第3話:代償
「……なんだよ、これ……どうなってんだよ、これ……」
俺の、乾いた喉から漏れた呻きは、誰にも届かない。
マンハッタンの摩天楼から、いくつもの黒煙が柱となって天を突いている。
空は燃え、地上は阿鼻叫喚の地獄だった。
血に濡れたアスファルト。肉片の散らばる歩道。
ワイパーが、フロントガラスに飛び散った真新しい血飛沫を、赤黒いスジとなって拭い去っていく。
杖を突いた老人が、背後から迫る『デッド』の群れに引き倒されるのが見えた。
逃げ惑う若い女が、路地裏に引きずり込まれ、その悲鳴が甲高い音を立てて肉が裂ける音と共に途切れた。
老人も子供も、男も女も、すべてが等しく奴らの餌食となっていた。
食い破られる者の断末魔と、明日なき逃走を続ける者たちの絶叫が、街全体で一つの巨大な不協和音となっている。
ニューヨークが地獄に堕ちたその中心を、俺たち家族を乗せたパトカーが切り裂いていく。
サイレンを狂ったように吠えさせ、おびただしい死体を無慈悲に踏み越え、一方通行を逆走する。
この街はもう、終わっていた。
父さんが運転席を握り、俺が助手席。
後部座席では、弟のノアが、ぐったりとした母さんを抱きかばうように震えている。
血糊と硝煙に汚れた父さんの横顔が、ワイパーの向こうの地獄を射抜いている。
それは俺の知っている、週末にキャッチボールをしてくれた「父さん」の顔ではなかった。
あらゆる感情を殺し、ただ生き残るためだけに前進する――戦場の兵士の顔だった。
「父さん、一体どこへ向かってるんだよ!」
俺は、ダッシュボードに掴まりながら叫んだ。
「……西の検問所だ。軍と合流する。あそこなら、まだ組織が機能しているはずだ。事態が落ち着くまで、そこで保護してもらう」
「“軍と合流する”って……でも、父さん、警察は……!」
「……今日『壊滅』した。NYPDはな」
父さんは、吐き捨てるように言った。その声には、一切の感傷もなかった。
「警察が……? 嘘だろ、父さん! ただの暴動の対応で……!」
「『暴動』じゃない!」
父さんの怒声が、サイレンの音を突き破る。
「あれは……もう、お前がスマホで見ていた『悪魔』そのものだ」
その時、俺は十字路から、黒い津波のような「悪魔」の群れが溢れ出てくるのを見た。
父さんは獣のように罵声を浴びせ、アスファルトが軋むほどの急ハンドルで歩道に乗り上げる。
だが、乗り捨てられたタクシーを避けようとした瞬間――ガコン!と鈍い衝撃が車体を揺らした。
俺たちは、何かを撥ねた。
「ひっ……パパが……人を…! 人を引いちゃった…!」
ノアが、後部座席で金切り声を上げた。
「人じゃない」
父さんが、ルームミラー越しに、血走った目で……驚くほど冷静に、そう言い放った。
その冷徹な声が、サイレンの音より、ノアの悲鳴より、俺の耳に突き刺さった。
「いいか、イーサン、ノア! よく聞け! あれはもう人じゃない! 奴らは…『デッド』だ!」
「デッド…? なんだよ、それ!」
「『死人』だ。奴らはもう生きてない。脳天をブチ抜くまで止まらない、動く死体だ。いいか、絶対に、絶対にやつらに噛まれるな」
父さんは、前方を睨み据えたまま、俺に命令した。
「イーサン、ダッシュボードを開けろ」
俺が言われるがまま開けると、S&W M10 リボルバーが鈍い光を放って転がり出てきた。
父さんが新人時代に使っていたという、古い回転式拳銃。
オートマチックと違って「弾詰まりしない」という理由で、父さんが「万が一の護身用」として、俺に射撃の基礎を教えてくれていたものだ。
「……それを持て」
「え……?」
「使い方は教えたはずだ。いいか、軍に合流するまでが正念場だ。これからは、お前がノアを守れ。父さんも母さんも……この先どうなるかわからない」
「そんな…!」
「もう、俺たちの知ってた世界は終わったんだ」
俺は、父さんの絶望的な宣告に、呼吸の仕方を忘れた。
「もし……万が一、軍もダメで、すべてが終わった時は……アラスカの叔父さんを……」
父さんが、最悪の可能性を口にした、その時だった。
後部座席から、ノアの震える声が響いた。
「ねぇ、パパ……ママが……ママが、変なんだ」
俺は、錆びたブリキ人形のように、首をギギギと後ろに向けた。
後部座席で横たわっていた母さんが、ゆっくりと起き上がるところだった。
「…くそっ…キャサリン…! そんな…変わってしまったのか…!」
父さんが、ハンドルを殴りつけんばかりの勢いで呻いた。
「……あ……う……」
全身を痙攣させ、喉の奥から獣の唸り声を上げる母さん。
焦点の合わない濁った瞳。
……そこには、もう、俺の知っている母さんはいなかった。
「ママ……? なにを……」
「ぁああああああ……」
獣じみた咆哮と共に、母さんがノアの細い腕に噛みつこうと襲いかかる。
俺はとっさに助手席から身を捩じり、後部座席に手を伸ばして母さんの髪を掴んだ。
ノアから引き剥がそうと、ありったけの力で!
「ひっ! やめてママ! 僕だよ、ノアだよ! 正気に戻って! ママァ!」
昨夜、俺が「いなければいい」と呪った弟。
その弟を、俺が「ノアのことばかり構いやがって」と罵った母が、食い殺そうとしている。
最悪の皮肉が、脳を焼く。
だが、その瞬間、パトカーが路上の『何か』に乗り上げた。
車体が凄まじい衝撃と共に跳ね上がり、俺は助手席に叩きつけられる。
掴んでいた母さんの髪が、無慈悲にも指の間を滑り抜けた。
その一瞬の隙。拘束を逃れた母さんの牙が、ノアの白い喉元へ迫る――!
「――やめろおおおおっ!!」
俺の絶叫は、鼓膜を突き破る乾いた銃声に掻き消された。
パンッ!
父さんが、運転席から振り返りざま、ダッシュボードから奪い取ったM10リボルバーで――母さんの頭を、撃ち抜いた。
熱い硝煙の匂いと、生臭い血の匂いが、狭い車内に充満する。
ノアのパーカーに、母さんだったものの血肉が、熱い雨のように飛び散った。
……時間が、止まった。
ノアは声も出せずに失禁し、俺は、父さんが、母さんを、撃った――という現実が、理解できなかった。
父さんの苦悶の表情がルームミラーに映る。
「……キャサリン……すまない……」
――その直後。
視界が、白く染まる。
凄まじい衝撃と、鉄が引き裂かれる絶叫。
父さんが、妻を撃った悲しみで、前方を省みた、ほんの一瞬。
その、たった一瞬の遅れが、俺たち家族の運命を分けた。
パトカーが、交差点の横転トラックに激突し、すべてが砕け散った。
「ぐ……っ、ぁ……!」
俺はダッシュボードに顔面を叩きつけられ、口の中に鉄の味が広がる。
割れたフロントガラスが、スローモーションの雨のように車内に降り注いだ。
何よりも先に、鼻を突く強烈な匂い。
……ガソリンだ。
「……ぐ……っ!」
運転席で、父さんが呻き声を上げる。
ひしゃげたドアの鉄骨に左腕を挟まれ、そこからおびただしい量の血が流れ出ていた。
エンジンルームからは、シュー……と何かが漏れる不吉な音と、黒い煙が上がっている。
「イーサン! ノア! 大丈夫か! 返事をしろ!」
父さんの、切羽詰まった声が鼓膜を揺らす。
ダッシュボードに叩きつけられた衝撃で、脳がぐちゃぐちゃにシェイクされたみたいだ。
口の中に広がる鉄の味と、割れたフロントガラスの破片が頬を伝う痛みで、自分がまだ生きていることを辛うじて理解する。
「う……うん。俺は、大丈夫……ノアは……」
首が軋む音を立てる。
振り返ると、そこには、俺の知っている弟はいなかった。
ノアは、後部座席で微動だにしなかった。
さっき失禁した濡れたズボンのまま、そのすぐ隣に横たわる『母さんだったもの』の亡骸から視線を外せずに。
その小さな体は恐怖に凍りつき、カタカタと小刻みに震え、声という機能そのものを失っているようだった。
「……ぐっ……!」
父さんが、押し殺したような呻き声を上げた。
ひしゃげたドアフレームとダッシュボードの間に、父さんの左腕が挟まれ、見るも無惨に潰されている。
制服の青い生地は瞬く間に赤黒く染まり、シートに夥しい血溜まりを作っていく。
シュー……。
エンジンルームから立ち上る黒煙と、鼻を刺す強烈なガソリンの匂い。
この鉄の棺桶が、いつ火を噴いてもおかしくない。
父さんは、その砕けた腕の激痛に顔を歪ませながらも、血まみれの右手で、さっき母を撃ったばかりのM10を俺の胸に押し付けた。
まだ硝煙の生々しい熱と、こびりついた母の血が、俺の手にこびりつく。冷たくて、重い鉄の塊。
俺は、悲鳴を上げそうになる喉を必死で押さえつけ、それを握りしめた。
「これを持って、ノアとここから逃げろ。いいか、イーサン! 弾は残り5発だ! 決して無駄撃ちするな! 頭を狙え、わかったな!」
「父さんは!? 父さんも一緒だろ!」
「俺はいいから……! それより、やつらが……デッドがもう集まってきている」
父さんの言葉通り、衝突音という「晩餐の鐘」を聞きつけた『デッド』たちが、新たな獲物に気づき、ぞろぞろと闇の中から湧いて出てくるのが見えた。
壊れたパトカーを、まるでハイエナのようにじりじりと取り囲み始める。
「馬鹿なこと言うなよ! 腕が潰れただけだろ!? 早く腕を抜いて、一緒に逃げるんだ!」
「俺はもう動けん」
父さんは、俺の絶叫を遮るように、静かに言った。
「……腕だけじゃない。脇腹に、トラックの鉄くずが刺さってる……もう、長くはもたん。俺はここまでだ」
父さんは、砕けた骨が軋む音を無視するように、空いた右手で自分の制式拳銃をホルスターから引き抜きながら、淡々と呟いた。
「はぁ? 何言ってんだよ! そんな……そんなことできるわけないだろ! 置いてなんて行けるかよ!」
「ガソリンが漏れている、もうすぐ火が回る。俺に構うな、早く行け!」
その冷静な言葉が、俺たちの脱出が「救助」ではなく「切り捨て」であることを、残酷なほど明確に突きつけていた。
「聞け、イーサン。お前は兄だ。何があっても……何が、あってもだ……弟を守れ」
父さんは、制服の胸ポケットから、血に濡れ、ぐっしょりと重くなった一通の絵手紙を掴み出した。
父さんは、それをリボルバーを握る俺の手に、無理やり重ねて握らせた。
「軍だ! 西の検問所、マンハッタン橋に向かえ! あそこならまだ組織が機能してる! 保護してもらえるはずだ! ……万が一、軍もダメなら……アラスカの叔父を頼れ。この手紙の住所だ。……いいな、イーサン。必ず、生き延びろ……!」
父さんは、そこまで一息に言うと、ふと、後部座席で凍りついているノアに視線を移した。
「……そしてノア。……聞いているか」
父さんに声をかけられて初めて、ノアは『母さんだったもの』から視線を外し、虚ろな瞳で父さんを見た。
「お前は、お前にしかない力がある。父さんも、お前に何度も助けてもらったよ」
死に瀕しているとは思えないほど、父さんの声が、一瞬だけ優しくなる。
「……ははっ、覚えてるか。数年前、家族旅行の帰りにハイウェイで道に迷ったとき……あの時も、お前が『こっちだよ』って教えてくれなかったら、俺たち、今頃どこで野宿してたか……。あの時のお前は、本当に頼りになった……」
その思い出話は、この地獄にはあまりにも不釣り合いで、俺の胸をナイフのように抉った。
そして、父さんは、ほとんど息だけの声で、最後の言葉を託した。
「……ノアの“目”を信じろ……。イーサン、お前が知らないだけだ……。こいつは、お前が考えてるよりもずっと頼りになる……。だから、必ず二人で協力して……生き残るんだ……」
「っ……!? パパ! いやだ! パパ! 置いていかないでよぉ!」
父さんの言葉が、ノアの凍りついた心を無理やりこじ開けた。弟が、この世の終わりのように泣き叫ぶ。
「二人とも、元気でな……」
父さんは、血にまみれた右手の甲で、そっとノアの頬を撫でた。
そのゴツゴツした、血と硝煙に汚れた手が、ノアの涙を優しく拭う。
そして、次の瞬間。
父さんの顔から、すべての優しさが消え去った。
俺達の脱出口である助手席側に群がってきていた「デッド」の壁に、オートマチックの銃口を突きつけた。
パン! パン! パン!
至近距離から放たれた銃弾が、窓を叩いていた数体の頭を汚物のように弾け飛ばす。
一瞬だけ、地獄の包囲網に、『道』ができた。
「今のうちだ! ノアを連れて行け!」
「でも……父さん……!」
俺の足が、助手席に縫い付けられたように動かない。
「はやく行けぇええええええ!!」
父さんの、父親としての最後の絶叫。
俺は、歯を食いしばり、涙で歪む視界のまま、ノアの細い腕を掴んだ。
ほとんど引きずるようにして、父がこじ開けた一瞬の『道』へ、歪んだ助手席のドアを蹴破るようにして飛び出した。
俺たちは、血と油とガソリンに濡れたアスファルトへ、無様に転がり出る。
「走れ! イーサン! 振り向くな!」
父さんの最後の命令。
だけど、俺は。
……俺は、振り向いてしまった。
俺の「父さん」が、この世から消える瞬間を、見てしまった。
運転席の割れた窓から、無数の「デッド」の手が雪崩れ込み、父さんの制服を引き裂き、肉に食らいつく。
肉が裂け、血が噴き出す。
その、想像を絶する苦痛の中で。
「父さん……!」
だが、父さんは、そのおびただしい数の手に食い荒らされながら、俺の知っている父さんではありえない、凄絶な笑みを浮かべた。
痛みも、恐怖も、絶望も、すべてを超越した、最後の笑みだった。
そして、自分を襲っている「デッド」たちにではなく――その銃口を、天に向けた。
パン! パン! パン! パン!
父さんは、自らを囮に、残りの弾丸を空に向かって撃ち続けた。
それは、地獄の底から響き渡るような、俺たち二人への『エール』だった。
生きろ、と。
行け、と。
その銃声が、地獄の祝砲のように、周囲のすべての「デッド」の意識を、爆発寸前のパトカーへと釘付けにする。
「……あ……あああああああああっ!」
俺の喉から、声にならない叫びが漏れた。
その瞬間。
漏れ出したガソリンに、銃声の火花が引火した。
――世界が、光と音に飲み込まれた。
ドオオオオオンッ!!
凄まじい爆発が、夜のニューヨークを真昼のように照らし出す。
灼熱の爆風が背中を殴りつけ、俺とノアはアスファルトに叩きつけられた。
熱い。痛い。耳が聞こえない。
だが、俺は振り返った。
振り返ったアスファルトには、もう何もない。
父さんも、パトカーも、母さんの亡骸も、群がっていた『デッド』も。
すべてが、巨大な火柱となって天を焦がしていた。
まるで、父さんの魂が、天に昇っていくように。
右手に握られた、父さんの形見の、熱を失くした重さ。
左手に握りしめた、血に濡れた叔父の住所《絵手紙》の、ぐっしょりとした感触。
頭が真っ白だ。
何も考えられない。
『ノアなんて、いなければ』
昨夜、俺が吐き捨てた、最悪の言葉。
あれが最後だった。
母さんにも、父さんにも、「ごめんなさい」の一言も言えないまま、全部終わった。
俺が、あんなことを言ったから。
俺のせいで。
胸を埋め尽くすのは、息もできないほどの「後悔」。
だが、それよりも強く、父さんの最後の声が頭にこびりついて離れない。
――『ノアを守れ』
そうだ、命令だ。
父さんの、最後の……。
(俺が? 俺がノアを守る? 無理だ。父さんだって死んだんだ。あの強かった父さんですら、あんなにあっけなく死んだのに。12歳の俺に、何ができるっていうんだ……!)
隣でノアが虚ろに泣きじゃくっている。
だが俺は、その手を掴むことさえできず、ただ、燃え盛る父さんの最期を呆然と見つめ続けていた。




