを隠さない、濁った瞳。
「……あ」
「――走れええええっ!!」
俺は、ノアの腕を掴んで、全力で駆け出した。
「ハァッ…ハァッ…!」
焼けつくような痛みが、肺から喉までを逆流してくる。
もう、とっくに限界だ。
冷たい豪雨が、割れたアスファルトを叩きつける。
その音だけが、耳の中でしつこく反響している。
でも、止まれない。
止まるわけには、いかない。
背後。
濡れたコンクリートを、何かが『引きずる』音。
シャッ……シャ……。
耳障りな摩擦音。
そして、腹の底から絞り出すような、低い唸り声。
その音は、確実に数を増しながら迫ってくる。
ニューヨーク。
父さんと母さんが死んだ、この街。
俺が「ノアなんていなければ」と最低の言葉を吐いた記憶も、全部ここに染みついている。
そんな思い出の街は、今や『デッド』と呼ばれる――奴らの狩り場に変わってしまった。
「ノア! 走れ! わかったか、絶対に足を止めるな! あのビルの角までだ!」
俺は12歳の細い腕で、弟の体を無理やり引っ張った。
だが、ノアが、ついにアスファルトの上に膝を折った。
もともと病弱な弟の体力は、休みない疾走と恐怖で、もうカラッポだった。
「イーサン…もう、むり……」
か細い声が、雨音に溶けて消えそうになる。
やめろ。
そんな声を出すな。
俺たちは、路地の角を曲がった。
その先が、行き止まりでないことだけを祈って。
(ちくしょう……!)
路地の向こう側から、5体、6体……いや、もっと多い。
ずぶ濡れになったオフィスワーカーの残骸。
配達員の制服を引きちぎったやつ。
どいつもこいつも、濁った眼球を俺たち二人に向け、飢えを隠さない。
挟まれた。
俺はジャケットの下、ベルトに差し込んだ父さんの形見に手を触れた。
S&W M10リボルバー。
冷たく、重い鉄の感触。
シリンダーの残弾は、五発。
父さん。
あんたの命令、俺は……俺は、守れるのかよ。
俺は、泣き崩れたノアの小さな背中を庇うように立ち、震える手で、銃の撃鉄を起こした。




