第19話:光と別れ
四日目の「朝」が来た。
俺の安物の腕時計が刻む無情な秒針が、マイクが噛まれてから四日目の始まりを告げていた。
(……母さんは、三日だった )
俺は、ケンジの背中に背負われたマイクの、ぐったりとした背中を見つめた。
(こいつは、四日目だ。――まだ、『人間』でいる)
彼は、もはや意識と呼べるものをほとんど保っていなかった。
高熱にうなされ、地下の闇に、意味をなさないうわごとを響かせる。
「……あしゅりー……ごめん……おれ……」
「ここにいるわ、マイク! 大丈夫、ここにいる!」
アシュリーは、背負うケンジの横に寄り添い、マイクの冷たい手を握りしめ、必死に声をかけ続ける。
それは、もはや恋人への言葉ではなく、消えゆく命をこの世に繋ぎ止めようとする、悲痛な祈りそのものだった。
彼の『人間』としての時間は、アシュリーの呼びかけと、彼自身の鋼のような意志だけで、かろうじて引き伸ばされていた。
その時。
「……イーサン」
俺のジャケットの裾を、ノアが強く引いた。彼が、ふと立ち止まる。
「……光。……カビ臭くない、外の匂いがする……」
「え?」
ノアが、前方の暗闇を指差した。
トンネルの、ずっと先。
懐中電灯の光が届かない、遥か彼方。
そこには、これまで俺たちがいた澱んだ闇とは違う、淡い、灰色の『光』が、差し込んでいた。
「……出口だ」
ケンジが、湿った路線図と光を照らし合わせ、確信の声を上げた。
「ブルックリンの……ダンボ地区の、古い非常口だ。ここから地上に出る」
「……う、そだろ……? 着いた、のか……?」 リッキーが、泣き声混じりに呟く。
「ブルックリン……!」
サラが、張り詰めていた糸が切れたように、その場にへたり込んだ 。
三日間の闇。
ついに、着いた。
俺たちの、地獄の第一章が終わったのだ。
「……アシュリー」
ケンジが、光を背に、最後尾を振り返る。
アシュリーは、地上へ続く階段を見つめ、そして、腕の中で荒い息を繰り返すマイクを見下ろした。
彼女の顔には、安堵も、絶望もなかった。
ただ、この瞬間に下される判決を待つ被告人のような、静かな表情だけがあった。
「……マイク」
アシュリーが、恋人の頬を、わずかに強く叩く。
「着いたよ。……ブルックリンだ。あんたの、私たちの、街だ」
「……あ……」
マイクの目が、奇跡のように、うっすらと開いた。
その濁りかけた瞳が、アシュリーの姿を捉える。
「……ぶるっく……りん……? ……ああ……そうか……」
血の気の失せた唇が、微かに、本当に微かに、笑みの形を作った。
「……アシュリー……。……お前が……無事で……よかっ……た……」
彼は、この地獄の底で、アシュリーが「光」と呼んだその意志だけで、まだ「人間」のままだった。最期の最期まで、人間だった。
ケンジが、俺を見た。
「……イーサン。お前とノアが先に行け。こいつの『目』 がなければ、俺たちはここで終わってた」
それは、現実主義者であるケンジなりの、最大の賛辞だった。
俺は、ノアの手を強く握り、階段に足をかける。
「ノア、こけるなよ」
「……うん」
俺が階段を登り、リッキー、サラが続く。
最後に、ケンジがアシュリーを、そしてアシュリーがマイクを、互いに支え合うようにして、光の中へと続いた。
重い鉄の扉を押し開ける。
地下の闇に慣れきった目に、朝の鈍い光が容赦なく突き刺さった。
鉛色の、朝の空だ。
雨は止んでいたが、街全体が湿った空気で満たされている。
乗り捨てられた車。
散乱するゴミ。
そして、遠くで聞こえる『デッド』の唸り声。
だが、間違いなく、地上だった。
冷たく湿った、本物の大気が、カビの匂いに侵された肺を洗い流していく。
「……ハァ……ハァッ……!」
アシュリーは、マイクの体を路肩の壁にゆっくりと座らせた。
まるで、これ以上ないほど大切で、壊れやすい宝物を扱うように。
三日間の地下の空気を吐き出し、鉛色の空気を吸い込む。
だが、その空気は、生者のものではなかった。
ケンジが、瓦礫の山が連なる通りの向こうを、黒縁眼鏡の奥から鋭く見据え、指差した。
「……あそこだ。マンハッタン橋だ。あそこが、俺たちの第二章の始まりだ」
ビルの隙間から、イースト川を跨ぐ、巨大な橋の『主塔』が、鉛色の空に突き刺さるように聳えていた。
ケンジ、サラ、リッキーの三人は、その絶望的な距離にある「未来」を、見据えていた。
だが、アシュリーだけは、橋を見なかった。
彼女の視線は、熱に浮かされるマイクの手に、固く固く結ばれていた。
そして、自分が育ったブルックリンの、汚れたアスファルトを見つめていた。
「……ケンジ」
アシュリーが、立ち上がった。
その声は、奇妙なほど、静かだった。
「……約束だ。……私たちは、ここで別れる」
その声は、この地獄で誰もが聞きたくなかった宣告だった。
ケンジは、何も言えなかった。
リアリストの彼だからこそ、これが論理的な結末だとわかっていた。
だが、ギルドマスターとして、仲間として、その論理を認めることを、全身が拒絶していた。
彼はただ、眼鏡の位置を押し上げ、彼女から目をそらすように、小さく頷いた。
「嫌よ……アシュリー!」
沈黙を破ったのは、サラの悲鳴だった。
彼女はアシュリーの腕にすがりついた。
「そんなの……! 一緒に……検問所に行こうよ! まだ、マイクだって……! 治療を受ければまだ、間に合うかもしれないじゃない!」
「サラ」
アシュリーは、泣きじゃくるサラを、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うように、そっと抱きしめた。
「……友達だから、ダメなのよ」
彼女の声が、わずかに震えた。
「あんたは、生きなきゃダメ。絶対に、生き延びなきゃダメなんだ」
彼女はサラの背中を二度、三度と優しく叩き、次に、嗚咽をこらえるリッキーの肩を、わざと乱暴に押した。
「リッキー。あんた、サラとケンジに迷惑かけんじゃないよ。……いいね?」
「……わかって、るよ……わかってる、けど……っ」
リッキーは、声を絞り出すのがやっとだった。
「……イーサン」
アシュリーが、俺を見た。
その目はもう、薬局で俺を睨みつけた「ワル」のそれじゃなかった。
どこか遠くを見るような、穏やかで、諦念に満ちた目だった。
「あんたには、でかい借りができちまったね。……薬局でのこと、それにマイクのこと。結局、借りを返せないまま終わっちまうのは、残念だよ。本当に、残念だ」
俺は、彼女の湿っぽい感傷を振り払うように、わざと、視線をそらして吐き捨てた。
「はっ、なに言ってやがる。俺があんたに何を貸したってんだ。ブルックリンの悪童に返してもらう借りなんて、端からねえよ」
「……ハ。生意気なガキ。本当に、最後の最後まであんたは可愛げがないね」
アシュリーは、そんな俺の虚勢をすべて見透かしたように、ふ、と力なく笑った。
その笑みは、どこか懐かしむようで、そして、どこか寂しげだった。
その視線が、俺の後ろで小さく震えているノアに向けられる。
「……ノア。あんたもだ」
彼女は膝をついて、ノアと目線を合わせた。
「……あんたの兄貴、生意気で可愛げのないクソガキだけど……あんたが、支えてやんな。頼んだよ」
彼女は、ノアのパーカーのフードをそっと直し、だが、その目は、ノアを真っ直ぐに、まっすぐに見つめていた。
そして、俺のほうに向き直る。
「……いいか。何があっても、絶対に、だ。……二人で、生き残れ。約束だよ、イーサン」
それは、自分たちの未来を諦めた女が、俺たち子供に託した、最後の『希望』であり、血を吐くような『願い』だった。
俺は、何も答えられなかった。
喉が、何かに詰まったように、声が出なかった。
バールを握る手に、爪が食い込む。
「……行くよ、マイク」
アシュリーが、恋人に語りかける。
「あっちが公園だ。覚えてるだろ。……天気のいい日、二人でよくサボった。あんた、いつも私の膝枕で寝てたよね」
「……ぁあ……」
「今日は、私があんたの膝枕、借りてもいい? ……ねえ、マイク」
アシュリーは、朦朧とする恋人――彼女の「光」であった男の腕を肩に回し、ケンジたちが目指すマンハッタン橋とは、逆の方向へ。
ブルックリンの、冷たい朝靄の中へと。
二人の、最期の場所を探すために、ゆっくりと、でも確実に歩き出した。
俺たちは、その二人の背中が、瓦礫の角を曲がって見えなくなるまで、誰も、何も言えずに、ただ、立ち尽くしていた。
遠く、デッドの唸り声が響く。
マイクの、人間としての時間は、終わろうとしていた。
そして、これから俺たちの、地獄の第二章が、今、始まろうとしていた。




