第2話:崩壊
「朝か……」
ベッドの中で目を覚ました時、俺が最初に感じたのは、耳が詰まったような『違和感』だった。
うるさいはずのクイーンズ名物の高架鉄道の走行音も、階下の住人が朝から叩くヒスパニック系の音楽も、何も俺の耳に届かない。
まるで分厚い雪にでも覆われた朝のように、街から音が消えていた。
だが、窓の外は雪景色どころか、焦げ臭い何かが混じった煙の匂いが、隙間から俺の鼻に忍び込んできた。
「ノアなんて、いなければ」――。
あの夜。
俺が最悪の言葉を吐いてから、三日が経っていた。
結局、俺の授業参観には誰も来なかった。
父さんは「非常招集」で、あの日から一度も家に帰っていない。
俺は母さんともノアとも、ほとんど口を利かなかった。
我ながらひどいことを言ったと思う。
最悪の気分だった。
どうしようもないイライラが胸を焼く。
俺はベッドの下の箱から、隠していたタバコのパッケージを取り出した。
一本引き抜いて口にくわえ、マッチを擦ろうと構える。
だが、火をつける寸前で、その手を止めた。
……こんなことをしても、何も変わらない。
頭も冷えた。
今日こそ、ちゃんと謝らないと。
そう思ってリビングのドアを開けた俺は、目の前の光景に凍りついた。
ソファに丸まったノアが目に入った。
その傍らで、母さんがぐったりと寄りかかっている。
「母さん? どうしたの」
俺は思わず声をかけた。
「……イーサン……ママが……」
母さんの顔は、昨夜よりもひどく赤く上気し、額には脂汗が滲んでいた。
焦点が合っていない。
右腕のガーゼは、赤黒い血でぐっしょりと濡れ、『腐ったような匂い』さえ漂っていた。
「熱が……すごい熱なんだ。朝からずっと、うなされてて……僕が話しかけても、答えてくれなくて……」
ノアが、泣きそうな顔で俺の服の裾を掴んだ。
その時。
ドガン!!
階下で何かが爆発するような音が響いた。
ガラスが割れ、聞いたことのない獣の咆哮が聞こえる。
「――っ!」
とっさに窓に駆け寄った。
俺の目に映ったクイーンズのありふれた通りは、地獄に変わっていた。
燃え盛る車、逃げ惑う人々。
そして、その人々を、ゆっくりとした、しかし容赦ない足取りで追い詰める「何か」。
昨夜、スマホの動画で見た、焦点の合わない目をした「悪魔」そのものだった。
「ひ……」
隣で、ノアが息を飲むのがわかった。
その瞬間、玄関のドアが『蹴破られんばかりの勢い』で開いた。
「イーサン! ノア! キャサリン!」
飛び込んできたのは、血と硝煙の匂いをまとった父さんだった。
武装した「警察官」の姿だった。
「父さん! どうしたの、それ!」
「説明は後だ! 荷物をまとめろ、今すぐこの街を出る!」
父さんは、ソファの上の母さんを見て、絶望的な顔で目を見開いた。
「……キャサリン……まさか、昨日の傷か……!」
「あ……あなた……?」
朦朧としながら、母さんが夫を見上げる。
「あ……あたまが、割れそう……熱い、熱いの……」
「くそっ!」
父さんは、ためらうことなく母さんを横抱きにすると、俺たちに叫んだ。
「裏の駐車場にパトカーを隠してある! 走れ! 何があっても立ち止まるな!」
アパートの廊下は、俺の想像を絶する惨状だった。
俺の目の前で、俺たちを追い越そうとした隣人が、階段の踊り場から現れた『悪魔』――変わり果てたアボットさん――に喉笛を食い破られ、引きずり込まれていった。
「足を止めるな!」
父さんは俺の頭を無理やり前に向けさせ、ノアの手を引いて階段を駆け下りた。




